喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

昭和の男

2010-04-17 | ブログ
 先日、4月15日は、父の誕生日でした。
1940(昭和15)年生まれの70歳。

 昭和を生きた人たちは、波瀾万丈の人生が多いようです。
父武久は、金太郎とミチエの長男として生まれ、祖父鶴松からもたいへんかわいがられたようです。
 翌年1941(昭和16)年、12月8日の真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まります。
すでに始まっていた日中戦争は、泥沼化しており、日本はさらに苦難の道を歩みます。
 
 金太郎のもとにも召集令状(赤紙)が届き、出征することになります。
生まれたばかりの娘(千鶴子)と3歳になった父そして妻(ミチエ)をのこしての出征は、
どんなに辛かったことでしょう。
 3歳の父には、自分の父金太郎の記憶はありません。
祖母ミチエやおばさんの話によると、
父は、金太郎からよく肩車をしてもらっていたそうです。
出征の日も最後の肩車をしてもらい、
「父ちゃんといっしょに行く!」と言って泣きながらしがみつき、離れなかったそうです。
 1945(昭和20)年、5月。
終戦3ヶ月前、金太郎は、東北沖の輸送船に乗りこんでいたところを撃沈され、帰らぬ人となりました。
 高校3年生の時には、金太郎亡き後の父がわりとして育ててくれた鶴松もこの世を去ります。

 灘の酒造会社に就職が決まっていたにもかかわらず、
家や家族をまもるために平礒に残り、以来半世紀にわたり農業一筋に生きてきました。
新しい家庭を築き、家を建て、そしてお墓をうつし改葬するなど、
1つ1つ着実な人生を築いてきました。
 私たち子どもにとっては、寄りつけないような厳しさがありましたが、
私の子どもにたいしては、やさしいおじいちゃんなのです。

 平成になりはや22年。
昭和という響きさえ、遠い過去のように聞こえます。
 激動の昭和を生きてきた人たちには、
悲しさと強さとやさしさが感じられます。

                       岬人(はなんちゅう)

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4 コメント

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お元気そうで何よりです (shin-1さんの日記)
2010-04-17 17:56:59
先生お元気そうで何よりです。
先日はオレンジデーに双海まで来ていただいたのに、私は21世紀えひめニューフロンティアグループの会員を連れて、世界遺産を巡る旅に出ていました。
近頃すっかりご無沙汰しています。
今日は八幡浜市日土の清水さん宅(あらし山山荘)に、大番頭・小番頭と菊池さんとお邪魔して、ぼたん桜のお花見をしながら色々な話をしました。
松本さんから先生のブログを聞いたので、コメントさせてもらいました。
これからも読ませて下さい。
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 (momo)
2010-04-18 08:29:57
命の大切さを改めて感じました。      先祖に感謝したいと思います。
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光栄です (岬人)
2010-04-18 08:47:30
 双海町は、元気なところです。
まさに人財の宝庫。まちづくりは、お金ではなく、人づくりであるということを、改めて感じました。
 若松進一さんのまかれた種が、育ってきたのですね。
いつもブログを読ませていただいています。
「良い情報は、発信するところに集まる」
若松さんの教えと実践を追いかけさせてもらっています。
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命のたすきリレー (岬人)
2010-04-18 08:53:14
 モモのような若い人たちが、命の大切さを改めて感じるということは、本当に大切なことだと思います。
 モモもお父さん・お母さんがいたからこそ生まれてきたわけで、愛情いっぱいに育てられてきました。感謝の心です。
 さらにおじいちゃん・おばあちゃんがいたから。さらに金じいちゃんがいたから、そしてさらに…
私たちは、こうして生まれてきたんですね。

 いつでも帰ってらっしゃい。
お墓参りに行こう。
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