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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

室生寺-(2) (宇陀)

2016年07月25日 | 寺社巡り-奈良

【奈良・宇陀市】創建以来興福寺と深い関わりがあり、平安時代弘仁八年(818)には修円が嵯峨天皇から室生寺での雨乞いの修法を命じられた。 以後、山林修行の道場として、また法相宗、天台宗、真言宗など各宗派兼学の寺院として独自の仏教文化を形成した。
近世に入ってから興福寺との関わりが希薄となり、江戸時代元禄十一年(1698)、徳川5代将軍綱吉の母・桂昌院の命を受けて興福寺を離れ、真言宗豊山派の寺院となり、堂宇も改修された。

長い石段を上り詰めると厳かな空間が広がる。 正面には石垣の上に張り出すように懸造りの優美な金堂、左手には三間四方の美しい弥勒堂が建つが、いずれも柿葺屋根で古びた様の仏堂は歴史を感じさせる。 右手の杉林の中に朱塗りの天神社が鎮座し、手前の拝殿の脇にある苔生した大きな岩には軍茶利明王像が浮き彫りされている。
金堂左脇の石段を上ると、宝篋印塔が立ち石造欄干で囲まれた放生池がある広い本堂境内に豪壮な灌頂堂と呼ばれる本堂が南面で建つが、折衷様式の重厚な建築で興味深い。 本堂境内には、第5代将軍徳川綱吉の母の桂昌院や伝北畠親房の墓とされる五輪塔がひっそりと佇んでいる。

石段の「鎧坂」を登り詰めたところに建つ懸造りの金堂..正堂の前に孫庇の礼堂が設けれている

寄棟造杮葺の金堂(国宝)..正堂部分は平安時代前期の建立、礼堂は江戸時代に付加された
 
金堂は正面側面ともに5間で、張り出している正面1間部分(高床部)が礼堂

礼堂の周りに擬宝珠高欄を設けた切目縁をめぐらす

金堂には本尊木造釈迦如来立像(貞観時代作)の他薬師如来立像、地蔵菩薩立像、文殊菩薩立像、十一面観音菩薩立像を安置

金堂境内の右手に建つ天神社拝殿
 
天神社拝殿と拝殿脇に佇む軍茶利明王石仏    杉林の中に鎮座する天神社

苔生した大きな岩に浮き彫りされた軍茶利明王像
 
軍茶利明王石仏は江戸時代文化十一年(1814)造立..軍荼利は甘露=不死を意味、強い力で外敵を除く

金堂前庭に2基の石灯籠が立ち、金堂左手に弥勒堂が建つ

入母屋造杮葺の弥勒堂(表面に銅板を葺いているように見える)..鎌倉時代前期の建立
 
三間四方で周囲に切目縁を巡らした弥勒堂..修円が興福寺の伝法院を受け継いだものと伝わる

須弥壇の厨子に本尊弥勒菩薩立像、脇壇に客仏として釈迦如来坐像(国宝)を安置(いずれも平安時代前期作)

本堂境内..石造欄干で囲まれた放生池の奥に本堂(古くは灌頂堂だった)、左の石段奥に五重塔がある

入母屋造檜皮葺の本堂..鎌倉時代中期の延慶元年(1308)の建立
 
本堂境内に佇む宝篋印塔越しに眺めた本堂/宝篋印塔は江戸時代寛延四年(1751)の造立

本堂は五間四方(正面は二戸)で周囲に切目縁を巡らす..和様と大仏様の折衷様式の建物
 
本堂正面は全面蔀戸..床下は漆喰塗の土壇ではなく石積みの亀腹

須弥壇の厨子に如意輪観音坐像を安置..平安時代(藤原時代)初期作で日本三如意輪の一つに数えられている
 
本堂の東側の一段高い位置にある桂昌院墓の五輪塔..桂昌院は5代将軍徳川綱吉の母
 
本堂の西側にある北畠の墓の五輪塔/五輪塔(伝北畠親房墓)..火輪の軒が急で軒先が僅かに反り軒口が厚い、また幅が小さく水輪とほぼ同じ

北畠の墓から杉の木立を通して眺めた本堂と五重塔
 
護摩堂の後方の中腹に建つ鐘楼堂       境内片隅に佇む舟形光背の石仏..尊名は?
コメント
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