何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

善福院 (海南)

2019年01月06日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・海南市】鎌倉時代健保二年(1214)、日本臨済宗の祖で京都建仁寺を建立した栄西禅師によって創設されたとされる広福寺五ヶ院の一つ。 創建当初は広福寺の塔頭として広福禅寺という寺号だった。 安土桃山時代、広福寺は紀伊国守護の畠山氏に仕えていた大旦那の加茂氏の菩提寺として栄え七堂伽藍を備えていたが、加茂氏の没落とともに荒廃した。 その後、高野山に頼り真言宗に改宗して伽藍が修復された。 江戸時代に入って紀州徳川家の菩提寺の候補となったため、紀州徳川の宗派である天台宗に改宗した。(紀州徳川家の菩提寺は善福院ではなく長保寺に)
明治初期までは三ヶ院が存し、その一つが広福禅寺だが、廃仏毀釈の嵐の中で現在の寺号に改められ、現在は善福院だけとなった。 堂宇は鎌倉後期再建の禅宗様仏殿「釈迦堂」(本堂・国宝)だけが唯一現存し、かつての広福寺の繁栄を今に伝えている。 宗旨は天台宗で、本尊は釈迦如来像。

徒歩では少し遠すぎるのでタクシーで善福院釈迦堂に向かった。 行き先を告げたときに「建物がひとつあるだけだよ」と云われたが、確かに白壁の塀で囲まれた境内に一宇の御堂がポツンと建っているだけだ。 この御堂が国宝の釈迦堂で、現存する最古の禅宗様仏殿の一つとされる。 境内の石段を下った少し先に寺院があり、これが善福院の本堂だろうと思って撮影した。
その後、石段を上って釈迦堂境内に....庭のない境内で、塀際に数本の木があるだけで殆ど緑がなく殺風景だ。 乱積の基壇上に、陽を燦燦と浴びて小棟造りの釈迦堂が建つ。 鎌倉後期に建てられた一重裳腰付の典型的な禅宗様建築で、荘厳で風格を漂わせている。 正面五間の三間に桟唐戸があるだけで、脇間や側面に縦の羽目板を張った窓のない造りだ。 桟唐戸の内側の格子戸を通して釈迦如来像を拝観。 中央の須弥壇の厨子の中に黒く浮き上がる釈迦如来像が鎮座....よく見ると脇侍が鎮座する釈迦三尊像で、須弥壇上の両隅に四天王の二天が須弥壇を護っている。
なお、後で調べたら、釈迦堂境内の石段下の参道脇にあるお寺は、善福院とは全く関係がないことを知った。

石段下から見上げた白壁の築地塀に囲まれた釈迦堂
 
築地塀の間から眺めた釈迦堂....乱積の基壇上に建つ鎌倉時代末期再建の禅宗様仏殿

寄棟造本瓦葺で裳腰付の釈迦堂(国宝)....鎌倉時代嘉暦二年(1327)の建立で釈迦如来像を安置

軒廻りは一軒繁垂木、組物は台輪上に二手目が尾垂木の二手先、組物の間に詰組
 
裳腰の軒廻りは一軒繁垂木、組物は出組で中備に平三斗

裳腰正面五間の三間が桟唐戸で内側に格子戸、脇間は窓がなく羽目板(小脇羽目)

堂内中央の須弥壇の厨子に本尊が鎮座....土間は瓦敷で、中央方一間が鏡天井、周囲は化粧屋根裏天井になっている

中央の須弥壇に鎮座する釈迦如来像....前に2体の菩薩像が鎮座しているので釈迦三尊像、須弥壇手前両端に四天王像の2天が邪気を踏んで立つ

本屋は桁行三間、梁間三間で裳腰部分は五間四方....側面五間は窓がなく全て縦羽目板....裳腰の周囲の内法貫上に、間隔が大きな波形連子の透欄間を設けている

白壁の築地塀に囲まれた境内は庭がなく、塀際に数本の木があるだけ

釈迦堂の左手に建つ現代風の建物は庫裡のようだ(撮影を失念)
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