that blog-ish thingy

ブログ的なアレです。

金閣寺に花束を

2010年10月06日 | 旅行とか出張とかアレとか
9月末の話。
まだ厳しい暑さが残る中、日差しを避け、林を通り抜けると、





鹿苑寺の舎利殿が登場する。



どうも「美」というものは、そもそも世俗的な価値観を排他する、唯一無二の存在でなければならないようだ。
ただ、その裏では世俗的な価値観が紐付くことが多い(金銭取引されるだとか)。
結果として「美」そのものが持つ神秘性はスポイルされてしまう。

自分はそういう価値観を持ち合わせていないので何とも言えないが、耽美主義者というのは、どうもこの「美」をスポイルする害悪要因を徹底的に排除したがるらしい。
ただ、その巨悪で不条理な害悪要因を前にして、挫折し、苦悩し、しかしその思想が極限にまで達すると、「金満主義により本来的な『美』が毒されるぐらいなら、『美』そのものを排除してしまおう」という考えに帰着してしまうようだ。

結果としてこの舎利殿は、ストイックな耽美主義者によって灰塵と化した過去がある。
(三島由紀夫の『金閣寺』によると)

それぐらいの圧倒的な「美」が金閣寺にはあるらしい。
個人的には、その派手派手しい外観があまり好きではないのだけれども。
(元も子も無い発言ですが)



という小難しい話はさておいて、近くで見るとトコトン金なんだなと。
これでもかというぐらい金。
「You're 金 of 金s」なまでに金。
アリスの「チャンピオン」を歌いたくなるほどに。





それにしても、さっきの三島由紀夫の「金閣寺」の続きじゃないけれども、賽銭箱はありとあらゆるところに設置されていた。



例えば、この賽銭箱。
茶室の前に置かれていた。
一体どんな御利益があるというのだろうか。



さらにはこんなものも。



確実に何かがおかしい。
耽美主義者じゃなくても何かしらの衝動に駆られてしまう。

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サヴォナローラ

2010年05月12日 | 旅行とか出張とかアレとか
巷でちょっとした物議を醸し出している動画があった。

デキビジ「勝間和代 VS 西村ひろゆき」
デキビジ 勝間 vs ひろゆき 議論



この動画を見ながら、とある歴史的人物を思い出した。
ジロラモ・サヴォナローラだ。

サヴォナローラは15世紀にフィレンツェにいた修道士。
修道士なのにフィレンツェの実権を握ってしまった人物だ。



(出典:Wikipedia - ジロラモ・サヴォナローラ

当時、フィレンツェにおける政権は、ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチによって握られていた。
フィレンツェ市民の絶大な支持を得たロレンツォ・デ・メディチの息子だ。

ピエロは「偉大なるロレンツォ」とは異なり、些か人望や能力やに欠けるところがある人物だった。
ただ、それでも何とかギリギリのところで執政を振るっていた。

ところがある日、事件が起きる。
フランス軍がナポリ攻略を目指して南下しているという情報が入るのだ。
フィレンツェにとってみれば、フランスもナポリも同盟軍。
どっちに味方をしても不義理になってしまう。

ここでピエロはフランスに投降してしまう。
フランスの軍事力を恐れてのことだった。

このピエロの弱腰な態度に付け入ったフランス軍は、物資や金銭的な援助を求める。
さらに、フィレンツェ近辺の村々を攻略したり、フィレンツェ市内で数々の問題を起こす。
当然、フィレンツェ市民はフラストレーションを募らせていく。



ここで登場するのがサヴォナローラ。
市井の代弁者として登場し、過激な言葉で人々を煽動し始めたのだ。

以下、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」より抜粋。

十一月一日、フィレンツェの街中では、恐怖におびえる民衆を前に、サヴォナローラが説教する。

「これこそ神のくだしもうた剣だ。わたしの予言は的中した。鞭がふりおろされる。神自らが、あの群生をひきいておられる。これこそ、神のくだしたもうた怒りの試練だ!

おぉ、フィレンツェよ、ローマよ、イタリアよ、歌と踊りにあけくれるときは過ぎたのだ。今や、涙の河が流れる。わが民よ、悔いあらためて改心するのだ。神に近づくのだ!主イエスよ、われわれの罪のために、われわれへの愛のために死なれたお方よ。許したまえ、あなたの子羊であろうと努める、このフィレンツェの民を許したまえ!」

(中略)

「十一月九日、日曜日、晩鐘の時刻に、武装した市民たちが政庁前の広場に集まりはじめた。



市民集会(パルラメント)を開こう、という声があがる。そこに、サヴォナローラ派として有名なフランチェスコ・ヴァローリが馬で入ってきて、『ポポロ、リヴェルタ』(民衆、自由)と叫んだ。たちまち広場中の人々が唱和した。その間にも、広場は集まってくる人々でいっぱいになり、誰もが、『ポポロ、リヴェルタ』と叫ぶ。

(後略)


この暴動により、ピエロは着の身着のままフィレンツェから逃走。
この快挙により、勝利の雄叫びを上げるフィレンツェ市民たち。
そして、その勢いそのままにサヴォナローラがフィレンツェ市の代表者として選ばれる。

サヴォナローラは、まずフランス王と会見。
平和条約を取り付けると共に、ピエロが提供してしまった金銭や土地を一部取り返すことにも成功する。
この成果に対してフィレンツェ市民は狂喜乱舞、民衆はサヴォナローラを指導者として奉り、町はサヴォナローラ一色になる。

こうしてフィレンツェの実質的な支配権を握ったサヴォナローラは、その後も「現世での贅沢はまやかしだ!禁欲と節制に徹し、信心深く生きろ!」と例の過激な口調で説き回る。

平時であればフィレンツェ市民たちもサヴォナローラの言葉には耳を貸さなかっただろう。
しかしながら不安定な情勢下においては、人はどうも時勢や風潮に流されてしまうらしい。
そこらへんは、本質的には、今も昔もあまり変わりはない。



いずれにしても、このサヴォナローラの偏重的な思想は、フィレンツェ市民に受け入れられた。
そして、その「禁欲と節制」は日々留まることを知らずエスカレートしてゆく。

翌一四九六年。

「二月七日、今日、郡をなし頭巾をかぶった少年たちが、路という路を走り回り、少しでも贅沢品を身につけている人々からそれを取りあげるという事件が起った。あれは修道士の少年たちだ、と大人たちは驚きながらささやきあった。なかには少年の群が近づくと逃げる者もいたが、それでも人々は、堕落した習慣を追放するという、"サヴォナローラの少年たち" の行為を誉め讃えていた。このようなことは、老人たちの話では、この街にははじめてのことだそうだ。わたしも、ありがたい時代に生きる幸せに恵まれたものである。


また、こんなエピソードもある。

午後は、誰もが街をねり歩く大行列に加わった。ほとんどの人が、白衣に赤い十字架をもっている。

行列がシニョーリア広場に着いたとき、そこには大きなピラミッド型につくられた贅沢品ができていた。高さは、三十ブラッチア(約十八メートル)もあろうか、周囲も、百二十ブラッチア(約七十二メートル)はあると思われる。山は七段にきざまれ、すべて謝肉祭用の色とりどりの贅沢品でいっぱいだ。

(中略)

広場は、人で埋まっていた。少年たちは、ロッジア・ディ・ランツィの中に並んでいて、聖歌を歌いはじめる。そのうちに、誰かが合図をしたらしい。ピラミッドの四隅に火が点けられた。火はまたたくまにピラミッド全体をおおう。政府の楽隊の奏楽がはじまった。政庁の塔の金が鳴りだし、それを合図のように、全市の教会の鐘も鳴りはじめた。群集は、喜びの声をあげ、神への感謝の祈りがはじまる。祈りと聖歌と鐘の音が入りまじって、ひざまずく人々の上を流れていった。

これこそ、神の国である。焼けていくピラミッドのそばに立って祈りをささげているサヴォナローラの神々しいまでの姿を、人々はひざまずきながら見上げていた。


このイベントは "Bonfire of the vanities" と呼ばれているが、日本語に訳せば「虚構のどんと焼き」と言ったところか。
対極にある思想を焼き尽くすことにより自身の信念や立場を正当化しようとする行為は、どの時代でも見られる現象だ。



ただ、こういった偏った宗教観は、次第にフィレンツェ市民を苦しめ始める。
どの時代を見ても、教理や思想で人を煽動することは出来たとしても、どこかで反動が起きてしまうらしい。
特に「華やかさと自由」を愛したフィレンツェ市民にとってみれば「節制と禁欲」は苦痛以外の何モノでもなかったのだろう。

そんな中、反サヴォナローラ派だったドメニコ宗派の僧が口火を切る。

「あのサヴォナローラってやつはクレイジーだ。もし、やつが本当に『神の遣わした預言者』であるのであれば、燃え盛る火の中ですら歩けるだろうに」

何とも不条理な発言だが、サヴォナローラの弟子である修道士フランチェスコが挑発に乗り、この "火の試練" の挑戦を受けてしまう。
再び塩野七生「わが友マキアヴェッリ」からの引用。

「四月七日、街中は朝から昂奮の渦に巻きこまれている。

(中略)

広場はすでに、"火の試練" のための舞台ができている。それは、政庁の前からななめの方向、すなわち広場の中央にせりだした形になっている。



レンガを積みかさねた土台は、高さが二ブラッチア半(約一・五メートル)あり、その上に、高さ四ブラッチア(約二・四メートル)、長さが五十ブラッチア(約三十メートル)、幅が十ブラッチア(約六メートル)におよぶ、薪の束の廊下ができている。薪の束の間には、ところどころ火薬がおかれ、油が、まんべんなく振りかけられていた。所定の時刻である正午が迫ってきた。広場は立錐の余地もないほどの人だ。広場の周囲の家々の窓までが、鈴なりの人でいっぱいだ。



武装した兵の一団が、部隊と群集の間に立って警備にあたっている。今日の主役であるドメニコ宗派とフランチェスコ宗派の修道士たちも、両派の指導者であるサヴォナローラとフランチェスコの両修道士を先頭に、広場に入ってきてそれぞれの位置についた。これで、準備はすべて終ったわけだ。早朝から広場にきて待っている群衆は、今にも火が点けられるかと、かたずをのんで見守る。

ところが、いっこうにはじまらない。

(中略。ただ、掻い摘んで話すと「キリスト像を持って火の中に入りたい」「それはダメだ」というやりとりがずっと続いていた)

その間にも、待ちくたびれた群衆から、非難の声があがりはじめた。彼らは朝から何も食べていないうえ、約束の時刻からにしても、三時間以上は待たされているのだ。不穏な空気が流れた。しかし、警備兵の手早い処置によって、また再び自分たちの場所にもどって待つ態勢になった。だが、政庁に入ったり出たりは、まだ止まない。そうこうするうち、およそ午後の五時近くであったろうか、それまで厚く雲のたれこめていた空から、パラパラと降りはじめたと思うまに、たちまちしのつく豪雨になった。そのとき、屋根のあるロッジアの中にいたドメニコ宗派の何人かが立ち上がり、



『奇跡だ!奇跡だ!神が "火の試練" を望んでおられないという証拠だ!』と叫んだ。

われわれは怒った。こちらは何時間も待たされたあげくに雨まで浴びたのだから、怒るのはあたりまえである。群衆から、怒声がとびはじめた。彼らの非難は、ドメニコ宗派に向けられた。『あいつらは、はじめからやる気がなかったのだ』『なぜサヴォナローラ自身がやらない。彼がキリスト像をもたずに火の中に入っていたら、こんなことにはならなかったのだ』『なんだって、キリスト像にそうこだわるのだ。やる気がないからだろう』

(中略)

今にも爆発しそうな広場の空気に、政府の人々の気付いたとみえ、一人が外に出てきて政府の決定を伝えた。"火の試練" は中止するというのである。


この後、両宗派の僧たちは警備兵に守られながら各々の僧院に戻る。

しかしながら群衆の怒りは収まらない。
毎日のようにシニョーリア広場に人が押しかけ「あんなの納得いくか!裁判しろ!」と叫ぶ。
ついに政府も折れ、公開裁判を行うことを決めるのであった。

ただ、これは現在で言うような「裁判」ではなく、既成事実を作るための、ある種の儀式のようなものだった。

ローマの法王から裁きをまかされ来ている司教のロモリーノが、サヴォナローラの手首に縄を結びつけるように命じた。そして、高く引きあげさせるまえに、サヴォナローラに向ってたずねた。『おまえが白状したこと、すなわちおまえは神の言葉を聴いたわけでもないのに聴いたと人々に言い、自分は神からつかわされた預言者だと広言したが、あれはすべて嘘いつわりであったというおまえの言葉を、この場であらためて認めるか』

サヴォナローラは、認めない、自分は預言者であると答えた。司教は、めくばせをした。とたんに、サヴォナローラは高々とつりあげられた。傍聴席のわれわれの頭上から、うめくようなサヴォナローラの声が降ってきた。

『認める、わたしは罪人だ。神の声は聴かなかった』その日の公開裁判は、これで終りだった」


話は一寸逸れるが、こんな話がある。

ユダにわずかな銀貨を与えて、キリストを捕らえたローマ帝国は、一応のプロセスとして裁判を行った。
しかしながら裁判の結果は無罪。
正当に判断した場合、キリストの行動は「どう見ても無実」だというのだ。
しかしながら、裁判所の外には昂奮した群衆が有罪判決を今か今かと待ち構えている。
ここで群衆に無実を伝えたら、裁判官の地位はおろか、命すら危ない。
このような事態により、裁判所の判断は覆り、有罪判決が下されたというのだ。

もしかすると、フィレンツェ市がサヴォナローラに対して行った裁判も、それと似ていたのかもしれない。
サヴォナローラの行動が正当であったかどうかを公正に判断するかどうかなどはどうでも良かったのだろう。



いずれにしても、裁判の結果、サヴォナローラならびにその弟子たちの死刑判決は下った。
フィレンツェ市民は、ようやく怒りの矛を収める。
絞首台が急ピッチで造られた。

そして迎えた1498年5月23日。
まずは、サヴォナローラの弟子二人が吊るされる。

最後に、真中にサヴォナローラがつるされる番だった。彼を信じていた者には、これが最後の機会だった。何か、言ってくれるにちがいない。何か、われわれに言葉を残してくれるにちがいない。奇跡でなくても、神の栄光を讃える言葉とか、正しく良き生活への勇気をふるいおこせとか、教会は改革されるだろうとか、不信人者は滅びるだろうとか、われわれには何でもよかったのだ。だが、彼は何も言わなかった。サヴォナローラは、低くなにごとかをつぶやきながらつるされた。それが、多くの人々を失望させ、それらの人々の心から、彼への信仰を失わせた。

絞首台の下に積みかさねられていた薪の束に、火が点けられた。それらには火薬がしかけてあり、油をかけてあったので、火の勢いはひどく強かった。またたくまに火は、高い丸太棒をはいあがり、火炎が、死んだ修道士たちをなめまわした。




(出典:"WEB Gallery of Art - Execution of Savonarola on the Piazza della Signoria"

こうしてサヴォナローラの人生に幕が下ろされた。
その後は、メディチ家が再び執政に返り咲き栄華を手中に取り戻すが、その話はまた別の機会に。



さて、今日の記事を書きながら思ったことがある。
サヴォナローラは本当に処されるべき人物だったのだろうか。

結果だけ見れば、サヴォナローラは、当時の人たちからは「悪」として捉えられた。
が、彼は同時に、フィレンツェ市の財源回復を達成するなどの「善」をもたらした。

善の裏には悪があり、悪の裏には善がある。
そこには、ある種の等価原理が働いているようにも思える。

そういう大局的な観点で言えば、サヴォナローラも、そして現代において色々と賞賛・批難されている人々も、単なる「善悪」で判断してはいけないのだと改めて気付かされる。
アムロやカミーユを「善」とし、シャアやハマーンを「悪」として断定出来ないのと同じように。



サヴォナローラの死から四世紀後、シニョリーア広場に、とある記念碑が作られた。



"The Bonfire of Savonarola" というサイトにある原文英訳を参考にしながら日本語に翻訳してみると、概ねこんなところである。

1498年5月23日、修道士ジロラモ・サヴォナローラと彼の弟子たち、修道士ドメニコ・ブォンヴィチーニならびに修道士シルヴェストロ・マルッフィが、不当な判断により、絞首、焚刑された。その4世紀後、この記念碑が飾られた。

サヴォナローラの命日には、今でも花束が置かれる。


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イタリア旅行記(17)フィレンツェの残り

2010年04月29日 | 旅行とか出張とかアレとか
というわけで、残りのフィレンツェを書きたいと思います。
例によって長くてすいません。

さて、この日は朝の6:30から行動を開始したわけです。
というのも、昼過ぎにはフィレンツェを出発して、イギリスに戻らなければならなかったので。

というわけで、まずはサンタ・トリニタ橋を通り、南へ。



左手にポンテ・ヴェッキオが見えます。



そして、薄暗い通りを抜けながら、ピッティ宮を目指します。



どうでも良いんですが、こういう青って、何だか人を遠ざけるような色だよなーと。
暗澹たる陰鬱な青というか、ヨーロッパ映画とかに出てきそうな青というか。
少なくともイギリスだと、こういう何者をも寄せ付けない青っていうのは無い気がするな・・・なんてことを思っていました。

そんな話はさておいて、ピッティ宮。
この中には膨大なアレが色々とあるのですが、朝の7:00に開いているわけもなく。



ただ、ホントはものすごく行きたかった。
残念。



なので、ピッティ宮の雰囲気だけ味わって、今度はグィッチャルディーニ通りを北へ上がります。



なお、この時点では「わが友マキアヴェッリ」を読み終わっていなかったので知らなかったのですが、どうやらその昔、塩野七生女史の友、マキャヴェッリがここらへんに住んでいたらしいです。

ついでにこの「グィッチャルディーニ通り」について。
イタリア語で書くと "Via de'Guicciardini" になるんですが、この "Via" というのは英語でも使われます。
「○○行き」だとか「○○経由で」といった形で。
なので、この通りの名前も、本来は「グィッチャルディーニ通り」じゃなくて「グィッチャルディーニ家(フィレンツェの名家)の屋敷に向かう道」という意味だったんだろうなと。

加えて、ジェノヴァでも見かけた "Via Roma" という通り。
これは、ジェノヴァに限らず色々な町で見かけるわけですが、要するに「ローマ行きの道」と。
全ての道はローマに続いていたわけです。

さらに、"Via" が未だに英語で使われているというのも面白いなと。
その昔、イギリスはローマ帝国に占領されていた時期があって、ロンドンなんかも単にローマ帝国の駐屯地でしか無かったわけです。
そういう何世紀も前に使われていたラテン語が("Via" に限らず、"concentrate" とかもそうですが)未だにずーっと使われ続けているというのは、何だか悠久の時代を感じるというか、ロマンが詰まっているというか・・・個人的には大興奮ファクターです。

そこらへんを書き始めるとマジで長くなりそうなのでここらでやめておきますが、いやー、ホント面白いですよね。




というわけで、グィッチャルディーニ通りを、ポンテ・ヴェッキオ手前でクイッと右手に曲がり、今度はベルヴェデーレ要塞を目指します。
高台から早朝のフィレンツェを眺めたいと思います。



こういう、そこそこの勾配のある坂を延々と登っていくわけです。
なかなかの重労働です。



で、かれこれ15分ぐらい登ったでしょうか。
坂の上に辿りつくと・・・



閉まっております。

何これ?
自由に入れる公園みたいなところがあって、そこに展望台があるんじゃなかったの?

ちょっと別の入口試してみるか・・・。



閉まっております。

なんだよ!閉まってるじゃねーかよ!
「地球の歩き方」にそんなこと書いてなかったぞ!多分。

ベルヴェデーレ要塞
催事のみ開場
'09年5月現在、閉鎖中
要塞内部に入らないと、町を見下ろす風景は楽しめないが・・・(以下略)


ほほー。
じゃあ・・・次のところへ行きますかね。



というわけで、再び坂を下り、





アルノ河まで戻ります。



ベルヴェデーレ要塞に行ったがために30分ほどのロスを強いられましたが、まぁ、これも旅のアレだということで。



で、ナントカグラッツィエ橋。






ここから見る朝日は何とも穏やかで儚くて、このまま風景に溶け込んでしまいそうになりました。






塩野七生女史はアルノ河沿い(ここよりもっと下流のところ)に住んでいらっしゃったみたいですが、



俺も、いつかは!

と心に固く誓ってはいないですが、まぁ、でもフワッとは誓いました。

ちなみに河がこんなに穏やかなのは、上流の方で堰き止めをしているからです。
下流の方でも堰き止めしています。



さて、そんな心地よい風景を後にし、足を向けたのがサンタ・クローチェ教会。



マキャヴェッリの墓が中にあるので入りたかったのですが、復活祭につき閉館。
中に入りたかったなー。



ちなみに、教会のファサードに六芒星があったのですが、



何故これがあるのかが謎。
あんまり他の教会とかでは見かけないので。

フランチェスコ派が何かのシンボルで使ってたとか、そういう感じかなー。
まだ調べていないので今後の課題ということで。



続いて、進路を西にとり、バルジェッロ国立美術館。



再び中には入れず。

ここ、今は国立美術館ですが、元は行政長官の館で、牢屋なんかもあったらしいです。
そこらへんは塩野七生「銀色のフィレンツェ」で生々しく描かれているのでご存知の方も多いはず。



で、そこから南へちょいと行くと、再びヴェッキオ宮に戻ってくるわけです。



さて、このヴェッキオ宮について、1498年6月19日当時の描写を、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」から引用したいと思います。
マキャヴェッリという人は、フィレンツェ政府の官僚を経て、自称歴史家・喜劇作家・悲劇作家となった人であり、塩野七生女史の友です。
1498年6月19日は、マキャヴェッリが官僚として初登庁した日です。

パラッツォ・ヴェッキオ(政庁)前のシニョリーア広場は、ほぼ現代と同じ広さであったはずである。しかし、舗装は、石ではなくて赤いレンガの時代だった。政庁を正面にすれば左側に立つブロンズの騎馬像は、フィレンツェ共和国崩壊後のトスカーナ大公国初代大公コシモ・ディ・メディチの像だから、共和国健在の当時はまだない。





政庁に近接して水を噴きあげる海神ネプチューンとニンフたちの群像も、マキアヴェッリの時代にはまだない。





政庁の正面を飾るミケランジェロ作のダヴィデの虚像は、一五〇四の完成だから、初登庁の当時は眼にしなかったにしろ、その後は毎日いやでも眼に入る存在だっただろう。





これ以外は、ドナテッロ作のジュデッタの像をのぞいて、ロッジアと呼ばれる屋根つきの集会所の中に現在置かれている像の多くの像は、マキアヴェッリの時代にはなかった。



ロッジアは、雨が降っても市民の集いに支障をきたさないためという当初の目的を、当時はまだもちつづけていたのである。フィレンツェが、都市国家の中心であった時代が過ぎ、君主国家トスカーナ大公国の首都に変る十六世紀半ば以降からは、ロッジアも広場も、市民の集いの場から、君主の権勢を示す展覧会の場所に変わってしまったことになる。

だが、マキアヴェッリの時代の政庁の主は、まだ共和国ゴンファロニエレ(大統領)だった。だから政庁の正面入口のすぐわきには、政庁を守るかのように、赤いあやめを描いた盾に前脚をかけた獅子の石像が立っていた。



野生の赤あやめは、都市国家フィレンツェの紋章である。この獅子は、場所は少し移動させられたにしても、現在でも政庁の前にある。



パラッツォ・ヴェッキオを、正面からではなく、横から眺めると、不釣合に増築されたことが誰にもわかるが、この二分の一弱におよぶ増築部分も、大公国時代になってからの産物である。



(中略)わずか半世紀のちがいにすぎなくても、二つの時代の美的想像力のちがいを見せつけられる想いがする。




さ、無駄に長くなってきたので、残りをサクッと。

ウッフィツィ美術館。



元々政庁の一部です。



開館15分前に並んだのですが、既に行列が。
長蛇の列、という程ではなかったものの、うーん、どれくらい待ったのかな?それでも20分くらいは待ったような気がします。



ちなみに、右側のベニヤ板っぽいアレのちょい先が入口。

で、ウッフィツィ、面白かったです、かなり。
詳細は今日は割愛します。



で、最後。
Pineiderという革製品の店。



散財しました。

で、ここからダッシュでサンタ・マリア・ノッヴェラ駅へ。
そこからピサへ向かい、なんちゃら空港から飛行機でイギリスに戻ってきたという次第です。



それにしてもフィレンツェ面白かったなー。
復活祭とかぶったせいで行けないところも多かったのだけれども、まぁ、それは次回フィレンツェ・ローマ旅行で挽回ということで。
あと、これは強がりじゃなくて、一人旅、すげー楽しいです(飯の時間以外は)。

というわけで、旅行記は一応これで終了です。
後日、気が向いたらサヴォナローラ、コジモ1世、ウッフィツィ美術館あたりを書こうかなー、なんて思ってますが、まぁ、気分次第ということでアレを色々とよろしくお願いいたします。



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イタリア旅行記(16)真夜中の教会めぐり

2010年04月23日 | 旅行とか出張とかアレとか
というわけで、前回の続き。

晩飯を食い終わって、ブラブラとフィレンツェ市内を歩いていたのですが、サンタ・マリア・デル・フィオーレ前に差し掛かると、何だかものすごい人だかりなわけです。





おいおい、なんだこれ。
22:00だってのに・・・と思ってさらに近付くと、何だか松明焚いてます。



(手ブレしまくりです。すいません)



さらに、何だか人が教会の中にドンドンと吸い込まれていく。
何だよ、入れるのかよ・・・と思いながら中に入ってみると、



真っ暗。
蝋燭を持った人たちのおかげで、辛うじて歩ける・・・ぐらいの暗さです。



というわけで、暗闇の中で暫く待っていると、ボーッと明かりが点き、





厳粛な雰囲気の中でミサが開始されたわけです。





そうかー、明日は復活祭だからなー。



ということは、何百年前だかに、ここで「パッツィの乱」が起きたってことだよなー。



さて、サンタ・マリア・デル・フィオーレでミサが行われるってことは、きっと他の教会でも行われているんだろうな、ということで、サン・ロレンツォ教会へと足を運びます。
と、その前に、メディチ・リッカルディ宮。



元メディチ家の邸宅。

ちなみに、1537年にアレッサンドロ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニーフィコの曾孫)が、分家のロレンツィーノという人に暗殺された場所がココ。
塩野七生「銀色のフィレンツェ」によると、その暗殺方法というのは・・・ネタバレになるからやめておきますかね。
分かる人にだけ分かるようにこの写真載せておきます。



確かにそういう仕掛けがあってもおかしくはなさそう。



さて、サン・ロレンツォ教会。



ファサード(教会の正面のデザイン)は未完成です。



中に入ると・・・



おっ、すげーな。
ルネサンスの香りがする。
さすがメディチゆかりの教会。

ちなみに、先ほどのサンタ・マリア・デル・フィオーレのミサは荘厳な雰囲気で執り行われていたのですが、こちらのサン・ロレンツォは何やらポップ。
賛美歌とかもギターでキャッチーな曲を歌っていたし・・・何だこれ、ヒッピーの集まりか、と一瞬思ったぐらい。
という微妙な雰囲気でミサやるの、神父さんもちょっとアレなんじゃないかなー。



で、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会。
幾何学的なファサードが見事です。



こちらは、ミサは執り行われていたものの、一般入場は制限されていました。

で、ホントはもう一つの「フィレンツェ四大教会」のサンタ・クローチェ教会にも行きたかったんですが、サンタ・マリア・ノヴェッラから歩くの面倒くさくなったので諦めました。

という感じでした。
翌日が復活祭で、ほとんどの観光スポットが閉まっているという事態には見舞われたものの、予想外の貴重なイベントに遭遇出来たわけです。

ラッキーだぜ。
日頃の行いが良いからだな。

さて、次回はいよいよ(というか、ようやく)フィレンツェ旅行、最終日です。
多分、ウッフィツィ美術館について書くような気がしていますが、果たしてどうなることやら。


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イタリア旅行記(15)シニョリーア広場のこととかを簡単に書こうと思ったけど書けず

2010年04月22日 | 旅行とか出張とかアレとか
残りのフィレンツェ話をとっとと終わらせようと思ったのですが・・・ちょいと無理そうです。

さて、フィレンツェに到着したのは土曜日の18:00だったのですが、この時点でほぼ全ての観光スポットは閉館しているわけです。
なので、とりあえず日が出ているうちに見れるところを見ようということで、シニョリーア広場へ。



ヴェッキオ宮。
今も昔もフィレンツェの官庁として機能しています。

ちなみに、建物は外敵から身を守るために、窓は小さく高いところに設置されています。
これについては、塩野七生「海の都の物語(3)」から説明文を抜粋したいと思います。

それなのに、なんというちがいであろう。フィレンツェの政庁は、まるで要塞だ。階の窓は高いところにあり、それも小さく、鉄柵でおおわれ、近づく者を険しく拒絶するような印象を与える。要塞特有の胸間城壁まであって、そこにくられた穴から下に向って、熱した油を流したり矢を射たりする中世の戦法で向えば、壁にとりつくことさえ不可能であったろう。警備の面でも、これならば万全のつくりであったにちがいない。

美しくないと言っているのではない。厳しいけれど、それなりの美しさに満ちている建物である。だが、国内での政争が絶えなかったフィレンツェでは、美しさのみを考えて設計できた建物は、教会だけであった。政庁にかぎらず、旧市街に散らばるメディチ家をはじめとする有力者たちの屋敷は、実に美しいが、いずれも要塞としての目的も考えてつくられている。




(ストロッツィ宮)

フィレンツェ人は、国外の敵からの身を守る前に、まず国内の敵から身を守る必要があったのである。

一方、ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレはどうであろう。フィレンツェの政庁が石の肌をそのままあらわしたつくりであるのに対し、ヴェネツィアのそれは、石壁がバラ色と白の大理石板でおおわれているという差はひとまず置くとしても、つくり方そのものからして完全にちがっている。





ヴェネツィアのパラッツォ・ドゥカーレ(元首官邸)の一階は回廊になっていて、今では絵ハガキ屋が並んでいるそこには、かつては代書屋が店を開いており、市民たちの憩いにも役立つようにと、石のベンチが壁ぎわに並んでいた。憩いに役立つようにとの政府の配慮を極端に解した者もいて、とばく場まで開帳され、政府役員の悩みになったことまである。





二階も閉めきった窓が並んでいるつくりではない。こちらも回廊が並んでいるから、まるですき通しだ。ねぎぼうずのような形のヴェネツィア・ゴシック式のアーチの連続は、精巧なレースを思わせる。





最上部も、胸間城壁などない。メルレット(レース)と呼ばれる、アラブの影響を受けたものと思われる飾りがつけられているだけである。これはまったく飾り以外の用途はなくて、その間から煮えきった油を流そうと、二階や一階のアーチの連なりで分散されてしまい、効果はまったくなかったであろう。



ヴェネツィア政庁は、防禦を目的としてつくられていない。自国民から防禦する必要のなかったヴェネツィアの幸運を、パラッツォ・ドゥカーレは象徴しているのである。泥棒だって、入るのは容易であったにちがいないと思えてくる。


何だか意図せずして、ヴェネツィアの紹介みたいになってしまいましたが・・・まぁ、いいや。



さて、このヴェッキオ宮、なかなかの荘厳な構えで有名ですが、実は結構血なまぐさい話とかもありまして。
そこらへんを「パッツィの乱」を例にとりながら説明したいと思います。

「パッツィの乱」というのは、まぁ、ものすごく簡単に言うとですね、ロレンツォ・イル・マニーフィコが商売敵であるパッツィ家に色々とアレして、怒ったパッツィ家とその一味がロレンツォ・ジュリアーノ兄弟を殺そうとしたという事件です。兄弟を同時に暗殺しようとしたのは、ロレンツォもジュリアーノも有能な上に市民に人気があったから、二人とも始末しないと意味が無い、ということらしいです。

で、その「パッツィの乱」、復活祭の日に、サンタ・マリア・デル・フィオーレで起きたわけです。



その暗殺劇の結果として、弟のジュリアーノは殺されてしまうのですが、ロレンツォは何とか命からがら逃げ出すわけです。
一方の首謀者たちはすぐに一網打尽にされてしまいます。

その首謀者たちがその後、どうなってしまったかについては、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」から引用したいと思います。

だが、フランチェスコの態度は、捕われた他の男たちとはちがった。命乞いもせず泣きわめきもせず、悪びれたところなどまったくない態度を保ちつづけ、自分をののしり石を投げる人々と冷然と見やったまま、広場に面した政庁の窓から首つりにされた。



(中略)

激昂した民衆は、もはや正規の裁判など聴く耳を失っていた。聖職者であろうと、容赦はなかった。政庁の窓がいっぱいになれば、近くの警察の庁舎(パラッツォ・デッラ・ポデスタ)の窓が動員された。このどちらかの窓からつるされた刑死体を、レオナルド・ダ・ヴィンチがデッサンしたのである。


ちなみに、このデッサン、ここに載せる気にはならなかったのですが、"Portrait of the Executed Bernardo di Bandino Barnocelli" あたりのキーワードで調べれば出てくると思います。



さて、同じくシニョーリア広場にあるサヴォナローラの銘版とコジモ1世の銅像は後日説明するとして、最後にダビデ像。



これはあんまり興味が無いので飛ばします。



さて、ここらを見終わった段階で宿に荷物を置いて、レストランを探すついでに市内観光。
まずはポンテ・ヴェッキオへ向かいます。



蒼のコントラストがたまらなく幻想的。
ナイス時間帯。



ポンテ・ヴェッキオから見たサンタ・トリニータ橋。



近くにいたツアーガイドが「ここはフィレンツェの中でもカップルに最も人気のあるスポットで・・・」とか言っていて、ちょいとブルーになりました。
俺だって本当は・・・本当はぁ!



あと、どうでも良いんですが、この景色、何だか河口湖っぽいなと思いました。



そんなロマンチックの欠片も無いこと言うから彼女が出来ないんだよ・・・。



ちなみに、ポンテ・ヴェッキオ、今でこそ宝飾店が乱立していますが、昔は景観がちょいと異なっていたようです。
再び、塩野七生「わが友マキアヴェッリ」からの引用。



それにしても、当時のポンテ・ヴェッキオの上は、喧騒をきわめていたにちがいない。肉屋が何軒も両側に並んでいて、活気に満ちていないほうが不自然である。

(中略)

羊も、皮をはがされた姿のままぶらさがっているし、にわとりは生きてコケッコッコといっているし、きじも鳩もほろほろ鳥も、羽毛さえむしりとられていない遺骸のままつるされている。店の前の道路も、汚れを洗い流す水で、やわらかい皮製の靴では、汚れ水を避けて通りぬけるのも、慣れない人には困惑ものであったろう。店の奥では、解体作業中にでる不要な骨など、背後の河に投げ捨てて平気だ。

(中略)

このようなポンテ・ヴェッキオでは外聞が悪いと考えたのが、トスカーナ大公になったメディチ家
(多分、昨日書いたコジモ1世←間違いでした。後日ちゃんと調べたところ、フランチェスコ1世でした)である。公邸と私邸をつなぐ回廊も、ポンテ・ヴェッキオの上を通らせるしかない。渡り廊下の下に展開される光景が肉屋では、息女をフランス王に嫁がせるようになった大公メディチにとっては、具合が悪かったのであろう。肉屋は移転を強制され、そのあとに、貴金属製品を商う店が移ってきた。そして、この形のまま、現代に至っている。

ということだそうです。
ちなみに、塩野七生女史、このポンテ・ヴェッキオのすぐ近くに住んでおられたようです。
詳しくは「わが友マキアヴェッリ」の背表紙にある付録を。



さて、そうこうしているうちに、さすがに腹がペコペコになり申し候、ということでガイドブックを片手にレストランを探していたわけです。
ただ、土曜の夜ということもあり、どこも満席。

仕方がないので、適当にカフェに入り、適当に飯を食ったわけです。
「わが友マキアヴェッリ」を読みながら。



一人で飯ってのは・・・寂しいッス。



で、本を読むのにも疲れてきたので、ちょいと散歩でもしようかなと思い、ブラブラと歩き始めたわけですが、



ここで思いもよらぬ好イベントに遭遇。
いやはやなんともはや、すごいタイミングでフィレンツェに来てしまったなと。

そういうわけで、次回はそこらへんについて書いてみたいと思います。
それにしてもフィレンツェの話、全然終わらないな・・・。


コメント
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