
伊藤英明とミムラ共演の切ないラブストーリー。梶尾真治の原作「クロノス・ジョウンターの伝説」を、『黄泉がえり』の塩田明彦が映画化。過去にタイムスリップしたことで、人生で大切な何かを見つけていく物語。映画全編を盛り上げるクラシック音楽が印象的な作品で、クライマックスには各界から注目される金聖響がオーケストラを指揮している。[もっと詳しく]
まるで阿弥陀の慈悲のように。
「黄泉がえり(甦り)」というテーマは、古今東西の、物語の原型のひとつである。
それを、ちょっと、「サイエンス」の味付けをすれば、タイム・トラベラーものとなる。「時空の入り口」を設定すれば、ファンタジーの世界となる。
そして、ほとんど「記憶の物象化」とみなせば、夢見の心的現象となる。
「黄泉」は彼岸であり、そこから魂(スピリット)が、此岸を往来することになる。
欧米のキリスト教的世界観からいえば、天国からの追放ないし帰還となる。
仏教的世界観からいえば、輪廻の循環に入りきらず、彷徨う魂が、現世と浄土的世界の中間に佇んでいることになる。
そこに、強い思念を復讐心とみなせば呪いの物語となり、アニミズム(精霊崇拝)的な共同幻想とみなせば禁忌の物語となり、死の世界への慰藉とみなせば鎮魂の物語となる。
同じ物語的構造にあったとしても、時代と文化の諸相によって、たとえば、香港と韓国と日本のそれぞれの現れ方を見ると仮定しても、異なった現象のように、立ち現れることになる。
過去からと未来からで対位する2作品
2003年、原作梶尾真治+監督塩田明彦のコンビによって、「黄泉がえり」が映画化された。竹内結子、草薙剛主演、特定の地域で、過去に死んだ人間達が、一定の期間、現世に戻ってくるという素朴な回帰の群集劇であった。
3週間の予定のマイナーな上映計画であったが、柴崎コウの「月のしずく」の主題歌の大ヒットとともに、映画もロングランとなった。
「胸いっぱいの愛を」は、その3年後、同じコンビで映画化された。今度は、過去から現世ではなく、現世から過去への「黄泉がえり(甦り)」が主題となった。
塩田監督は叙情的だ。
主役は、主人公(鈴谷比呂志)に伊藤英明、ヒロイン(青木和美)にミムラ。群集劇であり、エンドソングは柴崎コウ。図ったように、前作「黄泉がえり」と対位法的に創られている。
鈴木比呂志が過去への旅人として戻ってしまったのは、父が亡くなり、東京の母から小学校の一時期、預けられた門司の実家近く。時代は20年遡った1986年である。
小さな旅籠宿をいとなむ実家の玄関口で、少年が飛び出してくる。20年前の自分、ヒロ(富岡涼)である。
祖母(吉行和子)も当然、比呂志とヒロが同一だと思わない。比呂志は正体を隠し、居候をすることになる。
比呂志とヒロ。20年前の俺!
ヒロは、母から離れ孤独である。転校先でもなじめない。そんなヒロを癒してくれるのは、近所のそばやの娘の青木和美(ミムラ)。
和美は東京で音楽学校を首席で卒業したようだが、なぜか、門司に帰ってきている。ヒロは和美に将棋を教え、和美は逆にヴァイオリンを教えてくれる。
「和美姉ちゃん」が好きになるのは、比呂志も同じである。
和美の翳は、なぜか。
あるとき、「もうじき、死んでしまうのよ」と和美に打ち明けられる。脳にできた腫瘍のため、指も動かなくなってきた。和美に生きる気力がなくなっている。手術は、成功率が低く、障害も残る。ヴァイオリンに夢をかけていた和美には、手術を受ける意志もない。
比呂志に封印されていた記憶が甦る。好きだった「和美姉ちゃん」。
いまのヒロと同じように、無力な自分は、和美姉ちゃんをおいて、東京に舞い戻ってきてしまった。
今度は、そういうわけにはいかない。ヒロは、俺だ。
ここで、和美姉ちゃんに、生への希望を持たせるのは、自分の役割。そのために、自分は、甦ってきたのだ。
ミムラはヴァイオリンを特訓した
タイムトラベラーの原則からいえば、異なる時空に影響を与えれば、未来が変わってしまう、だから、観察者としてしか、関与できない。
まして、昔の自分と時空を共有することはありえない。多かれ少なかれ、その規定の中で、物語の成立を考察してきた(時空パラドックス)のに、このコンビはそのお約束をなかったことにしてしまう。
誰が考えてもわかる矛盾の発生に、ご愛嬌ですね、と目を瞑るしかないのだが・・・。
この、ヒロ&比呂志と和美の物語を主軸としながら、甦りの前に飛行機に同時に乗り合わせ、同じく20年前の門司に漂着した3人のエピソードが挿入される。
テーマは「人生でひとつだけやり直すことができるなら・・・・」である。
各人のやり残したこと。自分だけのわだかまり。
「ひとつだけのやり直し」。魅力的なテーマである。
現世の属性は関係ない。仏教的に言えば、阿弥陀仏の「御計らい」とでもいうべきで、等しなみに、大きな「慈悲」にあずかれることになる。
19歳のやくざもの布川輝良(勝地涼)は、レイプされ身篭った母に会いに行く。
母は、自分を産んで死んだ。「ててなしご」で育ち、ろくなことをしていない俺、母さん、こんな俺を産んじゃダメだ!保母をしている若い母は、健気にいう。「お腹をさわってごらん、動いているんだよ」。
少年やくざは、それ以上、言えない。産んでくれたお母さんの愛は、眩しいほどわかった。
目が不自由な老婦人朋恵(倍賞千恵子)の心残りは、長年連れ添った、盲導犬のアンバーの最後に立ち会えなかったこと。
老いた盲導犬の施設を訪ねあて、朋恵はアンバーを呼ぶ。よろよろと、アンバーは気力を振り絞って朋恵に駆け寄る。
影の薄い男臼井光男(宮藤官九郎)は、受験勉強のノイローゼから隣家のおじさん(中村勘三郎)が道行く人を楽しませるために、丹精に愛情をこめて石垣を利用して拵えた花々を植木鉢ごと破壊する。
有名な数学者になった20年後もそのことがずっとひっかかっていた。
隣人は、鉢植えを換えながら、光男に話しかける。
「壊した人が、気の毒でねぇ。花は植え替ればいいけれど」
光男はぼろぼろ涙を流しながら、謝る。
「ごめんなさい、ずっとずっと謝りたかったんです」。
それぞれのひっかかり。
なにが大事で、なにが小事か、そこには、世間的価値はない。
その人だけの、ひっかかり、その人だけの、生きてきた意味。
自分達は、もう、死んでいる。
東京発北九州行きの、飛行機。この4人はたまたま、乗客として乗り合わせ、事故に遭遇する。
この4人に還るべき現世はない。やり残したことに出会う。想いを遂げたら、自分は消える。
阿弥陀のささやかな慈悲であろう。
どんな人にも、たぶん、封印している「物語」があるのだろう。
日々は、よしなし事に追われて、経過していく。それなりの人生。
けれど、きっと、なぜ、あのとき、という自分の後悔を携えて生きているのだ。
もし、走馬灯のように、死ぬ前に人生が映像化されるとすれば、きっと、その「悔い」が、まっさきに頭をよぎるだろう。
「黄泉がえり」は、脳内の最後の幻影といってもいいかもしれない。
この世界は、すべて、幻想の産物だと、みなすことも出来るからだ。
その意味で、僕たちは飽きず、こうした「甦り物語」を、再生産し、同種の文学や映画に、心を動かされることになるわけである。













現世からの黄泉がえり・・予告編などは結構感動させるものがあったんですが、個人的にはイマイチな内容だったのがちょっと残念です。
出きれば脚色が加わっていない、原作のままのストーリーを映画にして欲しかった所もあります。
他人の見解や感想を見るにつけなるほどなぁ、と思う事が多いですがとても参考になるエントリーに膝をうちました。
ノベライズのラストのほうが好きなので映画でダメ出しするなら真っ先にそこ、の私です。
原作は、タイムトラベラーの中篇の集合ですね。いくつかの可能性を、探っているようでした。
>mahitoさん
原作があり、映画になり、その脚本からノベライズされ、という流れかしら・・・・。
ヒロの最後の願いとして、和美姉ちゃんを救うことが出来て、素直に感動する作品だとは思うのです。
しかし、どうしても未来を変えてしまったことに
私自身が執着して、感動には至りませんでした・・・。
僕は、「愛嬌」として、目を瞑ったんですけどね(笑)
早速遊びにきましたよ。
ブログ読ませて頂きました。
詳しく書いてあっていいと思います。
また遊びに来てください。
誰にでもやり残した事の一つや二つはありますね・・・。
私はなんだろうと考えさせられた物語でした。
突然の出来事で亡くなった人、残された人はどちらも準備ができていないのですから、こんなふうに会いに行きたいし、会いに来てほしいなと思いました。
それと お墓参りをちゃんとしようと思いました。
毎月ちゃんと墓参りに行ってはいるんですけどね^^
こんにちは。僕は、遣り残したことありすぎて、黄泉がえりにも、迷いそうです(笑)
>sinさん
毎月、行かれるんですか。えらいですねぇ。
僕も、墓参りは、好きなほうです。
塩田監督の最良作といえば、99年製作の「どこまでもいこう」でしょうか。とにかく、子供の扱い方にかけては、邦画界随一ではないかと・・・・。
まあ、どっちかというと、彼はメジャーで撮るよりミニシアター系作品で真価を発揮する作家だと(今のところは)思います。
原作者の梶尾真治は確か熊本出身。「黄泉がえり」は読んだことがないのですが、初期の作品における熊本弁の使い方にはニヤリとしてしまいます(熊本に住んでいたことがあるので・・・・)。
それじゃ、これからもヨロシク(^o^)。
この映画も悪くはないのですが、原作の方がずっと良かったですね。
「どこまでもいこう」というのは、見ていないんですよ。ビデオになっているのかしら。
>ケントさん
梶尾さんは、ストーリーをこしらえるのが、上手な人ですね。
TBありがとうございました。
読み応えある文章と写真で素敵なブログですね。
過去を変えるのはやはりマズイのでしょうね。
SF的には。
あまり気にせず観てしまいました。
これからも宜しくお願いします。
私もこんな風に、しっかりとした文章をかけるようになりたいな〜とおもいながら読んでました。
しかし、過去を変えたことにより、比呂志が死ぬという未来(現在?)は変わらないのだろうか、とそこだけが不満でした。…と言うか、変えて欲しかった…(笑)
全体的には好きでした。
こんにちは。当然、製作者の側も、そんな初歩のパラドックスをよく、知っているはずです。科学的リアリティはどうでもよくて、日本にはよくある、「お盆」的な、魂の浮遊物語を、強引にファンタジー化したのかな、と思いました。
やっぱ、比呂志が死んでくれないと、お話にはならないでしょうね(笑)
自己犠牲物語では、ないんですよね。
黄泉がえりにしても、この作品にしても、最初は違うけど、そのうち、現世に戻った側が、また、離れるんだということを、自覚化するようになりますね。
そこが、ポイントなんだろうと思いますよ。
TBありがとうございました。
映画で観まして、気に入りましたので、保存版としてDVDを購入しました。
素晴らしい、構成力ですね。感心しました。
今後ともよろしくお願い致します。
こういう映画を、保存版とするとき(購入)、どういうタイミングで見直します?
僕は、本はやたらと、買うんだけど、映像は、買わないんですね。
買い出したら、とんでもないことになるしね(笑)
やり直しというテーマ。
魅力的ですねぇ。
いつの時代に翻りたいだろうと考えてみた結果、
僕はもう最初っからやり直したいと思っちゃったり。
最初からやり直したら、それは、「自分」じゃなくなっちゃうけれどもね(笑)。経験値ゼロ!
コメントをいただいてから、冒頭の飛行機のデザインと、現在運航中のスターフライヤーのデザインが気になって写真で比べてしまいました(笑)。もしよろしかったら御覧ください。
ごていねいに(笑)
スターフライヤーはいいですね。フランスの会社のデザインだったですよね。世界初のブラックボディ。早く、乗ってみたい。
少し、バタバタしていたので、逆TBだけして、ほっぽってました。(^^;
いつも、内容が濃いというか、独特な感じで、面白く読ませてもらってます。
1つだけ、やり直したい事があるとしたらって、考えたけど、ぱっと思いつかない私って・・(^^;
ひつつだけ・・・ねぇ。
このファンタジーでも、自分で考えて、選ぶということではないですね。
瞬間的に、その時空に、引き戻される。
たぶん、無意識にひっかかっていたもの、封印してきたもの、が解き放たれる、という感じなんでしょうかね。
色々批判しておきながら、好きか嫌いかと問われれば「どちらかといえば好き」と答える。
僕にとってはそんな作品だったと思います。
それもこれも、「やりのこした事」という普遍的なテーマに共感しているからこそなのかもしれません。
普遍的なテーマですからね。
いま、この原作だけでなく、もういちど、梶尾真治のいろんな短編集をよみかえしているところです。
映画もそうだけど、梶尾さんは、久しぶりなんですよ。昔、彼の短編が好きでね。
もういちど、ここ10年ぐらいの作品を読み返しています。
ミムラのバイオリンは臨場感ありました(*^▽^*)
これからもこういったジャンルの映画に泣かされていきたいと思います( ̄m ̄〃)
バイオリンなんかは、特訓したらしいけど、構え方とか、上半身の動かし方とか、擬態がそれらしくなるためには、相当、たいへんだろうなあ、と思いますね。
舞台『クロノス』の再演があったら、是非その感想も書いてくださいね。
「クロノス」に関しては、ネットで調べて見ます。ありがとう。
この記事の中にある「俺たち死んでるんだぜ」で阿弥陀の慈悲を感じたって文に納得できましたし、映画の中でも3人が死んでるという事実を受け止めた上で、最後のシーンにつながっていくのにジーンときました。
この映画でもね、そんなのありえないとか、つじつまがあわない、とか、いろんな感想が寄せられていますけどね。夢の世界と同じで、矛盾は前提だと思うんですね。
「黄泉がえり」のお話には、必ずどこか哀しさと、それから魅力を含んでますよね。
私個人的には、映画は「この胸いっぱいの・・・」よりは「黄泉がえり」の方が好きですが。。
あれ、2回目でした?失礼しました。
RSSがずっと、まったく機能していないので、適時、思いついたときに、TBしたりしています。
「黄泉がえり」とどうしても、比較しちゃいますね。スタッフがスタッフですからねぇ。
この作品も、原作は、かなり面白いんですけどね。
「ひとつだけのやり直し」が切実だったので・・・・
「ひとつだけのやり直し」というのは、誰にとっても、胸を打たれるテーマですね。
私の記事にコメントありがとうございました。
コメントいただいてから随分時間が経ってしまいましたが、こちらにもコメントにさせてください。
私は地元が舞台という事で、記事をムリヤリ盛り上げましたが、映画としてはイマイチだったと感じています…
ラストの天国(?)っぽいシーンは意図はわかりませんが、私には蛇足と感じましたし、こういったテーマにも関わらず泣かせられもしなかったです。
では、また伺います。
映画としての出来は、よくないですね。
最後のシーンも0、馬鹿にするなっという感じで(笑)
こういう映画の場合は、僕は、いい悪いというより、別のところに関心を移して、なにかを、残そうとするようにします。
諦めが、いいほうなのかしら(笑)
邦画が洋画よりも私は気になってしまうので、DVDですが、この作品を観ました。
良い悪いはよく分からないのですが、ミムラがいつもとちょっと違う雰囲気の役柄かなと(他の作品をあまり知らないのですが…^^;)感じて、新鮮でした。
子役の男の子がお気に入り。
クドカンのシーンで感動できたので、ひとまず『良し』としています(笑)
僕は、こういうベタな娯楽作品は、ひとつでも感動させるところがあれば、それで、よしとします(笑)
クドカンのところは、僕も、感動しました。
したがって、とりあえず、よし、と。
あまり自分からTBを送るほうでないもので、ご無沙汰したままでごめんなさい。
いつもながら、凄い分析ですね。
なるほど「脳内幻影」とすれば、あの最後の最後のシーンも腑に落ちるように思います。
この映画、よくあるタイプだよなあ、と感じ、劇場では見なかったのですが、予想よりはよかったです。20年後の「手に繋いだ弦」に感動しました。
本当はこの塩田監督は、「カナリア」のような小品のほうが好きなんですけどね。
「黄泉がえり」もこの映画も、何度も何度も、取り扱われたテーマなんですけどね。ただ、誰にも、時を超えられたらという願望があり、そこにひきつけられるものがあるんだと思います。
TB有難うございました。
今までにないようなお話だったので新鮮でした。
最後はあまり納得出来ませんが…。
僕も、最後は、ああいうかたちにしちゃうのは、好きじゃないですね。
結末はどっちも好きじゃなかったんですが、人間関係は見て(読んで)いて感動しました。
いつかまたこういう系の話に巡り会いたいものです。
僕はやはり、クドカンの小さなエピソードかな。
世界的数学者なんでしょ。それが、ムシャクシャして、隣の花をぐしゃぐしゃにしたことをずっと気に病んでいたんですね。
泣けました。
TBありがとうございました。
こちらの記事を読んでいてさえ、瞼がじ〜んとしてきます。
私はこの4つのエピソードもキャスト好きでした。ありそうで、共感できます。
ただ、、ラストは余計でしたが^^;
ラストは当然、見なかったことにしましょう(笑)
生意気なようですが、折角の好材料なのに、もっと巧く作れなかったのかと、、。
おっしゃるとおりですね。
なんか、塩田監督にしては、平板なつくりだなあ、と。
題材は面白いんですよね。
>過去から現世ではなく、現世から過去への
主人公の立場も逆になっていますね。
亡くなった人々を見る立場から、生きている人々を見る立場へと。
記事を書いた時はぼかしましたが、タイム・パラドックスはありますね。
前作の方が映画として上手く作られているように思いますが、結構ほろりとさせられるところもありました。仰るように、この手の映画は全体の完成度が悪くても、良いのではないかと言う気がしますね。
そう、やっぱり結構、ほろりと来てしまうんですね。
「死ねば死にきり」ということは、わかっているんだけれど、やっぱりどこかで、阿弥陀の慈悲を幻想したくなる自分がいます。