今日はシンガポール最終日。
連日、シンガポール人、オーストラリア人、アメリカ人と仕事をしたが、そこには日本では決して味わえなかったであろう、外国人メンバとの一体感を得る事が出来たと思う。
その総決算として「グローバルとは何か?」という事を再考してみた。
まず、「グローバルとは何か?」を考える前に「グローバルな人材とは何か?」を考えてみたい。何故なら「グローバル化」という現象を引き起こしているのは、いわゆる「グローバルな人材」だからだ。
とある企業において「グローバルな人材育成の目的」が記述されていたので一部抜粋する。
・事業構造の変化を敏感にキャッチし、自ら局面を切り開くことができるリーダーおよびグローバルプレーヤー
・グローバルプレイヤーとしての戦略的思考や目標管理手法の徹底などによる「組織力・マネジメント力の強化」
・海外現地スタッフの育成を図る「グローバル研修の強化」
・事業構造の変化に対して企業・個人が迅速に対応するための「スキルアップ研修やキャリア開発」
今回は上記を例として挙げているが、恐らくどこの企業も似たり寄ったりの事を目指しているのではないかと考える。
そこで若輩ながら、まず思うこと。ここには何かが欠けているような気がする。
「グローバル化」は「人と人とのつながり・触れ合い・相互理解・相互尊重」があってこそ発生し、成り立つものである。
そこに必要なのは「人としての魅力」である。
「自発的な意思」や「局面を読む能力」や「スキルの育成」は確かに重要ではあるが、極端な話しなくても成り立ってしまうものである。
言うなれば、「人と人のつながり=骨」で「スキル=肉」であると考える。
「心があってこそ」の「点心」の精神とも関連性があるように思える。
自分は小学校・中学校の8年間をオーストラリアで過ごした。
最終的にはオーストラリアで授業を理解出来るようになり、友達と遊んだり、地元のサッカーチームなどで親交を深められるようになった。
しかし、そこに辿り着くまでには「日本人だから」「英語が喋れないから」「オーストラリア人の事を分かっていないから」という理由で敬遠されていた時期があった。
無意識のうちに、本能的に、グループに溶け込むために必死になって英語を学ぼうとしたし、相手の事を分かろうという努力がそこにはあったと思う。
しかし、実際には2つの選択肢があったはずだ。
1.日本人としてのアイデンティティを崩して、オーストラリア人としての自分を確立する。
2.日本人としてのアイデンティティを崩さず、グループに交われなかったとしても、それはそれで受け入れる。
自分はたまたま1.を選択した。
しかし2.を選択した友達もたくさん見た。
しかし、そこには「真の相互理解・信頼関係・友情」はあまり存在しなかった。
個人の人生に介入する気も、個人の価値観を否定するつもりもないがとても寂しい事だと思う。
今度は、日本に来ている外人を例に取ってみたい。
1.日本の文化を理解しようとし、頑張って日本語を覚えようとする。頑張っているので、頑張って応援したくなる。いずれ、たどたどしくも日本語を喋れるようになり、お互い楽しい時間を過ごす事が出来るようになる。
2.全く日本を理解しようともせず、日本語も覚えようとしない。「俺はこうだから」と日本人の習慣をまる無視し、迷惑をかけっぱなし。「接点」はあっても「信頼関係」はない。
現実的に、1.の人はとても仲が良く、尊敬もする。そこには「信頼関係」が成り立っているので、お互いに議論をしながら、たくさん学び、たくさん教える、という関係を確立する事が出来た。
2.の人とは、あくまでも「外人に言われたからやる」であって、議論をしたとしても、多くの場合は「外国ではこうやるものだから、そうやってればいいんだ」という意見に従うしかない。認めたくはないが、主従関係のようなものだ。
そこで、改めて「グローバルとは何か?」と問う。
最初にも述べたが、グローバルとは「人と人が互いを理解し、信頼関係を築く事」に尽きるのではないかと思う。
そこにあるのは「スキルや経験」ではなく「理解」であり「思いやり」であり「人間としての魅力」なのだ。
さらに根本的な事を言ってしまえば、日本人・外国人を問わずに「違いを理解して、思いやる」それを基として「お互いに向上する」というのは「人としての基本資質」であり、そこにはグローバルもへったくれもないと思う。
日本だろうが外国だろうが、「スキル・経験」や「ビジネス」はその後に来るものなのではないだろうか?
我々は「国」として「企業」として生きているのではなく「人」として生きているのだ。
余談ではあるが、昨日、のん兵衛のオーストラリア人がしんみりと感慨深げに言っていた一言がかなり胸をついた。
「前、台湾のハードロックカフェで素晴らしいTシャツを見つけたから思わず買ってしまったよ。Tシャツの背中に
『I dream in a world that there is only one flag, no boarder』
(いつの日か一つの旗、国境の無い世界が来る事を願う)
っていうコメントが書いてあってさ。そういう日が来るといいよねぇ」と。
自分もそのようなグローバルな世界が来る事を願うばかりである。
連日、シンガポール人、オーストラリア人、アメリカ人と仕事をしたが、そこには日本では決して味わえなかったであろう、外国人メンバとの一体感を得る事が出来たと思う。
その総決算として「グローバルとは何か?」という事を再考してみた。
まず、「グローバルとは何か?」を考える前に「グローバルな人材とは何か?」を考えてみたい。何故なら「グローバル化」という現象を引き起こしているのは、いわゆる「グローバルな人材」だからだ。
とある企業において「グローバルな人材育成の目的」が記述されていたので一部抜粋する。
・事業構造の変化を敏感にキャッチし、自ら局面を切り開くことができるリーダーおよびグローバルプレーヤー
・グローバルプレイヤーとしての戦略的思考や目標管理手法の徹底などによる「組織力・マネジメント力の強化」
・海外現地スタッフの育成を図る「グローバル研修の強化」
・事業構造の変化に対して企業・個人が迅速に対応するための「スキルアップ研修やキャリア開発」
今回は上記を例として挙げているが、恐らくどこの企業も似たり寄ったりの事を目指しているのではないかと考える。
そこで若輩ながら、まず思うこと。ここには何かが欠けているような気がする。
「グローバル化」は「人と人とのつながり・触れ合い・相互理解・相互尊重」があってこそ発生し、成り立つものである。
そこに必要なのは「人としての魅力」である。
「自発的な意思」や「局面を読む能力」や「スキルの育成」は確かに重要ではあるが、極端な話しなくても成り立ってしまうものである。
言うなれば、「人と人のつながり=骨」で「スキル=肉」であると考える。
「心があってこそ」の「点心」の精神とも関連性があるように思える。
自分は小学校・中学校の8年間をオーストラリアで過ごした。
最終的にはオーストラリアで授業を理解出来るようになり、友達と遊んだり、地元のサッカーチームなどで親交を深められるようになった。
しかし、そこに辿り着くまでには「日本人だから」「英語が喋れないから」「オーストラリア人の事を分かっていないから」という理由で敬遠されていた時期があった。
無意識のうちに、本能的に、グループに溶け込むために必死になって英語を学ぼうとしたし、相手の事を分かろうという努力がそこにはあったと思う。
しかし、実際には2つの選択肢があったはずだ。
1.日本人としてのアイデンティティを崩して、オーストラリア人としての自分を確立する。
2.日本人としてのアイデンティティを崩さず、グループに交われなかったとしても、それはそれで受け入れる。
自分はたまたま1.を選択した。
しかし2.を選択した友達もたくさん見た。
しかし、そこには「真の相互理解・信頼関係・友情」はあまり存在しなかった。
個人の人生に介入する気も、個人の価値観を否定するつもりもないがとても寂しい事だと思う。
今度は、日本に来ている外人を例に取ってみたい。
1.日本の文化を理解しようとし、頑張って日本語を覚えようとする。頑張っているので、頑張って応援したくなる。いずれ、たどたどしくも日本語を喋れるようになり、お互い楽しい時間を過ごす事が出来るようになる。
2.全く日本を理解しようともせず、日本語も覚えようとしない。「俺はこうだから」と日本人の習慣をまる無視し、迷惑をかけっぱなし。「接点」はあっても「信頼関係」はない。
現実的に、1.の人はとても仲が良く、尊敬もする。そこには「信頼関係」が成り立っているので、お互いに議論をしながら、たくさん学び、たくさん教える、という関係を確立する事が出来た。
2.の人とは、あくまでも「外人に言われたからやる」であって、議論をしたとしても、多くの場合は「外国ではこうやるものだから、そうやってればいいんだ」という意見に従うしかない。認めたくはないが、主従関係のようなものだ。
そこで、改めて「グローバルとは何か?」と問う。
最初にも述べたが、グローバルとは「人と人が互いを理解し、信頼関係を築く事」に尽きるのではないかと思う。
そこにあるのは「スキルや経験」ではなく「理解」であり「思いやり」であり「人間としての魅力」なのだ。
さらに根本的な事を言ってしまえば、日本人・外国人を問わずに「違いを理解して、思いやる」それを基として「お互いに向上する」というのは「人としての基本資質」であり、そこにはグローバルもへったくれもないと思う。
日本だろうが外国だろうが、「スキル・経験」や「ビジネス」はその後に来るものなのではないだろうか?
我々は「国」として「企業」として生きているのではなく「人」として生きているのだ。
余談ではあるが、昨日、のん兵衛のオーストラリア人がしんみりと感慨深げに言っていた一言がかなり胸をついた。
「前、台湾のハードロックカフェで素晴らしいTシャツを見つけたから思わず買ってしまったよ。Tシャツの背中に
『I dream in a world that there is only one flag, no boarder』
(いつの日か一つの旗、国境の無い世界が来る事を願う)
っていうコメントが書いてあってさ。そういう日が来るといいよねぇ」と。
自分もそのようなグローバルな世界が来る事を願うばかりである。