日曜日の昼間に会社の忘年会が行われたわけですが、忘年会が終わって、よし帰ろうかと思っていると、会社の同期の塩野七生信奉者(通称ナナミー、今勝手に造りました、語尾は上げてください)が「大英博物館に行ったことが無いから行こう」とダダをこねるわけです。忘年会で疲れていたこともあり、正直、あんまり乗り気ではなかったのですが、ドゥカート(ヨーロッパで流通していた金貨)を見たいという思いに駆られ、まぁ、だったら行ってやらんでも無い的なサムシングにより、大英博物館に行ってきたわけです。
で、このナナミー、というか自分が塩野七生を読み始めたのはこいつの影響によるところが大きいのですが、いずれにしても、その歴史・民俗学オタクな彼がですね、イタリア云々に限らず、北欧がどうのこうの、ケルトがあーだこーだ、ローマがアレでギリシャがコレだと色々な薀蓄と共に解説をしてくれるのでそれなりに楽しめたわけです。
ついさっきまで「めんどくせーから行きたくねー」だとか文句を言っていたくせに、行ったら行ったで何だかんだ楽しいのです。そういうもんですよね。自他共に認める気分屋だし仕方が無い。
まぁ、そういうアレやコレや・・・は無かったけれども、大英博物館を練り歩いていると、個人的なお目当て品だったドゥカートを発見。
ドゥカートは要するにヨーロッパで流通していた金貨のこと。言うなれば「ユーロ」みたいなもの。
Wikipedia:Ducatと、塩野七生「海の都の物語 - ヴェネツィア共和国の一千年 - 2巻」によると、ヴェネツィアによる金貨が発行される前に、1251年にジェノヴァによる「ジェノヴィーノ」金貨が発行され、翌年には、フィレンツェにより「フィオリーノ」金貨が発行されていたとのこと。
ちなみに、その当時のヴェネツィアは、既に流通貨幣として銀貨を使っていたことに加えて、アレやコレやの色々な政治的な理由により、金貨の製造にはあまり熱心ではなかった。ただ、フィオリーノ製造の約30年後の1284年に、時のヴェネツィアのドージェ(元首)、ジョヴァーニ・ダンドロによってヴェネツィアンドゥカートが発行されたそうな。なお、この初版ドゥカートの表には、聖マルコ寺院の前でひざまずくドージェが描かれており、裏にはキリストが描かれているとのこと。まるでヴェネツィアお得意の政教分離を象徴しているかのよう。
そう言えばこのドゥカート、というか金貨は、ジェノヴァやフィレンツェでも製造されていたのだけれども、多分ミラノでも発行されていたんじゃないかと。というのも、さっきの写真にあったドゥカートのモデルになっているのが、15世紀・16世紀にミラノを支配していたスフォルツァ家の人々なので。ちなみに右端のコインはルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)。チェーザレ・ボルジアとも因縁深い人。
そんなこんなで、話を戻してヴェネツィアのドゥカート。
塩野七生「海の都の物語:2巻」によると、
「ドゥカート」と呼ばれるヴェネツィアの金貨は、重さでは三・五グラムと、「フィオリーノ」と同じだが、「フィオリーノ」が十八金であるのに反し、「ドゥカート」は二十四金であり、純度に至っては0・九九七という、まったく純金と言ってもよい純度を誇っていた。しかも、一二八四年に造りはじめてから、一七九七年のヴェネツィア共和国の滅亡に至る五百年間、その純度を保ち続けたのである。
要するに、常に純度の高い金貨を鋳造していたから、貨幣としての信用度合が他国のそれと比べて高く、流通量も多かったと、そういうことです。
さて、趣向を少し変えて。
ちょいとうろ覚えなのですが、1ドゥカートは今の10万円相当だったとどっかで書いてあった気がします。いや、6万円だったかな・・・まぁ、いいや、計算がめんどくさくなるので便宜上10万円とします。
さて、並牛が1杯380円だとすると、1ドゥカート = 並牛263杯という計算になります。1日3食並牛を食べたとして、約88日、つまり2ヵ月半は食いつなげるという計算になるわけです。そうやって考えると、1ドゥカート、結構すごい。玉子や味噌汁はつかないけれども、それでもすごい。
さて、ドゥカートの話はもう散々書いたので、最後に少しだけ銀貨の話を。
日本で大判小判以外に銀貨が流通していたのと同じように、ヨーロッパでも銀貨が流通していたわけです。そりゃそうだ、並牛食べて、支払いを1ドゥカートなんかで済ませたら、お店に怒られますからね。
そういうわけで、大英博物館に陳列されていた銀貨には、時のヴェネツィアのドージェ(元首)の肖像画が彫られていたのでした。
ドージェしか被れないコルノ(金の帽子)を被っております。
以上、一部の人にしか興味を持ってもらえないであろうアレ的なサムシングをお送りしてきましたが、アレ的なサムシングだけだと面白くないので、ついでにこれも掲載しておきます。再びコインですが、絵柄がジョジョ第3部のタロットっぽくて良いなと。
果たして荒木飛呂彦が、こういうのを元にデザインをしたのかどうかは分からないけれども。
で、このナナミー、というか自分が塩野七生を読み始めたのはこいつの影響によるところが大きいのですが、いずれにしても、その歴史・民俗学オタクな彼がですね、イタリア云々に限らず、北欧がどうのこうの、ケルトがあーだこーだ、ローマがアレでギリシャがコレだと色々な薀蓄と共に解説をしてくれるのでそれなりに楽しめたわけです。
ついさっきまで「めんどくせーから行きたくねー」だとか文句を言っていたくせに、行ったら行ったで何だかんだ楽しいのです。そういうもんですよね。自他共に認める気分屋だし仕方が無い。
まぁ、そういうアレやコレや・・・は無かったけれども、大英博物館を練り歩いていると、個人的なお目当て品だったドゥカートを発見。
ドゥカートは要するにヨーロッパで流通していた金貨のこと。言うなれば「ユーロ」みたいなもの。
Wikipedia:Ducatと、塩野七生「海の都の物語 - ヴェネツィア共和国の一千年 - 2巻」によると、ヴェネツィアによる金貨が発行される前に、1251年にジェノヴァによる「ジェノヴィーノ」金貨が発行され、翌年には、フィレンツェにより「フィオリーノ」金貨が発行されていたとのこと。
ちなみに、その当時のヴェネツィアは、既に流通貨幣として銀貨を使っていたことに加えて、アレやコレやの色々な政治的な理由により、金貨の製造にはあまり熱心ではなかった。ただ、フィオリーノ製造の約30年後の1284年に、時のヴェネツィアのドージェ(元首)、ジョヴァーニ・ダンドロによってヴェネツィアンドゥカートが発行されたそうな。なお、この初版ドゥカートの表には、聖マルコ寺院の前でひざまずくドージェが描かれており、裏にはキリストが描かれているとのこと。まるでヴェネツィアお得意の政教分離を象徴しているかのよう。
そう言えばこのドゥカート、というか金貨は、ジェノヴァやフィレンツェでも製造されていたのだけれども、多分ミラノでも発行されていたんじゃないかと。というのも、さっきの写真にあったドゥカートのモデルになっているのが、15世紀・16世紀にミラノを支配していたスフォルツァ家の人々なので。ちなみに右端のコインはルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)。チェーザレ・ボルジアとも因縁深い人。
そんなこんなで、話を戻してヴェネツィアのドゥカート。
塩野七生「海の都の物語:2巻」によると、
「ドゥカート」と呼ばれるヴェネツィアの金貨は、重さでは三・五グラムと、「フィオリーノ」と同じだが、「フィオリーノ」が十八金であるのに反し、「ドゥカート」は二十四金であり、純度に至っては0・九九七という、まったく純金と言ってもよい純度を誇っていた。しかも、一二八四年に造りはじめてから、一七九七年のヴェネツィア共和国の滅亡に至る五百年間、その純度を保ち続けたのである。
要するに、常に純度の高い金貨を鋳造していたから、貨幣としての信用度合が他国のそれと比べて高く、流通量も多かったと、そういうことです。
さて、趣向を少し変えて。
ちょいとうろ覚えなのですが、1ドゥカートは今の10万円相当だったとどっかで書いてあった気がします。いや、6万円だったかな・・・まぁ、いいや、計算がめんどくさくなるので便宜上10万円とします。
さて、並牛が1杯380円だとすると、1ドゥカート = 並牛263杯という計算になります。1日3食並牛を食べたとして、約88日、つまり2ヵ月半は食いつなげるという計算になるわけです。そうやって考えると、1ドゥカート、結構すごい。玉子や味噌汁はつかないけれども、それでもすごい。
さて、ドゥカートの話はもう散々書いたので、最後に少しだけ銀貨の話を。
日本で大判小判以外に銀貨が流通していたのと同じように、ヨーロッパでも銀貨が流通していたわけです。そりゃそうだ、並牛食べて、支払いを1ドゥカートなんかで済ませたら、お店に怒られますからね。
そういうわけで、大英博物館に陳列されていた銀貨には、時のヴェネツィアのドージェ(元首)の肖像画が彫られていたのでした。
ドージェしか被れないコルノ(金の帽子)を被っております。
以上、一部の人にしか興味を持ってもらえないであろうアレ的なサムシングをお送りしてきましたが、アレ的なサムシングだけだと面白くないので、ついでにこれも掲載しておきます。再びコインですが、絵柄がジョジョ第3部のタロットっぽくて良いなと。
果たして荒木飛呂彦が、こういうのを元にデザインをしたのかどうかは分からないけれども。