橋下大阪市長が大阪市役所の職員に対し刺青の調査を行なった。110人ほどの職員が刺青をしていることが分かり、そのような職員に対して「民間へ行ってくれ!」と言ったという。橋本市長のこれまでの活動については私は概ね賛同しているが、この刺青問題だけは少し違った視点で見ている。というよりも、その判断が正しいのか正しくないのか、イマイチ判断できないでいるというのが本音である。
市長のこのような判断に対して批判的な立場の人たちは、概ねその根拠として「刺青も表現の自由のひとつ」だと主張する。確かにその様に考えると、橋本市長の判断は少々行き過ぎのようにも思われる。にもかかわらず、何故橋下市長はこのような決断をしたのだろうか?
この議論の前に、私が以前から疑問に思っていることがある。日本中の多くの温泉施設ないしは銭湯において、入口には決まって「刺青を彫ったお客様のご入浴をお断りします」との張り紙が貼られている。そこら中でこの様な張り紙がなされているので、これは既に一般市民のコンセンサスが得られた社会常識となっているのではないかと私は理解している。しかし、先程の「表現の自由」の問題にも絡むことではあるが、このような施設に人を選んで「この人はこの施設には入れない」という差別的な行動を取ろうとした時、それが刺青の有無を条件としていなければ、大きな批判を受けてもおかしくはない。例えば、足が不自由な人は温泉内で転んでケガをする可能性があるので、その様な身体障害者は入浴を禁ずるということを言い出したら、間違いなく「それは差別だ!」と言われるだろう。にもかかわらず、刺青に関しては(刺青をほっている人を除けば)誰も文句を言わないのである。これは、納得できると言えば納得できるが、なぜそのような結論になるのだろうと考えると不思議でもある。
話を大阪市にもどすならば、この問題が「橋下市長が言い出したことだから・・・」という先入観念をもって考えるのではなく、この刺青というものを「社会の敵(悪)」だと見なすのか見なさないのかと、そのような問題だと話を限定して考えないと判断を誤ることになる。では、刺青は社会の敵で追放すべきものなのなのか?と考てみると、それは刺青によるのではないかと思える。例えば海外のスポーツ選手には、ワインポイントの小さな刺青を見かけることが多い。有名なところでは、サッカーの元イングランド代表のデビッドベッカム選手が刺青マニアであるのは有名である。彼はワンポイントの刺青ではなく、両腕全体に加えて、そこら中にワンポイントを入れている。ここまで来ると流石に顔をしかめてしまうが、普通の選手ならばもっと小さなワンポイントであることが多い。しかしそれを見て、片っ端から「こいつは悪い奴だ!」と言う人はいない。だから、私はこのようなワンポイントの刺青まで、ないしはさらに限定して、服を着ていれば他の人の目につかないようなそのような限定的な場所に刺青をしている場合でも、それが社会の悪だと言い切れるのかと考えると悩んでしまう。ベッカムは良いが、この人はダメというのはフェアではない。もし、社会が刺青の善し悪しを個別に判断するのは無理だから、一律に全ての刺青を「社会の敵」だと見なそうというコンセンサスをまとめようと言うのであれば、それは橋下市長が行なったことは認められて良いのではないかと思う。一方で、「ワンポイントで服を着れば見えないような刺青なら許そうじゃないか」というのであれば、ないしは「全てを社会の悪だと言い切るのは行き過ぎだ」と、そちらのコンセンサスが得られるのであれば、橋下市長もそのような限定的な刺青の職員に対する処分は保留するとして、話は丸く収まるような気がする。橋下市長がどこまで強硬にこの話を押し通そうとするのかが分からない段階ではなんとも言えないが、単純に橋下市長がやったことだからということで、かなりバイアスをかけた議論をするのは正しくない。
そのような邪念を取り除いた上で、「そもそもどの様に考えるべきなのか?」と、シンプルな議題に話を焼き変え、その上でシンプルに議論するという考え方が、物事のあるべき考え方ではないかと思う。
如何だろうか?
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市長のこのような判断に対して批判的な立場の人たちは、概ねその根拠として「刺青も表現の自由のひとつ」だと主張する。確かにその様に考えると、橋本市長の判断は少々行き過ぎのようにも思われる。にもかかわらず、何故橋下市長はこのような決断をしたのだろうか?
この議論の前に、私が以前から疑問に思っていることがある。日本中の多くの温泉施設ないしは銭湯において、入口には決まって「刺青を彫ったお客様のご入浴をお断りします」との張り紙が貼られている。そこら中でこの様な張り紙がなされているので、これは既に一般市民のコンセンサスが得られた社会常識となっているのではないかと私は理解している。しかし、先程の「表現の自由」の問題にも絡むことではあるが、このような施設に人を選んで「この人はこの施設には入れない」という差別的な行動を取ろうとした時、それが刺青の有無を条件としていなければ、大きな批判を受けてもおかしくはない。例えば、足が不自由な人は温泉内で転んでケガをする可能性があるので、その様な身体障害者は入浴を禁ずるということを言い出したら、間違いなく「それは差別だ!」と言われるだろう。にもかかわらず、刺青に関しては(刺青をほっている人を除けば)誰も文句を言わないのである。これは、納得できると言えば納得できるが、なぜそのような結論になるのだろうと考えると不思議でもある。
話を大阪市にもどすならば、この問題が「橋下市長が言い出したことだから・・・」という先入観念をもって考えるのではなく、この刺青というものを「社会の敵(悪)」だと見なすのか見なさないのかと、そのような問題だと話を限定して考えないと判断を誤ることになる。では、刺青は社会の敵で追放すべきものなのなのか?と考てみると、それは刺青によるのではないかと思える。例えば海外のスポーツ選手には、ワインポイントの小さな刺青を見かけることが多い。有名なところでは、サッカーの元イングランド代表のデビッドベッカム選手が刺青マニアであるのは有名である。彼はワンポイントの刺青ではなく、両腕全体に加えて、そこら中にワンポイントを入れている。ここまで来ると流石に顔をしかめてしまうが、普通の選手ならばもっと小さなワンポイントであることが多い。しかしそれを見て、片っ端から「こいつは悪い奴だ!」と言う人はいない。だから、私はこのようなワンポイントの刺青まで、ないしはさらに限定して、服を着ていれば他の人の目につかないようなそのような限定的な場所に刺青をしている場合でも、それが社会の悪だと言い切れるのかと考えると悩んでしまう。ベッカムは良いが、この人はダメというのはフェアではない。もし、社会が刺青の善し悪しを個別に判断するのは無理だから、一律に全ての刺青を「社会の敵」だと見なそうというコンセンサスをまとめようと言うのであれば、それは橋下市長が行なったことは認められて良いのではないかと思う。一方で、「ワンポイントで服を着れば見えないような刺青なら許そうじゃないか」というのであれば、ないしは「全てを社会の悪だと言い切るのは行き過ぎだ」と、そちらのコンセンサスが得られるのであれば、橋下市長もそのような限定的な刺青の職員に対する処分は保留するとして、話は丸く収まるような気がする。橋下市長がどこまで強硬にこの話を押し通そうとするのかが分からない段階ではなんとも言えないが、単純に橋下市長がやったことだからということで、かなりバイアスをかけた議論をするのは正しくない。
そのような邪念を取り除いた上で、「そもそもどの様に考えるべきなのか?」と、シンプルな議題に話を焼き変え、その上でシンプルに議論するという考え方が、物事のあるべき考え方ではないかと思う。
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