サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 10472「カティンの森」★★★★★★★★☆☆

2010年07月20日 | 座布団シネマ:か行

第二次世界大戦中、ソ連の秘密警察によってポーランド軍将校が虐殺された「カティンの森事件」を、ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督が映画化した問題作。長い間明らかにされてこなかった同事件の真相を、ソ連の捕虜となった将校たちと、彼らの帰還を待ちわびる家族たちの姿を通して描く。父親を事件で殺された過去を持つワイダ監督が歴史の闇に迫った本作は、第80回アカデミー賞外国語映画賞ノミネートをはじめ、世界各地の映画祭で高く評価された。[もっと詳しく]

80歳のアンジェイ・ワイダ監督が、執着したこと。

まだ今年の4月10日のことである。
ポーランド空軍特別機Tu-154(大統領専用機)が、「カティンの森」犠牲者追悼集会に向かう途中で墜落し、レス・カチンスヤカ大統領以下96名の政府要人が、死亡した。
ドナルド・トゥスク首相ら関係者の多くは、3日前の4月7日の記念式典に参加していた。
『カティンの森』の監督である、アンジェイ・ワイダもその式典に参加していたのである。
悲劇である。
プーチン首相以下、ロシア側の要人たちも、この事故を重視し、追悼の意を改めて表明するなかで、ロシア内では映画上映がなかなか進まなかったといわれる『カティンの森』を急遽、国営放送テレビで放映することを決定した。
悲劇には違いないが、これもまた歴史の皮肉のひとつかもしれない。



アンジェイ・ワイダ監督の「抵抗三部作」といわれる『世代』(54年)、『地下水道』(56年)、『灰とダイヤモンド』(58年)は、53年生まれの僕にとっては、70年代に入ってようやく見ることが出来たのだが、まさにバイブルのような作品である。
ワイダ監督は1926年生まれだから、30歳前後の監督作品ということになる。
平らな土地という意味のポーランドの歴史は、いつもヨーロッパ大陸の領土争いの中で蹂躙されてきた。
近代に入って、第一次世界大戦後にようやくヴェルサイヌ条約の民族自決の流れの中で、ドイツ・ソ連から領土の返還を受ける中で、一応ふたたび独立国家が成立した。
しかし第二次世界大戦ではドイツ・ソ連・スロバキア・リトアニアに国土を分割され、特にドイツ・ソ連の独ソ不可侵条約のなかで、1939年9月1日ドイツが、続いて9月17日にソ連が侵攻してくることになるのだ。
映画の冒頭で、ポーランド東部のプク川の鉄橋沿いに避難を続けるポーランド国民が、一方からはドイツが一方からはソ連に追い立てられている様子が映し出されているところだ。
結局、戦後はドイツの敗北により、ポーランドはソ連の傀儡政権が統治する衛星国となった。
ソ連侵攻に抵抗していた政権は、パリそしてロンドンに亡命し、そこから対ドイツ、対ソ連に対するパルチザン闘争のバックボーンになったりはしたが、戦後にポーランドに復帰することはなかった。



以来、ポーランドの民主化闘争は冬の時代に入る。
もちろん、冷戦時代のソ連の軍事力を背景とした支配の強さにもよるが、「カティンの森事件」にも象徴されることなのだが、国の指導層、知識階層、専門家の大半が、戦死したり処刑されたり懐柔されたりしたことの影響で、民主化運動の人材層が枯渇していたとも言われている。
事実、ソ連によって強制連行され収容所送りになったポーランド人は25万人とも言われている。第二次世界大戦後、その強制連行された人たちの中で、身元居住がはっきりしたのは1割程度しかなかったといわれている。
『カティンの森』で、ポーランド軍の将校1万人超をはじめ、技術者・知識人が強制連行され、カティンの森でスターリンの命令で、数千人が虐殺され埋められたのも、その一角である。
ソ連はこの虐殺を公式に認めようとせず、ドイツ軍の仕業だとプロパガンダした。
戦後の冷戦の中で、自由主義国や赤十字・国連などの調査も、腰が引けたものだったと言われる。
結局、ソ連が明確に国家責任を認めたのは、1990年ペレストロイカの中でのゴルバチョフによってであった。



第二次世界大戦後、ポーランドの民主化闘争は30数年封印されてきた。
共産党一党独裁政権であり、その政権はソ連に傀儡されており、東側諸国では秘密警察による密告をもとにした恐怖政治が横行していた。
そのなかで、僕たちの注目を引いたのが、自主管理労組「連帯」の動きである。1980年、連帯が組織され、共産党独裁政権に対して、自由民主主義を求める動きとなった。
前年の79年にポーランド出身のヨハネ・パウロ二世が選出されたこともその背景のひとつでもあった。
僕たちが、自由主義陣営の中での学生運動なども壊滅・自滅していくなかで、思想的に意味があると思えた唯一の大衆運動が、「連帯」であった。
「連帯」闘争も紆余曲折があったが、90年にワレサが大統領に選出され、その前後に雪崩を打つような東欧諸国の民主化運動に波及し、ついにソ連自体が崩壊し、冷戦は終了したのである。
もちろんアンジェイ・ワイダ監督も、先の航空機事故で死亡したレス・カチンスカヤ大統領も、「連帯」の重要なメンバーであった。



アンジェイ・ワイダ監督の父親もポーランド軍の将校であり、「カティンの森」事件の犠牲者の一人であった。
そして母親は、ずっと父親の死亡を、認めたがらなかったという。
その意味でも、この歴史事実を、もう一度風化させずに明らかにすることは、アンジェイ・ワイダの悲願であった。
映画化に当たって、脚本は三十数回、書き直されたという。
そして執念のように、80歳のワイダ監督によって、この作品が世界に送り出されたのだ。
アンジェイ・ワイダ監督は、その映画の歴史への貢献により、2000年にアカデミー賞特別名誉賞が授与されている。「抵抗三部作以降」もコンスタントに映画制作を続け、僕もカンヌパルムドール賞の『鉄の男』(81年)など数作は見ている。
また88年に坂東玉三郎の「ナスターシャ」という舞台の演出をして、話題を呼んだりもしている。



映画に関して言えば、50年代の「抵抗三部作」を70年代に見たときと同じような、政治に翻弄される人間の悲哀や矜持や不条理やといったものを、同じように感じさせられた。
その意味では、半世紀たった後も、アンジェイ・ワイダ監督の軸はぶれていないのだと感じさせられた。
もちろん、当のポーランドでさえ、若者たちからは、「カティンの森」事件も「連帯」運動でさえも風化してきているかもしれない。
世界はますますグローバルなシステム化が進み、敵も矜持も見えにくくなっている。
しかし、アンジェイ・ワイダ監督は、まず「歴史に学べ!」と言うはずだ。



その歴史も、国家や教科書の中に、あるイデオロギーのもとで記述されているものだけではない。
そこに生きた人たちの、知識人も大衆も労働者もすべての生活者が、国家に何を求め、そしてなぜ裏切られてきたのか、ということ。
家族はなぜ平穏に、その中でだけ生きていくことが出来ないのか、ということ。
なぜ人は裏切ったり、沈黙したり、権力を必要以上に行使したりするのか、ということ・・・。
「カティンの森」は歴史の長らく闇に葬られてきた事件であるが、現在の僕たちの世界にも、明らかにされない「戦争」は形を変えて進行している。
それは一見すると「平和」な国家の中にも、無関係な出来事ではないのだということを、アンジェイ・ワイダ監督はメッセージしているように思えてくるのだ。







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4 コメント

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そうですねええ (sakurai)
2010-07-25 12:24:19
ワイダ監督の中に脈々と流れる精神の強さというか、ぶれのなさというか、彼の映画を見るたびに考えさせられます。
そして、そういう映画を彼に作らせ続けた負の歴史を積み重ねる人間の哀しさよ・・と、やり切れないものも感じます。
まだまだ撮る姿を見せるワイダ監督ですが、彼の溜飲の下がる日は来るんでしょうかね。
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sakuraiさん (kimion20002000)
2010-07-26 01:20:46
こんにちは。
強靭ですね。そして、映像そのものが、シャープで現在的です。
ポーランドも一時期、不動産バブルになり、リーマンショック以降も大変な状態だということも聞きました。
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弊記事までTB&コメント有難うございました。 (オカピー)
2011-05-02 22:01:15
TBした後☆の数を間違えたことに気付きました。当方の方は訂正されていますが、TBした先のものは当然変わりません。とにかく今回もkimionさんと同じ☆でしたね。

情けなくも、また自分(の後悔)と映画の中の登場人物(の後悔)とを比較していました。
映画の中にこんなに自分のドッペルゲンガーがいるとは思いませんでしたよ。
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オカピーさん (kimion20002000)
2011-05-03 01:56:32
いつも結果として評価の似ていることが多いですね。
僕はオカピーさんのように客観的なレヴューはあまりうまくなくて、読み手にはどうでもいいような自分と重ね合わせたレヴューしか書けません。
ある意味で、デジャヴューばかりです(笑)
オカピーさんは「喪中」期間とされていますが、もしかしたら僕なんかには真似できないようなフィールドでいい意味で文体に変化が起こるかもしれません。
それもまた、僕は楽しみにしているところがあります。
申し訳ありません。勝手なことを言ってるみたいで・・・。
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