
【京都・北区】正式には「賀茂別雷神社」と称する。 祭神・賀茂別雷神は下鴨神社の祭神である玉依姫命(初第天皇・神武天皇の母)の子で、神代の昔、賀茂別雷神が本殿の北北西にある神山に降臨し、飛鳥時代の第四十代・天武天皇七年(678)、現在地に社殿が造営された。
創建神話としては、賀茂川で遊ぶ玉依姫命が川上から流れてきた丹塗りの矢を持ち帰ったら、矢が若者(火雷神)に姿を変え、玉依姫命が賀茂別雷神を身ごもったと伝える。
現在の社殿・権殿は江戸時代末の文久三年(1863)に、他社殿は寛永五年(1628)に造替されたもの。
一ノ鳥居をくぐり広大な境内の参道を進み、右手に外弊殿、左手に神馬舎を眺めながら二ノ鳥居をくぐって社殿境内に....。 直ぐ正面にはテントですっぽり覆われた屋根葺替工事中の細殿があり、その前に大きな丹塗りの矢と円錐状の2つの砂の山(立砂)がある。 二ノ鳥居から楼門までの境内には幾つかの檜皮葺の建物が建ち並び、神々しい雰囲気を醸し出している。
境内を流れる御手洗川と御物忌川とが合流した「楢の小川」をまたいで建てられた舞殿の隣に架かる祝橋を通って、本殿がある楼門に向かう。 楼門前を流れる御物忌川には反り橋である王橋が架かるが注連縄が張られているので、御手洗川に架かる樟橋(長寿橋)を渡って鮮やかな朱塗りの楼門に....。


一ノ鳥居(明神鳥居)と奥に広がる広大な境内 「賀茂大社」の石標

一ノ鳥居と二ノ鳥居の間の境内

入母屋造檜皮葺の外弊殿(御所屋)..寛永五年(1628)造替


外弊殿は法皇、上皇等の御幸摂関賀茂詣の際の著到殿..後方には北神饌所が鎮座する境内がある

北神饌所の境内から眺めた外弊殿


神馬舎 二ノ鳥居(明神鳥居)

楽屋(手前)と土屋(奥)

切妻造檜皮葺の楽屋..寛永五年(1628)造替


楽屋..神仏習合時代供僧方の用いたもの(一切経楽屋ともいう)

入母屋造檜皮葺の土屋..寛永五年(1628)造替

土屋..往古より神主以下社司の著到殿(現在は祓所)

入母屋造檜皮葺の舞殿(橋殿)..文久三年(1863)造替

御手洗川と御物忌川が合流した「楢の小川」をまたいで建てられた舞殿....手前の橋は祝橋

細殿..訪問時は檜皮屋根葺替工事中で、祭神賀茂別雷神と玉依姫命に関わりがある丹塗りの矢が祀られている、細殿前の円錐状の2つの砂の山「立砂」はご神体のある神山を模したもの

御手洗川に架かる樟橋(長寿橋)越しに眺めた楼門


楼門前を流れれる御物忌川(舞殿の手前で御手洗川と合流する)

楼門と王橋(反り橋)

入母屋造檜皮葺の楼門..寛永五年(1628)造替



御物忌川に架かる王橋越しに眺めた楼門/楼門の両側に連子窓を設けた廻廊がある(手前は西側)/東側の廻廊と燈籠