
【千葉・南房総市】創建年は不詳だが、昔、勝栄坊という真言宗の小堂があり、鎌倉時代文永元年(1246)日蓮聖人が鎌倉から小湊に帰る途中、この堂に止宿したことが縁で、当時の住持・行年法印が聖人に帰依して日蓮宗に改宗した。
その後衰微したが、室町末期の元亀二年(1571)、安房の里見家の重臣正木時通と弟頼忠が、勝栄坊を再興し勝栄山日運寺と改めた。 勝浦正木氏の菩提寺であり、頼忠は大檀那として主君里見義頼に願い出て寺領を寄進、その後徳川幕府からも寺領10石の御朱印を賜った。
江戸時代享保八年(1723)、第15世住持・日典が祖師堂、仁王門、鐘楼が建て、寺門興隆に尽力した。 本堂は大正3年(1914)に現在地に建てられたが、大正十ニ年(1923)の関東大震災で堂宇が倒壊して焼失....現本堂は昭和十ニ年(1937)に造営された。 日蓮宗で本尊は日蓮聖人像。
白い門柱から参道を暫く進むと朱塗りの仁王門に着き、肌色の健康そうな仁王像が迎えてくれる。
仁王門をくぐって進むと、参道を半分塞ぐように倒木が....樹齢約600年の榧の老木だが、大正6年に倒れた後も横たえたまま生きている。 参道脇に佇む石仏や墓石などの石造物を眺めながら進む....2基の題目塔が鎮座するところから参道が二手に分かれ、右に進んで本堂に向かう。
20余段の石段を上って本堂境内に....正面の本堂の前に自動車2台がどっかりと止まっていて撮影を邪魔された。 本堂参拝後、後方の勝栄山に鎮座する奥之院への石段を上って行くと、途中に日鑑上人が断食入定(入滅)された石窟がある....合掌。 そこから七面大明神を祀る七面堂の前を通って奥之院へ....鬱蒼と茂る樹林の中に赤い鳥居を従えた小さなお社が鎮座している。
奥之院から下山し、釈迦殿の近くの東屋で一服してから納骨堂がある境内に....納骨堂の前に本堂を見守る日蓮聖人行脚像がたたずむ。


長い参道の入口に立つ山号寺号碑(宝暦四年(1754)造立)と題目塔(文政十二年(1829)造立)/参道途中に佇む題目塔(寛政九年(1797)造立)

参道から眺めた境内..朱塗りの仁王門と奥に本堂の屋根

切妻造銅板葺の仁王門(円柱八脚門)..享保十一年(1726)建立



吽形の那羅延金剛像 阿形の密迹金剛像 参道脇に佇む歌碑

仁王門から眺めた境内..参道に横たえる老木は大正八年(1917)に倒れた樹齢約600年の榧の木

左から切妻造桟瓦葺の慈墓観音菩薩、本地堂、その奥に御杖井戸



慈墓観音菩薩 本地堂/本地堂に鎮座する上行菩薩像..明治十二年(1879)造立

正木時通(宝篋印塔-天正三年(1575))・頼忠(笠塔婆-元和八年(1622))の墓..勝浦城主だった時通は、室町末期の元亀元年(1570)の敗戦後、出家帰房して日運寺を中興


2基の題目塔..左は天保九年(1838)造立、右は昭和五十六年(1981)造立/本堂への参道..奥の20余段の石段上の境内に堂宇が鎮座

石段を上り切った所から眺めた境内..正面に本堂、右に手水舎、左に大黒殿



切妻造桟瓦葺の大黒殿..回縁を設けている/露盤宝珠を乗せた宝形造堂板葺の常香炉舎/手水舎..手水鉢から溢れるほどの水量だ

入母屋造銅板葺(本瓦に見える)の本堂..獅子口を乗せた小さな唐破風向拝


向拝柱を追加して向拝屋根を支えている..向拝大虹梁に下がる鰐口、入口に注連縄が張られ「勝栄山」の扁額が掛る

大虹梁と二重虹梁の上下や木鼻など向拝の龍等の装飾彫刻が実に素晴らしい

大黒殿脇に置かれた本堂改修時の屋根瓦(獅子口等)

日運寺第18代住持日鑑上人入定窟..晩年この窟に断食入定、文化5年(1808)入滅..窟内の3つの仏石龕に石造武人像等を安置

露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の七面堂..法華経を守護する七面大明神(女神)を祀る

奥之院(隣接する加茂神社の奥之院)..鹿島鳥居のようだが笠木先端(鼻)が斜めに切られている


露盤宝珠を乗せた六角形造り銅板葺の釈迦殿と東屋/釈迦殿内には3体の釈迦如来坐像が鎮座



入母屋造桟瓦葺の鐘楼 日蓮聖人行脚像越しに眺めた納骨堂/日蓮聖人行脚像

入母屋造桟瓦葺で2層造りの庫裏
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