サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 10490「京義線(キョンイセン)」★★★★★★☆☆☆☆

2010年10月09日 | 座布団シネマ:か行
『食客』などで知られるキム・ガンウが主演を務めたラブロマンス。地下鉄運転手の青年・マンスは、自らの運転する列車に飛び込んだ客を図らずも轢殺してしまう。罪悪感に打ちひしがれた彼は、ソウルと北朝鮮の国境を結ぶ電車・京義線に乗り込む。

韓国映画には珍しい静謐な作品。この監督の次回作に期待したい。

韓国には何度も行ったが、38度線の国境には行った事がない。
また、残念なことに仕事の関係での訪韓だったので、列車に乗ることなく、先方の用意した車に乗り込んでの移動だった。
この映画に登場する京義線は、もともと日本が韓国統治下にソウルから満州(中国)国境までの鉄路として、開通させたものである。
大戦の終了があり、その後の朝鮮戦争で北と南の内線で38度線ラインが策定されると、それぞれの国で分断して利用されることになった。
韓国側でいえば、ソウルからムンサンまでが利用されていたが、それがイムジンガンまで延長され、さらに非武装地区であるトラサンに延びている。
この作品で言えば、主人公たちが終点で行き惑うのがイムジンガンであり、タクシーを呼ぼうと電話するのがその手前のムンサンのタクシー会社になっている。
京義線は、北朝鮮と韓国の政治的交渉の中で、いつも「再連結」が交渉テーブルの重要課題になっている。
ここ十年ほども、太陽政策の影響から計画が発表されたり、「核」をめぐる緊張関係から棚上げにされたり、政治に翻弄されているのは否めない。



僕たちは「イムジンガン(臨津江)」という駅名が、イムジン河から来ているものであることに気づくことになる。
フォーククルセーダーズが60年代末に歌い、つまらぬ理由で発禁曲となったあのイムジン河である。
『パッチギ』でも、この歌が南北分断の象徴のように、在日の人たちに歌われていた。
『京義線(キョンイセン)』という作品に、ことさら政治的メッセージが内包されているわけではない。
けれども、記録的な大雪の日の最終電車で、「イムジンガン」という駅に取り残され、もう少し先は非武装地帯であるという設定に、どこかもやもやとした閉塞感の暗喩を感じることは出来る。
いくら京義線が、ソウル近郊をつなぐ代表的な通勤列車だとしても、だ。
取り残された女性のハンナ(ソン・テヨン)が不倫相手の教授と出会ったのはベルリンであり、その頃はまだ「ベルリンの壁」が存在しており、ハンナはその先が東ドイツという環境の中で、寂しさのあまり男を求めたようにも描かれている。
ハンナはドイツ文学の研究者ではあるが、東西ドイツの分断ということと、ここ朝鮮半島の南北分断ということを、どこかで交差させているかもしれない。



マンス(キム・カンウ)はソウル都市鉄道公社のメトロで勤務する機関士である。
この映画で見る限りでは、自動運転にせよワンドライバーであり、勤務時間も煩雑なシフトに従っているようだ。
マンスは貧しい家の生まれで、父子家庭であり、女の子とつきあう余裕もない。
駅舎に泊り込みも多いが、なぜか自分のシフトに合わせるように、「セムト(泉)」という雑誌の発売日におやつといっしょに雑誌をホームで差し入れてくれる、名前も知らない女の子に心を寄せている。
一方でハンナは金持ちのお嬢さんであり、大学院でベルリンに留学したが、そのとき付き合った男は一足早く教授のポストを手に入れ、同じ大学の講師として、不倫関係にある。



まったく世界が異なるふたりが、ある日の京義線の最終電車で、イムジンガンの駅に取り残されることになる。
マンスは夢で、地下鉄のホームから(ホームドアは設置されていない)、誰かが飛び出してきそうな気配に魘されている。
機関士の仲間ならたぶん誰でもそうなのだろう。
自殺者と目を合わせて、逆に精神がおかしくなり、自殺してしまう機関士もいるようだ。
一方、ハンナはずるずると大学講師を続け、不倫相手と関係を継続することに、空虚感を持っている。
お嬢様特有のものかもしれないが、働いて生きることの手ごたえのなさに焦りも持っている。
映画はまことに静かに淡々と、そんなマンスとハンナの日常を、韓国映画には珍しく、とても抑制されたタッチでスケッチしていく。



大雪の夜、泥酔したマンスが京義線最終電車に乗り込む。
飛び込み自殺にとうとう遭遇し、特別休暇を与えられ、あてどもなく乗り込んだのだ。
一方でハンナも誕生日に不倫相手と旅行することが相手の奥方に知られ、非難され殴られ不倫相手の男も誤魔化そうとしていることに嫌気がさし、旅行鞄を持ったまま京義線最終電車に乗り込む。
雪の中、タクシーもつかまらず、歩いてようやくみつけたホテルの一室に入り、ふたりは互いの哀しみを、吐露しあうことになる・・・。
マンスが遭遇した飛び込み自殺の女は、マンスに雑誌を渡していた女性のように描かれているが、それが本当なのかどうかはわからない。
混乱したマンスの錯覚かもしれない。
一方でハンスも、浮遊してきたようにここまできた自分への嫌悪に嗚咽する。
留学の時は、人知れず、不倫相手の子を堕胎したことなども思い出される。
弱ったふたりの行き場のない哀しみが、性愛にもならずに(ホテルのテレビではポルノ映像が流されている)、ただ抱きしめあうことで、一時の捌け口になる。



一年後、ハンスはどうやら『京義線』という題名で小説を発表したようだ。
マンスは機関士を続け、乗客にマイクで、爽やかで温かい、朝の挨拶を流している。
延々と地下を走るメトロの先に、光が溢れている。
監督作品2作目の62年生まれのパク・フンシク監督。
韓国には珍しいかもしれないタイプの、素朴で繊細で晩熟な青年を演じたキム・カンウは、この演技でトリノ映画祭で主演男優賞を受賞した。
美人女優として有名なソン・テヨンは、このあとクォン・サンウとの結婚を発表した。
映画としてみれば、地味で静かな小品である。日本でも劇場未公開だ。
マンスやハンスの「不安」の拠って来る背景を、もう少し分け入って、描くことが出来たのではないかとの思いもある。
けれども、この『京義線(キョンイセン)』という作品に流れている、小さな哀しみ、不器用で実直な日常、内に籠もる寂量といった感覚は、これまでの韓国映画と明らかに異なっている。
音楽もリリシズムに満ちている。
この監督の次作を見てみたい気にさせられてしまう。

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