初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

豪華料亭の生中継

2009年02月28日 18時01分27秒 | Weblog
  婦人ニュース(仮称)の特番(特別番組)で豪華な庭園が自慢の料亭から生中継したことがありました。

 その料亭が山間にありましたから、下見と、打ち合わせに、中継車を運転する車両課のドライバーも一緒に連れて行きます。道の途中のカーブを大きな中継車が通れるかなどの確認のためです。
放送当日に雨の場合はどうするかなども下見のときに検討します。

 放送当日は、照明用の電源車。中継機材のトラック。スタッフ、出演者の乗るロケバス。中継車。中継車用の電源車など、大部隊です。
 生放送ですから、まず現場と放送局とをBSアンテナを大きくしたようなパラボラアンテナを使ってマイクロ回線(FPU)を結びます。
 
 豪華な庭の場所は番組のオープニングでが始まります。 
司会者のアナウンサーとアシスタント、司会者の紹介でゲストが入ってきます。
この3人を大型カメラを中心に、2台のハンディカメラでとらえます。
中継現場のタイトルやアナウンサー、アシスタント、ゲストの名前のスーパーインポーズは、放送局の副調整室で入れます。

 2台のハンディカメラのホワイトバランスは、室内の照明で切り替えスイッチAポジションで、庭でのホワイトバランスはBポジションで合わせておきます。
 庭でオープニングを済ませて室内に入ってくるときに、ハンディカメラはホワイトバランスのプリセットスイッチをB→Aに切り替えて室内に入ります。室内には別の大型カメラにこの2台のハンディカメラで番組を進めて行きます。
 外の大型カメラは景色のよい所を番組にインサートカットを撮ります。

 番組が無事終わって、荷物を積んだ車が次々と出発してゆきます。
帰路、ロケバスがしばらく走って、スタッフが一人足りないことに気が付きました。「オーライ、オーライ」と車を誘導してくれたN君を残して出発してしまったのでした。遅れて帰ってきたN君はカンカンになって怒りました。
 
  
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

テレビ受像機のサイズ

2009年02月27日 20時14分00秒 | Weblog
  テレビが始まったときの、家庭の標準受像機のサイズは14インチでした。

 受像機は客間に置かれていましたが、その客間がテレビの影響で茶の間になりました。一家団欒の家族の顔と、受像機に映し出された大写しの俳優さんの顔のサイズがほとんど同じでした。当時の受像機は黒の描写が悪く、ピントも甘く、表現したい被写体は大写しが普通でした。

 映画がこの手法で撮られてはたまりませんが…。

 やがて、受像機のブラウン管のサイズが大きくなりました。14→18→20→22→25→28→29→30。投射型プロジェクター。薄型テレビジョンの30→38→45。などです。

 受像機が大きくなっているのに、テレビの画面は相変わらず大写しが続きます。
 懐メロのVTRを流した後で、現在の顔に下りる無神経なカット割り。スタジオの花瓶の花に下りて、それから現在の懐メロ歌手の顔に下りればいいのに…。

 特に、薄型大型テレビで年配者の大写しは残酷に思います。
 テレビのスタッフはこの大写しのカットの連続で、いかにも仕事をしているような気分になるのでしょうか。

 ドン引きの広い画面の構成は、セットのデザインや照明の良し悪しがもろに出ます。時間もかかります。それに対して俳優さんの大写しのカットでは、後ろのセットははっきり写りません。しかし、俳優さんの、目の動きひとつで芝居が変わります。「眼は口ほどにものをいい」なのですから演技の計算が大変です。

 テレビドラマでは、広い画面がメインで、それに味付けとして大写しのカットが時々入るのがいいと思いますが…。

 携帯電話のワンセグテレビは、あの小さな電話の画面を相手にしなくてはなりません。困ったことです。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

テープレコーダー

2009年02月26日 18時38分10秒 | Weblog
 最初、テープレコーダーは、リールに巻かれたテープをヘッドを通して空リールに装填して、録音・再生を行っていました。

 私の高校時代、他校の部活でテープレコーダーを手作りしたとのニュースに、その顧問先生を訪ねて苦労話をいろいろ聞きました。ハム対策(雑音)に苦労したとのことでした。

 それ以来、私の周りはテープレコーダーが身近な話題になりました。

 やがて、ソニーから家庭用テープレコーダーが出ました。テープスピードは、19㎝とその半分の9.5㎝でした。

 LPレコードがステレオになりました。それと同時に、テープレコーダーもステレオになりました。
 
 家庭用のテープレコーダーでは4トラック19㎝で、一本のテープの往復でステレオが聴ける構造でした。

 熱心なオーディオファンには「サンパチ・ツートラ」の名前で、オープンテープを高速の38㎝で引っ張り、2トラックで片道再生で、高音質を追及していました。
 
 オープンテープではテープの装填がややこしいので、何種類かのカセットが出現しました。カーステレオ用として8トラックのエンドレス方式も出ていました。

 オランダのフィリップスが特許公開でカセットが出まして、これが世界の標準になりました。
 カセットテープのピードは、9.5㎝の半分の4.75㎝となりました。

 ここまで、テープスピードを落とすと、ノイズが増えて、ノイズリダクション方式のいろいろが出ました。また、テープの種類も花盛りで、ふつうのノーマルテープ、フェリクローム、メタルなどありました。

 FMステレオ放送を録音する「エアチェック」が流行りました。FM放送の番組表を載せた、「FMファン」や「レコパル」などの雑誌もありました。

 光学会社のオリンパスからマイクロカセットが出ました。切手より少し大きいかなというカセットのテープスピード4.75㎝の半分の2.4㎝になり、さらに長時間録音用にその半分の1.2㎝になりました。
 
 テープスピードは最初、76㎝→38㎝→19㎝→9.5㎝→4.75㎝→2.4㎝→1.2㎝と半分半分と新しい技術とともに進んできました。

 やがて、MOやCD、メモリー再生の音楽プレーヤーにとって代わられました。
あれだけ種類のあったテープも今は、ノーマルとハイポジのわずかしかありません。

 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

フィルムのサイズ

2009年02月25日 17時48分08秒 | Weblog
  日本写真発達史によると、明治時代に大道楽者の鹿島清兵衛が市川団十郎の等身大の写真を撮ろうと考えます。当時は引き伸ばしという技法がありませんし、密着焼き付けですから、必要な印画紙のサイズと同じ大きさの原板が必要でした。フランスの会社に、全紙の四倍もの大きな乾板(ガラス板に感光材料を塗ったもの)を注文します。次にその乾板を装填するカメラをわざわざ小西六(現・コニカ)に注文したという大がかりなものでした。これが、世界一の大きな写真だそうです。
 
 現在、フィルムサイズの種類はシートフィルムの8×10(エイトバイテン)が一番大きく、次がシートフィルムの4×5(シノゴ)、ロールフィルムの6×8(ブローニー判)、6×6、645(ロクヨンゴ・ブローニー・セミ判)、35ミリ判とあります。
 
 オスカーバルナックはライカを世に出したときに、この小さな原板35ミリから大きな印画を得る方法に引き伸ばしの方法をとりました。「フォコマート」という名称の引き伸ばし機です。しかも、引伸ばし機のレンズはカメラで撮影に使用したレンズを使うようにとライカマウントになっていました。以後、他社製の引き伸ばし機や引伸ばし機用のレンズもマウントはライカマウントになりました。

 35ミリフィルムの入れ物「パトローネ」を発売したコダックは、35ミリカメラの撮影後の巻き戻しや、フィルム装填の面倒くささを解消するために、「インスタマチック」方式を考えました。次に考案された「110(ワンテン)判」、次が「ディスク」、そして「APS判」と矢継ぎ早に出てきました。いろんなサイズのフィルムには、その都度、カメラも用意しなくてはなりませんでした。
 いろいろなサイズのフィルムも根本的な写真の改革には至りませんでした。
 結局、35ミリフィルムとカメラに落ち着きます。そして、デジタル時代に突入します。

 これだけ、いろんなフィルムを出しながら、ビクともしない「コダック」は大した会社です。
 
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

いなりまつり 下

2009年02月24日 20時14分50秒 | Weblog
 神主さんのお祓いで、お参りを済ませた後、みなで神様の罰が当たらない程度の宴会が開かれます。それから、映画制作が始まります。
 
 怪談を扱った歌舞伎、納涼の怪談の演芸会でも、お稲荷さんのお参りは行います。新聞の囲み記事に時々出ていました。

 映画会社は、毎年、都合のいい時に従業員の家族を会社に呼びます。「稲荷祭り」を行いました。社内に特設ステージを設けて、俳優さんや制作スタッフのかくし芸などを披露します。家族にはお弁当やお菓子などが配られます。

 ラジオでは、このような習慣はありません。しかし、深夜に靴音が聞こえたとか、誰かと廊下ですれ違ったとかの怪談話は結構ありました。やがで、テレビジョンが始まりますと、舞台関係者、演芸関係者、映画界から制作スタッフとして入ってきました。当然、「稲荷祭り」の話が話題になりました。

 テレビ局では「稲荷祭り」ではなく、「△△△祭り」と銘打って従業員の家族に日頃ご苦労さんと劇場を借り切って開きました。お世話になっていますからと、スケジュールを調整してノーギャラで出演してくれる大物タレントや大物歌手が大勢で夢のような舞台になりました。お弁当、お菓子の用意も出来ています。

 テレビのお祭りもだんだん従業員の家族の集まりが悪くなり、それならいっそ公開にしようかとの考えもありましたが、一般公開して入場料を取ると、税金問題やボランティア精神のタレントさんも渋ります。やがてなくなりました。

 ラジオは、「×××ラジオ祭り」として一般公開としました。中之島公園や万博公園などで、クイズ生番組や公開生番組をやります。ラジオで姿の見えなかったアナウンサーやアシスタント嬢、タレントさんが出演するとあって、大勢のリスナーが集い、テント内で番組グッヅなどの販売もあって、大盛況です。

  
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

いなりまつり 上

2009年02月23日 20時56分18秒 | Weblog
 妖艶な準主役のM女優さんが居ました。彼女は出番待ちのセットで、いつも化粧ボックスから、白い蛇を出して、ペットとして可愛がっておりました。その白い蛇もウットリとして彼女の腕に絡み付き、目を細めているように見えました。

 会社もこれに気付いて彼女の主役で蛇を可愛がるお姫様の話を考えました。彼女が亡くなると、蛇が敵討ちをするというストーリーです。

 堀川丸太町(ほりかわまるたまち)角の蛇屋さんから五十匹の青大将を借りました。スタジオの御殿のセットではカメラ、照明、録音すべて準備OKにして、上から蛇屋のおっさんが、五十匹の青大将を青畳の上に落としました。五十匹の蛇は明るいところが苦手らしく、サッと薄暗いセットの隅に潜り込んでしまいました。

 撮影が終わって蛇屋のおっさんは蛇を回収するのですが、どうしても数が足りませんでした。

 その映画が完成してからも、蛇を撮影したスタジオに行くのは気味が悪かったのです。

  蛇の物語のほか、化け猫映画や四谷怪談など、この手の仕事のときは、祟りを恐れます。スタジオの薄暗い隅に白い着物を着た誰かが居たとか、仕事中に突然セットの壁が倒れてきた。上から大きなライト器具が落ちてきたなどです…。

 映画会社には何処でも、御稲荷さんが祀ってあります。その映画がクランクインするまえに、会社側の製作部の連中や、制作担当スタッフ、出演する俳優さんなどが集まって、招いた神主さんのお祓いで始まるお祭りを行います。

 この続きは明日…。

 
 
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

続・フィルムカメラ

2009年02月23日 00時49分28秒 | Weblog
 35㍉フィルムを使うカメラが増えたのはパトローネが出現したことでした。
ただ、35㍉フィルムカメラの欠点は、フィルムを36枚、全部撮り終わってもカメラの裏ブタを開けられないことです。必ずフィルムをパトローネに巻き戻してから裏ブタを開けなくてはなりません。
 ライカの後から現れたコンタックスは巻き取り側にもマガジンを装填して、マガジンに巻き戻しをしなくてもよいという方式もありました。
 プリワィンディング方式といって、35㍉フィルムをカメラに装填すると、まずフィルムを最後まで巻き上げて、撮影をしながら巻き戻していって、最後の36枚でパトローネに収まり、裏ブタを開けてもOKという方式です。最近ではキャノンのEOS-Kissがこの方式をとっていました。

 35ミリフィルム使用での変り種は、裏紙付きブロニーフィルムを使う二眼レフ・ローライフレックスにローライキンという名前の装置をつけると35㍉フィルムが使えるのです。ローライのレンズは80ミリ位ですから、中望遠レンズで撮影する35㍉カメラになります。
 戦後のベストセラー二眼レフのリコーフレックスにもリコーキンと称するローライキンと同じように35㍉フィルムを使えるようになっている装置がありました。

 35㍉フィルムの枚数は昔から、12枚撮り、20枚撮り、36枚撮りの3種類でした。12枚の3倍が36枚ですから。真ん中の20枚撮りだけが枚数が中途半端でした。それを、24枚撮りとしたのが、コニカでした。これで同時プリントの枚数が増して、売り上げが伸びました。これを考えたコニカではボーナスが多く出たそうです。 

コメント   トラックバック (1)
この記事をはてなブックマークに追加

フィルムカメラ

2009年02月21日 20時37分01秒 | Weblog
  父親が最初に買ってくれたカメラは中古の「ベスト・ボケット・コダック」V.P.Kでした。このカメラは私が生まれる前、大正元年に世界的なベストセラーとなりました。レンズは色消し二枚張り合わせの単玉(たんぎょく)で、日本では「ベス単」という愛称でした。「ベス単、フード外し」というソフトフォーカスの技法が日本で編み出されました。このカメラのフィルム装填は裏ブタが開かなくて、底ブタを開けて、狭いところにフィルムを入れる方式でした。このカメラのベスト判フィルムは、スプールの軸が細い真鍮製で、細い軸にフィルムが巻かれていましたから、カーリングが強く、フィルムの平面保持が悪かったようです。

 このベストセラー機を追いかけて、ドイツではテッサーレンズ付きの「ピコレット」や、日本の小西六「パーレット」(現・コニカ)が発売されました。
 
 V.P.Kの後にオスカーバルナックのライカが登場します。ライカもM3が出るまでフィルムの装填方法はV.P.K.の方式と同じでした。しかもライカは35ミリフィルムを暗室でマガジンに詰めなくてはなりませんでした。

 コダックレチナが出現して、マガジン方式からアルミケースなどにフィルムを入れたパトローネがコダックから発売されました。これは素晴らしいアイデアでした。 このパトローネ式を採用した35ミリカメラが以後、多数出現しました。

 ライカや、コンタックスのマガジン方式の利点は、カメラ内でマガジンのフィルムの出入り口が大きく開いてフィルム巻き上げが軽いこと、パトローネはフィルムの出入りに遮光用のテレンプに触れるのでフィルム巻き上げが少し重くてフィルムに傷が付く心配などです。

 私は一度使ったパトローネにフィルムを詰め直してよく使いました。二、三度使えました。ダークバックの中でコツがあるのですがパトローネの軸を押すと、パカッと開きました。絆創膏やセロテープで軸にフィルムを止めて巻き込みます。

 そのうち、トロピカルパッキングの名称になってパトローネが開かなくなりました。フィルムを取り出すときパトローネをオープナーで壊さねくてはなりません。パトローネの再利用はできなくなりました。

 パトローネが麻薬の容器になるとの噂を聞きました。
 

 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

小説と京都

2009年02月20日 18時31分06秒 | Weblog
 「京都新聞」に連載されていた内田康夫の「壺霊(これい)上・下」を読み終えました。主人公浅見光彦の京都を舞台にしたトラベルミステリーで四条河原町の高島屋百貨店の名店街などが描写されています。京都生まれの私は舞台となる地名を読むとその町並みが目に浮かんで、あそことあそこは、どのくらい離れているかとか頭の中に地図が浮かんできます。

 京都を舞台にした作品をよく読みます。澤田ふさ子の「公事宿事件書留帳シリーズ」(主人公、田村菊太郎)、「足引き寺閻魔帳シリーズ」(闇の仕事師4人と1匹の犬)、「高瀬川女船歌シリーズ」(主人公、謎の居酒屋、宗因)木屋町筋や三条大橋が出てきます。
 浅田次郎の「活動写真の女」は、太秦の映画会社、夜の木屋町、大文字山の麓、神楽岡町などの描写、「輪違屋糸里」「壬生義士伝」には伏見、島原、壬生が出てきます。

 本を読んでいて、河原町三条の朝日会館の東郷青児の壁画を思い出しました。当時の朝日会館は横に広い一階に急勾配の二階席の洋画封切り館でした。ヒチコックの「ダイヤルMを回せ」(グレース・ケリー)をここで見た記憶があります。

 東郷青児画伯が、朝日会館の壁面が正面に見える旅館の物干し場から、望遠鏡で作業している絵師に号令をかけている写真を新聞で見ました。
 
 ブルーを基調にしたパステル調の壁画は見事でした。
二十年ほどしてこのユニークな壁画の傷みもひどくなり、壊されてしまいました。
隣の聖ザビエル天主堂の教会もなくなりました。名物の二つがなくなりました。

 聖ザビエル天主堂と河原町五条にあった聖ヨハネ教会堂はともに明治村にいってしまいました。残念です。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

コンパクトカメラ

2009年02月19日 18時40分09秒 | Weblog
  露出計が市民権を得て、クリップオンタイプの小さな露出計をカメラのアクセサリーシューに乗せて、単独で露出を測っていました。

 8㍉ムービーフィルムカメラは露出計の針とレンズの絞羽根を連動させて自動露光になりEE(Electric Eye)と呼ばれていました。

 35㍉サイズの半分のペンサイズと呼ばれる小型のカメラ、オリンパスペンが、自動露光のオリンパスペンEEとして出てきました。普通の記念写真ではサービス判で充分ですからベストセラー機でした。

 キャノンも自動露光のキャノネットがベストセラーに、ヤシカエレクトロ35はローソクの灯で写ると宣伝されてこれも大いに売れました。

 ローライ35が35㍉フルサイズでありながら、ペンサイズとあまり大きさが変わらないカメラを発売して日本の業界を刺激しました。
 
 キャノネットもヤシカエレクトロ35も少し大きなカメラでしたが、コニカから35㍉フルサイズのジャーニーコニカが登場します。ローライ35を意識してかなり小さくまとまった機械でした。
 
 「ストロボ屋さんごめんなさい」

 と井上順のコマーシャルで登場するのがピッカリコニカでした。

 サービスステーションで聞きますと、ストロボのコンデンサーが大変でしたといいます。それまでのコンデンサーでストロボ付きカメラを組み立てると、弁当箱ぐらいの大きさになってしまいました。

 ストロボは低圧の乾電池から発振回路を通って、トランスで昇圧して大容量のコンデンサーに電気を溜めます。それをストロボ管で一気に放電します。
 この大事なコンデンサーの小型化が可能になって、このカメラが誕生した、とサービスステーションの苦労話。

 ピッカリコニカが出現してから、他社のカメラもすべてストロボ付きのカメラになりました。

 やがて、ジャスピンコニカと日本初の自動焦点カメラが登場します。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加