初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

父親と玩具のカメラ

2015年08月31日 22時28分35秒 | Weblog


京都市内新京極蛸薬師(たこやくし)の

東側にオモチャ屋がありました。

オモチャ屋の名前が、

物覚えの割といい私も

いくら考えても出てきません

… … …

時々、父親とそのオモチャ屋へ

出掛けました

… … …

その店で玩具のカメラセットを

買って貰いました

私がねだったのか、それとも

父親が先に見つけて買ってくれたのか

わかりませんし忘れました



次の父親の休みに

カメラセットの箱を開きました

四角いボックスカメラ。

… … …

小さなシートフィルムが

入った黒い紙の撮り枠が数枚。

… … …

赤い色と青い色のセルロイド製の現像皿が二枚

… … …

現像薬の入った赤い色のガラスチューブと

青い色のガラスチューブに入った定着薬などが

箱の中に入っていました



小さかった私に現像薬だとか

定着薬だとか、わかるわけがありません

… … …

後年、私が中学生になって

写真に興味を持つようになって

初めてわかったことです



父親は居間のテーブルにボックス・カメラを

置いて、庭の紅葉の木を狙いました

磨りガラスのピントグラスには

紅葉の木が上下逆さまに写りました











父親の一番上のお兄さん

2015年08月30日 21時20分47秒 | Weblog


父親の一番上のお兄さんは

東京、阿佐谷(あさがや)に

おばあちゃんと暮らしておられました



私は小さい頃、阿佐谷を訪れて

おばあちゃんにかわいがって

もらいました



その一番上のお兄さん夫妻が

突然、京都下鴨の我が家に来られました

… … …

末期的な食道がんでお別れに

兄弟を順番に訪れているというのです



わが両親とお兄さんの間には

すでに話が通じていたのでしょう

小さかった私には突然でした



お兄さんは食卓の牛乳に

食パンの切れ端を漬けて、

ゆっくりと食べておられました

それ以外は食道を通らないのでした



小さかった私にも

この病気は大変なのだと感じました

… … …

お兄さんは大きな大学ノートを母親に

見せました。

… … …

お兄さんは、帝国大学医学部教授でしたから

医師の立場で、自分の進行する症状が

わかっていたのでしょう

冷静に克明に病状が日記風に記入されていたそうです

… … …

最近、芸能人の食道がんの話を聞くと

この日のことを思い出します。











父親と食事

2015年08月29日 23時54分39秒 | Weblog


父親とめずらしく、丸物百貨店の

大食堂へ行ったことがありました

… … …

当時のことはよく覚えていないのですが

大食堂が混んでいたのか、ウェイトレスが

わがテーブルになかなかやってきませんでした

… … …

突然、父親は「出よう…」と立ち上がりました

大食堂の応対に腹を立てたのか?、それとも

別のアイデアが浮かんだのか?、私と父親は

丸物百貨店を出てなぜか京都駅に向かいました



何代目かの京都駅で改札からホームを眺めていると

白煙を吐きながら蒸気機関車に引かれた列車が

猛烈なスピードで通り過ぎていきます

… … …

父親は突然、「大阪へ行こうか?…」と

省線電車で大阪へ行くことになりました



京都から大阪へ向かう交通手段は

京阪電車で京阪三条駅~大阪天満橋(てんまばし)か

新京阪で四条大宮~梅田の郊外電車でした

京阪も新京阪も電車はこぢんまりと二両編成でした

… … …

ラッシュアワーで六両、八両編成になったのは

戦後の職住分離になってからです



丸物百貨店を出て、省線電車で大阪へ出た

父親と私は、道頓堀の座敷で、すき焼きを食べました

… … …

夜、帰宅した父親と私を見た母親は

帰りが遅いので心配していたのでしょうが

顛末を聞いた母親はヤレヤレと呆れていました



当時は、勿論、携帯電話はありません

家の母親に連絡はできません

… … …

家に、固定電話もありませんでした

… … …

世の中はのんびりしていたのですね






思い出の丸物百貨店

2015年08月28日 21時21分28秒 | Weblog


父親が仕事で追い込みに入ると

私は父親の顔を見ない日が続きます

すると、こんどは母親と

出かけることになります



我が家の前はアスファルト道で

バス通りでした

バス停、下鴨神社前?から

母親とバスに乗ってのお出掛けです



当時の京都、市バスは運転手と女性車掌の

二人で、車掌(バスガール)さんが

「次は△△、お降りの方は…」の

アナウンスと切符を扱っていました

… … …

京都駅一つ手前まで乗ります

行き先は京都駅前の丸物百貨店(まるぶつ)で

6階の大食堂です




丸物百貨店の大食堂の女性主任さんといつからか

知り合いになって、大食堂に入ると、いつも、その主任さんが

笑顔で迎えてくれました

… … …

どこの百貨店でも大食堂に人気があったのに

いつからか、無くなってしまいました残念です



丸物百貨店は京都駅前では大きなビルで

朝日が昇るとビルの東側が十五センチほど膨張して

夕陽があたる西側がこんどは十五センチ膨張すると

聞いたことがありました。

… … …

好きだった丸物百貨店も名称を近鉄百貨店と改称されて

やがて閉店しました。

… … …

閉店だけならまだしも、丸物百貨店のビルを

解体してそのあとに

ヨドバシカメラ、ビルが建ちました

… … …

私の丸物百貨店の思い出はなくなりました






父親の約束

2015年08月27日 20時47分04秒 | Weblog


仕事のない休みの父親は

「行こうか…」と私とよく

出掛けました



出町柳駅(でまちやなぎ)から

叡電(えいでん)で比叡山の麓

八瀬駅(やせえき)へ、そしてケーブルカーで頂上の

四明岳駅(しめいがたけ)でロープ・ウェイに乗り換えて頂上駅

… … …

そこから歩きで

延暦寺(えんりゃくじ)根本中堂(こんぽんちゅうどう)へ

行ったことがありました

… … …

私は小さいときから歩くのは

別に苦になりませんでした



近所の友達と遊んでいるときに

「こんど休みの日にお父さんと△△へ

行く約束をした…」と聞いて、

私は父親に

「僕にも××へ行く約束をしてくれ…」と聞くと

「約束はできない…」と云われました

… … …

父親は約束の日に仕事が入るとその

約束を破ることになる

だから約束はできないとキッパリ云われました

… … …

この言葉はその後、長く耳に残りました



私が赤ん坊のころは家族三人で

出掛けたのでしょうが…

… … …

私が歩けるようになって

父親と出かけると

母親は家に残っていました。

… … …

また、父親が仕事の追い込み入ると

今度は、母親とよく出掛けました







コンパクトカメラ「オリンピック」

2015年08月26日 20時24分32秒 | Weblog


我が父親は、シートフィルムの

カメラの他に、35ミリカメラを

使っていました

… … …

理研光学製のコンパクトカメラで

レンズは50ミリF4、5で前玉回転の

目測式でした



小さかった私が父親に

カメラの名前を聞きますと

オリンピックと云っていたのを

覚えていて、これも後年、カタログで調べました



赤ん坊の私をスナップするのに

シートフィルムのプラウベル・マキナでは

具合が悪かったのでしょう

… … …

父親の休みの日にオリンピックカメラと

近くの、京都府立植物園に

出掛けたのを覚えていました。




理研工学は戦後、

2Bフィルム(ブロニー6×6判)の二眼レフ

リコーフレックスⅢで爆発的なヒットを飛ばしました

以後、日本は二眼レフ時代がしばらく続きました

… … …

2階の父親の部屋に35ミリの現像タンクがありましたが

現像していた様子もなく、引伸し機など暗室用品もなく

DPEはどこか写真機店に出していたようでした。




遊び道具はカメラ

2015年08月25日 20時14分05秒 | Weblog


私が少し大きくなると

家の中を

あちらこちら歩き回ります



小さな子供は、あちらこちらに

興味を示すので

親にとって片時も目を離すことはできません



しかし、両親は、私が家中の引き出しを開けても

引き出しからいろんなものを引っ張り出しても

何も云いませんでした



私はいつからか大きなカメラを

遊び道具にしていました



カメラは大名刺判、シートフィルムの

プラウベル・マキナでレンズ・シャッターの

ジーッという一秒のシャッター音が好きでした

父親はこのカメラで遊んでいる私を見ても

「イケナイ…」とは云いませんでした



このプラウベル・マキナの三脚だけは

いじってはいけないと強く云われていました

… … …

この三脚は折りたたみ式の

珍しい構造でレバーを押すと、スプリング仕掛けで

「バチバチ…」と折りたたんだ脚がつぎつぎに

伸びていく危ない構造でした

… … …

小さな子供にはいくら何でも

カメラの名前はわかりません

後年、カメラのカタログで知りました。







私は生まれました

2015年08月24日 23時33分57秒 | Weblog


やがて私が生まれてきました

二人っきりの生活の中に

赤ん坊が生まれてくると

毎日が一変します

… … …

80年前の日本の家庭での

電化製品は、電灯(タングステン灯)と,ラジオに

扇風機ぐらいでしたから

勿論、洗濯機もまだありません



赤ん坊の必需品、おむつは

着古した浴衣の生地で作られていました

そして、使ったおむつは,母親が毎回、たらいで

固形洗濯石けんを使って手洗いでした。

… … …

近所で赤ん坊のいる家庭の物干し場には

おむつが干されていました



我が家に電気洗濯機が来たのは戦後です

イギリス・フーバー型洗濯機(ナショナル製)で

洗濯槽に粉石けん(ワンダフル=商品名)と衣類を

入れて洗濯槽内のパルセーターが回転して水流を起こし

洗濯します。

洗濯した衣類はローラー搾り機のハンドルを

回して水気をきっていました



また、生まれてきた私は、

寝付きが悪く、やっと母親が私をあやして

布団に入れて、父親と二人で

ソーッと食卓に向かうと

「ワーッ…」 と泣き出して

大変な毎日だったと,あとで母親から

聞きました。







一冊の郵便貯金通帳

2015年08月23日 20時33分55秒 | Weblog


新婚生活が始まった私の両親は

宮崎町で住んでいました

私が生まれる前に

近くの下河原町に転居しました

宮崎町も下河原町も近くに広大な境内の

下鴨神社があります

… … …

私が小さい頃、境内の

糺の森(ただすのもり)が

遊び場でした

… … …

最近、下鴨神社が世界遺産になって

境内がすっかり整備されてしまいました



環境の変化を乗り越えて私の母親は

父親と新婚生活が一年経ちました

母親は両親に会いに上京しました



私の母親は、両親の前に

一冊の郵便貯金通帳を差し出しました

通帳にはこの,一年間の預金がズラリと

記載されていました



ルーズな人種と云われている

カツドウ屋と一緒になった

母親を両親は陰で案じていたのでしょう

貯金通帳を見た両親は黙って、すべてを

許してくれました









京都府立医大付属病院

2015年08月22日 22時12分34秒 | Weblog


母親の新しい生活が

始まりました

父親の職業は

カツドウ屋です

相変わらず深夜帰宅の

不規則な生活が続きました



夜、母親が部屋で思い出すのは

日本一の繁華街、東京、銀座の真ん中、新富町に住んで

夜になっても明るい銀座通りを

家族で賑やかに「銀ぶら」していたのに…

… … …

夜になるとすっかり暗くなって、あたりは

静寂に包まれる京都、下鴨神社のそばで、

夫(私の父親)の帰りを待っている…

… … …

私の人生のスタートはこれで良かったのかと

ふと,寂しく思ったこともあったようです



子供がまだいない

二人でスタートの

新婚生活ですから、日中は

のんびりしていたのでしょう



母親は昼間、河原町今出川を南に下がった

広小路にある、京都府立医大付属病院の

皮膚科へ勤めだしたのか、アルバイトなのか

兎に角、暇つぶしに1年ほど通ったと

聞いたことがありました