盆踊りをふり返っている。
父に昔の平礒の盆踊りの様子を聞いたり。
今は、お寺で行っているが、かつて父が若い頃は「下の川」の
現在は柑橘園になっている場所で行っていたとのこと。
今のように電気提灯もないので必ず満月の夜に行われていたようだ。
もちろんレコードといった物はないので、口説きにあわせて踊っていたとのこと。
そういったことを初めて聞いて、盆踊りについて調べていたら、
産経新聞に以下のような興味深い記事があった。
「今年の平礒の盆踊り」
『盆踊りは歴史が長く、無形文化財から近年の新作までじつに
多様な音曲と踊りが、同じ「盆踊り」という言葉で呼ばれている。
地方によっては、念仏踊りや踊り念仏、風流踊りなどの古い名前や形が残っている。
盆踊りの歴史の中で、明治を境にした変化は甚大だ。
明治期には「盆踊りは風紀を乱す」とたびたび盆踊り禁止令が出され、
それでも踊ろうとする人々と、取り締まる警察のぶつかり合いが繰り返された。
その後大正、昭和には炭坑節や東京音頭などの新たな踊りが作られ、
近代の盆踊りへと様変わりした地方は多い。
盆踊りの源流は、平安時代の空也が創始し、鎌倉時代の一遍(愛媛県松山市道後生まれ)が各地に広めた踊り念仏だといわれている。
一遍や同行の僧尼たちは、念仏で救われる歓喜に服もはだけて激しく踊躍(ゆやく)し、
法悦境に庶民を巻きこんで大ブームを起こした。
その後、宗教性よりも芸能に重きがある念仏踊りが生まれ、
人々は華やかな衣装や道具、振りつけや音曲を競って盛んに踊った。
芸能が百花繚乱(りょうらん)となったこの時代、
経済力や自治力を強めた民衆は、次々と新奇な趣向に旺盛な創造力を発揮していった。
江戸時代の初めには盆踊りは絶頂を極め、ある年の江戸では7月から盆踊りが始まって、
連日踊り明かして10月になっても止む気配がなかったという。
さて、この盆踊りが明治以降、取り締まられるようになった理由の「風紀を乱す」とはどういうことだろうか。
明治以前の日本では、通い婚の伝統のためもあり、婚外性交への規制は、武士以外はきわめて緩かった。
未婚の男女が出会ったり、既婚者たちが一時的な関係をもったりする機会も数々あった。
万葉集にも「人妻に我も交わらん 我が妻に人も言問へ…」という筑波山の歌垣(かがい)を詠んだ歌がある。
歌垣は各地で行われ、盆踊りと結びついた例も多い。
ざこ寝という、男女が一堂に泊まって乱交を行う風習も起こり、盆踊りとも結びついた。
民俗学者の赤松啓介氏は、昭和初めに自分でざこ寝を体験したと述べ、
またざこ寝堂は近世の農村にはほとんどあったとみてよいと言っている。
日本では性は神聖なものとされ、盆踊りのほか、念仏講、御詠歌講、神社の祭礼など民衆の宗教的な行事の
中心には、日常的な営みとは違う聖なるセックスがあるべきだと考えられていたようだ。
風俗史家の下川耿史氏が詳述しているように、盆踊りは性的な乱交の交わりだったのだ。
そして日本中を熱狂で揺るがすようだったかつての盆踊りの隆盛は、性が解放されるエネルギーをこそ原動力にしていた。
盆踊りの歌詞も、もとは性的な表現にあふれていた。』
風習というのはおもしろい。
暮らしの中から生まれ、または消えていく。
先人たちのそんな足跡を見ていくことはおもしろい。
岬人(はなんちゅう)
父に昔の平礒の盆踊りの様子を聞いたり。
今は、お寺で行っているが、かつて父が若い頃は「下の川」の
現在は柑橘園になっている場所で行っていたとのこと。
今のように電気提灯もないので必ず満月の夜に行われていたようだ。
もちろんレコードといった物はないので、口説きにあわせて踊っていたとのこと。
そういったことを初めて聞いて、盆踊りについて調べていたら、
産経新聞に以下のような興味深い記事があった。
「今年の平礒の盆踊り」
『盆踊りは歴史が長く、無形文化財から近年の新作までじつに
多様な音曲と踊りが、同じ「盆踊り」という言葉で呼ばれている。
地方によっては、念仏踊りや踊り念仏、風流踊りなどの古い名前や形が残っている。
盆踊りの歴史の中で、明治を境にした変化は甚大だ。
明治期には「盆踊りは風紀を乱す」とたびたび盆踊り禁止令が出され、
それでも踊ろうとする人々と、取り締まる警察のぶつかり合いが繰り返された。
その後大正、昭和には炭坑節や東京音頭などの新たな踊りが作られ、
近代の盆踊りへと様変わりした地方は多い。
盆踊りの源流は、平安時代の空也が創始し、鎌倉時代の一遍(愛媛県松山市道後生まれ)が各地に広めた踊り念仏だといわれている。
一遍や同行の僧尼たちは、念仏で救われる歓喜に服もはだけて激しく踊躍(ゆやく)し、
法悦境に庶民を巻きこんで大ブームを起こした。
その後、宗教性よりも芸能に重きがある念仏踊りが生まれ、
人々は華やかな衣装や道具、振りつけや音曲を競って盛んに踊った。
芸能が百花繚乱(りょうらん)となったこの時代、
経済力や自治力を強めた民衆は、次々と新奇な趣向に旺盛な創造力を発揮していった。
江戸時代の初めには盆踊りは絶頂を極め、ある年の江戸では7月から盆踊りが始まって、
連日踊り明かして10月になっても止む気配がなかったという。
さて、この盆踊りが明治以降、取り締まられるようになった理由の「風紀を乱す」とはどういうことだろうか。
明治以前の日本では、通い婚の伝統のためもあり、婚外性交への規制は、武士以外はきわめて緩かった。
未婚の男女が出会ったり、既婚者たちが一時的な関係をもったりする機会も数々あった。
万葉集にも「人妻に我も交わらん 我が妻に人も言問へ…」という筑波山の歌垣(かがい)を詠んだ歌がある。
歌垣は各地で行われ、盆踊りと結びついた例も多い。
ざこ寝という、男女が一堂に泊まって乱交を行う風習も起こり、盆踊りとも結びついた。
民俗学者の赤松啓介氏は、昭和初めに自分でざこ寝を体験したと述べ、
またざこ寝堂は近世の農村にはほとんどあったとみてよいと言っている。
日本では性は神聖なものとされ、盆踊りのほか、念仏講、御詠歌講、神社の祭礼など民衆の宗教的な行事の
中心には、日常的な営みとは違う聖なるセックスがあるべきだと考えられていたようだ。
風俗史家の下川耿史氏が詳述しているように、盆踊りは性的な乱交の交わりだったのだ。
そして日本中を熱狂で揺るがすようだったかつての盆踊りの隆盛は、性が解放されるエネルギーをこそ原動力にしていた。
盆踊りの歌詞も、もとは性的な表現にあふれていた。』
風習というのはおもしろい。
暮らしの中から生まれ、または消えていく。
先人たちのそんな足跡を見ていくことはおもしろい。
岬人(はなんちゅう)