既に1週間ほど前の日付だが、産経新聞に「感じるな、考えろ!」という記事があった。書き出しは大橋巨泉さんの逸話から始まっているが、内容としては、問題、課題、事件や事象について、ついつい我々は「好きか、嫌いか」といった感覚での判断をしがちだが、そうではなく「考えて判断する」ことの重要さを知り大切にしなければいけないと説いている。
実はこの記事を読んで、思わず膝を叩いてしまった。特に最近の政治家には考えもせず感じて済ませる人が多いような気がする。しかし多分、それは政治家だけではなく一般市民の多くの人も考えることの大切さを感じていないのではないかと思っている。
話は逸れるが、先日、原発稼働の是非を問う住民投票条例制定を目指している団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」が都に条例制定を直接請求し、都選挙管理委員会の集計によれば、その署名数が32万を超え住民投票条例の制定を請求するのに必要な署名数を上回ったという。その署名が都に運び込まれるシーンもニュースで流れたが、確かダンボールで160箱を上回ったと聞いている。いつもの通り、私の意見を最初に述べるとすれば、住民投票をやるのは「どうぞご自由に!」だが、その結果に強制力を与えるというのは反対である。つまり、長い人類の歴史は成熟した制度として間接民主主義を選び現在に至るのであり、その間接民主主義に対して拘束力のある直接投票はあるべきではないと信じている。その理由はまさに「感じるな、考えろ!」にある。
もちろん現在の政治家の中に考える能力の低い人が紛れ込んでいる事実は大いに認めるが、多くの国民が「感じた結果としての判断」ではなく、「考えた結果としての判断」を下せるとは私は信じていない。もし国民が自らにとって厳しい選択を敢えて選ぶことができ、その様な判断を行うと宣言した人をちゃんと当選させることができるならば、これほどの財政赤字を積み上げてなどいないはずである。しかし、これはギリシャをはじめ世界中で起きている事態なので、何となく感じるままに行動していたら、破滅への道に一目散に向かってしまうのは間違いないだろう。その様な責任ある「考える」行動を一般市民に求め、そしてその責任を同じ市民に求めるのには無理がある。最後は政治家が責任感を持って判断し、何かあればその責任を取るのである。
そもそも、仮に住民投票を行うとしても、どの様な命題でYes/Noを求めるのであろうか?巷では様々な政治的な議題について世論調査としてアンケートが行われている。そのアンケートですら選択肢を5つ程度(賛成/どちらかと言えば賛成/どちらかと言えば反対/反対/どちらとも言えない)用意しているのに、多分、住民投票ではYesとNoの2者択一になるのであろう。その時、住民投票の命題が「あなたは民主党政権を支持しますか?」の様な表現だとして、仮に「民主党政権には反対だが、野田総理の国民に痛みを強いることも敢えて行う政治姿勢には賛成」というスタンスの人は、「民主党政権を支持」と回答すべきか「不支持」と回答すべきかは、人によって意見が分かれるところである。そこで「野田さん、頑張って」という気持ちを込めて「支持」としたが、その後、9月の代表選で4人目の総理が生まれた後で、「あなたは住民投票で『支持』したのだから、4人目の総理にも責任を持ちなさい」と言われても、当然ながらそんなことを言われても困るだけである。世論調査の5つの選択肢ですら自分の複雑な気持ちを表現するのには不十分なのに、それを二つの選択肢で正確に意見を吸い上げることなどできるはずがない。一口に脱原発と言っても、数十年かけた緩やかなソフトランディング型脱原発もあれば、即時の脱原発というハードランディングもある。これでは正確な意見の集約にはなり得ない。
まあ、住民投票のやり方は今日の議題ではないのでこの辺でやめておこう。話を元に戻せば、これまではどちらが国民が喜ぶか悲しむか、すなわち「感じる」を重視した政治が行われてきた。しかし、それはもう限界が来ているということである。「非線形の100次元連立方程式を解く」でも書いたのだが、現在おかれている状況は簡単に答えが見つかるような単純な問題を扱ってはいない。だから、ちょっと考えただけでは答えにはたどり着けそうになり。そんな時、何となく「有権者が喜びそう」と「感じる」ことへの感性だけに敏感になり、民意はここにありと言っても意味はない。少なくとも論理的な議論を丁寧に行い、最大限の「考える」努力とその結果得られた知見を示してもらわなければ、それは政治家としての価値はない。我々はそれを政治家に求めているのである。だから、選挙においては我々は、政治家がその難解な方程式を解く能力(自分で解かなくても、ブレーンが解けても良い)を持ち合わせているかどうかを判断して投票をすることを求められる。
そして、そんな政治家に対し、時としてイザ本番の前に練習問題として「こんな問題をあなたはどう解く?」と簡単な練習問題が与えられる。政治の世界の難しい方程式の解き方は分からなくても、もっと単純な方程式なら解答例を見れば答えが合っていそうか間違っていそうかが判断できる。
例えば、ある判断をしたとき、その判断に論理的な正しさが伴うのかどうか、単に感情的な判断なのか?言い換えれば、「感じる」の答えなのか、「考える」の答えなのかをその判断から読み取るのである。論理的な判断であるか否かは、論理的な判断の前提条件を崩さずに積み上げた結果であるかどうかをみることで分かる。例えば、例外的な特別の計らいがそこに含まれていないか、原理原則にどれだけ基づいているか、世間の常識に照らし合わせてみたときにどれだけ合致しているか。だから、ご都合主義でコロコロ言い分を変えるのは相当怪しいとしか言いようがない。
しかし、ただ一つだけ例外はある。これを忘れてはいけない。例えば総理大臣や閣僚になり、国家を背負った発言が求められる場合である。国家には国家として、諸外国に対してご都合主義と思われる行動は決して許されないのである。だから、その国家としての継続性、整合性を維持するために、政治家個人の心情を曲げるのは仕方がない。全ての優先度を国家に置くのか個人の信条に置くのか、それは政治家であるのであれば間違いなく国家に置かれなければならない。
この例外だけを許容した上で、政治家の言動を顧みると見えてくるものがある。誰に信用がおけて、誰が信用できないのかを・・・。
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実はこの記事を読んで、思わず膝を叩いてしまった。特に最近の政治家には考えもせず感じて済ませる人が多いような気がする。しかし多分、それは政治家だけではなく一般市民の多くの人も考えることの大切さを感じていないのではないかと思っている。
話は逸れるが、先日、原発稼働の是非を問う住民投票条例制定を目指している団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」が都に条例制定を直接請求し、都選挙管理委員会の集計によれば、その署名数が32万を超え住民投票条例の制定を請求するのに必要な署名数を上回ったという。その署名が都に運び込まれるシーンもニュースで流れたが、確かダンボールで160箱を上回ったと聞いている。いつもの通り、私の意見を最初に述べるとすれば、住民投票をやるのは「どうぞご自由に!」だが、その結果に強制力を与えるというのは反対である。つまり、長い人類の歴史は成熟した制度として間接民主主義を選び現在に至るのであり、その間接民主主義に対して拘束力のある直接投票はあるべきではないと信じている。その理由はまさに「感じるな、考えろ!」にある。
もちろん現在の政治家の中に考える能力の低い人が紛れ込んでいる事実は大いに認めるが、多くの国民が「感じた結果としての判断」ではなく、「考えた結果としての判断」を下せるとは私は信じていない。もし国民が自らにとって厳しい選択を敢えて選ぶことができ、その様な判断を行うと宣言した人をちゃんと当選させることができるならば、これほどの財政赤字を積み上げてなどいないはずである。しかし、これはギリシャをはじめ世界中で起きている事態なので、何となく感じるままに行動していたら、破滅への道に一目散に向かってしまうのは間違いないだろう。その様な責任ある「考える」行動を一般市民に求め、そしてその責任を同じ市民に求めるのには無理がある。最後は政治家が責任感を持って判断し、何かあればその責任を取るのである。
そもそも、仮に住民投票を行うとしても、どの様な命題でYes/Noを求めるのであろうか?巷では様々な政治的な議題について世論調査としてアンケートが行われている。そのアンケートですら選択肢を5つ程度(賛成/どちらかと言えば賛成/どちらかと言えば反対/反対/どちらとも言えない)用意しているのに、多分、住民投票ではYesとNoの2者択一になるのであろう。その時、住民投票の命題が「あなたは民主党政権を支持しますか?」の様な表現だとして、仮に「民主党政権には反対だが、野田総理の国民に痛みを強いることも敢えて行う政治姿勢には賛成」というスタンスの人は、「民主党政権を支持」と回答すべきか「不支持」と回答すべきかは、人によって意見が分かれるところである。そこで「野田さん、頑張って」という気持ちを込めて「支持」としたが、その後、9月の代表選で4人目の総理が生まれた後で、「あなたは住民投票で『支持』したのだから、4人目の総理にも責任を持ちなさい」と言われても、当然ながらそんなことを言われても困るだけである。世論調査の5つの選択肢ですら自分の複雑な気持ちを表現するのには不十分なのに、それを二つの選択肢で正確に意見を吸い上げることなどできるはずがない。一口に脱原発と言っても、数十年かけた緩やかなソフトランディング型脱原発もあれば、即時の脱原発というハードランディングもある。これでは正確な意見の集約にはなり得ない。
まあ、住民投票のやり方は今日の議題ではないのでこの辺でやめておこう。話を元に戻せば、これまではどちらが国民が喜ぶか悲しむか、すなわち「感じる」を重視した政治が行われてきた。しかし、それはもう限界が来ているということである。「非線形の100次元連立方程式を解く」でも書いたのだが、現在おかれている状況は簡単に答えが見つかるような単純な問題を扱ってはいない。だから、ちょっと考えただけでは答えにはたどり着けそうになり。そんな時、何となく「有権者が喜びそう」と「感じる」ことへの感性だけに敏感になり、民意はここにありと言っても意味はない。少なくとも論理的な議論を丁寧に行い、最大限の「考える」努力とその結果得られた知見を示してもらわなければ、それは政治家としての価値はない。我々はそれを政治家に求めているのである。だから、選挙においては我々は、政治家がその難解な方程式を解く能力(自分で解かなくても、ブレーンが解けても良い)を持ち合わせているかどうかを判断して投票をすることを求められる。
そして、そんな政治家に対し、時としてイザ本番の前に練習問題として「こんな問題をあなたはどう解く?」と簡単な練習問題が与えられる。政治の世界の難しい方程式の解き方は分からなくても、もっと単純な方程式なら解答例を見れば答えが合っていそうか間違っていそうかが判断できる。
例えば、ある判断をしたとき、その判断に論理的な正しさが伴うのかどうか、単に感情的な判断なのか?言い換えれば、「感じる」の答えなのか、「考える」の答えなのかをその判断から読み取るのである。論理的な判断であるか否かは、論理的な判断の前提条件を崩さずに積み上げた結果であるかどうかをみることで分かる。例えば、例外的な特別の計らいがそこに含まれていないか、原理原則にどれだけ基づいているか、世間の常識に照らし合わせてみたときにどれだけ合致しているか。だから、ご都合主義でコロコロ言い分を変えるのは相当怪しいとしか言いようがない。
しかし、ただ一つだけ例外はある。これを忘れてはいけない。例えば総理大臣や閣僚になり、国家を背負った発言が求められる場合である。国家には国家として、諸外国に対してご都合主義と思われる行動は決して許されないのである。だから、その国家としての継続性、整合性を維持するために、政治家個人の心情を曲げるのは仕方がない。全ての優先度を国家に置くのか個人の信条に置くのか、それは政治家であるのであれば間違いなく国家に置かれなければならない。
この例外だけを許容した上で、政治家の言動を顧みると見えてくるものがある。誰に信用がおけて、誰が信用できないのかを・・・。
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