初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

ご飯が炊けなかった母親

2015年08月21日 20時16分35秒 | Weblog


母親と父親の新婚生活が

下加茂撮影所の近くの

宮崎町で始まりました



ここで新婚の母親にとって

困ったことになりました

… … …

どうやってご飯を炊くのか

知らなかったのでした



今でしたら、電気炊飯器に

説明書通りにお米を入れて

内鍋の印まで水を加えて

スイッチを入れれば、誰でも

美味しいご飯が炊きあがります

… … …

私の独身時代に初めて電気炊飯器(東芝)が

出現したとき,感激して早速、購入しました



新婚の母親時代のご飯は

お釜とガスコンロで,

はじめちょろちょろ

なかぱっぱで炊くのでした

… … …

母親のおばあちゃんが

「あんたは勉強だけしていればいい…」

の言葉に甘えて,一切,台所に立ちませんでした

… … …

そこで無邪気な母親は

近所の奥さんに

「ご飯はどうやって炊くの?…」と

聞きに行ったそうです

… … …

「あそこの若奥さんはご飯が炊けないんだって…」

の噂がパッと広がったそうでした








菊池寛さんに会う

2015年08月20日 22時00分12秒 | Weblog


母親が家出を決意するのに

相談した人がいました



なんと菊池寛(きくちかん)さんに

母親は手紙を出したのでした

… … …

どうして、菊池寛さんに

手紙を出すことにしたのか

そして、どんな内容の手紙だったのかわかりません

… … …

しかし、菊池寛さんは母親に会って

話を聞いてくれました



菊池寛さんは、両親の勧める縁談に従うのもいいが

これからの人生に悔いを残さないように

よく、自分で考えて行動しなさい…

と聞かされて、わが母親は家出することを

決意したのでした



菊池寛は、雑誌「文藝春秋」を創刊して

芥川賞、直木賞を設立した実業家のような

小説家で、父帰る。

恩讐の彼方に(おんしゅうのかなたに)などの

著者です。

その偉大な小説家が一人の娘の悩みを

どうして聞いてくれたのでしょう

… … …

私に、この一件は永遠に謎です…






母親の家出

2015年08月19日 22時54分14秒 | Weblog


わが母親は両親から追い詰められて

一大決心をします

… … …

つまり、家出をすることにしました



家出の行き先は京都に住んでいた

わが父親のところです



東京、京都間は

東海道新幹線の今でこそ

2時間余で軽く行き来できます



当時は東海道線を一番早く走る列車は

特急「つばめ」でした。

丹那(たんな)トンネルができる前でしたから

御殿場線を経由して、しかも列車は

電気機関車、蒸気機関車とつなぎかえて

6時間余掛かりました



まして、若い娘が一人で

この特急「つばめ」に乗るはずがありません

どんな列車で何時間かかって東京から京都へ

やってきたのでしょう






カツドウ屋の父親

2015年08月18日 21時08分58秒 | Weblog


私の母親の両親は

縁談を進めようとします

母親の両親にとっては

相手は裕福な医者で良縁だと満足でした

母親は「相手の背が低いから…」と

この縁談をいやがります

… … …

そこで「意中の人は?…」と聞かれて

母親は「Kさんと結婚したい…」と

初めて打ち明けました



おばあちゃんは驚いて

「Kさんだって背が低いじゃない…」と

わが母親の両親は猛烈に怒り出しました

… … …

当時、映画は黎明期で、これから

映画がどう発展していくのか未知な領域でした

映画は,サイレント(無声)で活動写真と云われていました

活動写真に携わる人種を活動屋(カツドウや)と蔑まれて

世間からはルーズな人種と思われていました



よりによって不可解な活動屋と結婚したいなんて

わが母親の両親は大ショックを受けたのでしょう

… … …

わが母親と父親の間にどんな話が交わされていたのか

私は,知りません





「壺坂霊験記」その後

2015年08月17日 18時31分49秒 | Weblog


歌舞伎ファンだった母親が

見合いの席上で聞かされて

すっかり嫌いになった

浄瑠璃「壺坂霊験記」の

ことをもう少し



大阪のミナミ繁華街の

道頓堀に芝居小屋が並んでいました

人形浄瑠璃を公演していた文楽座(ぶんらくざ)

演芸の角座(かどざ)、芝居の中座(なかざ) が

ありました



その中座で歌舞伎仕立ての「壺坂霊験記」が

公演されて、私はテレビの舞台中継番組で

録画取材したことがありました

… … …

母親が嫌いになった「壺坂…」を仕事で観ることになりました

「三つ違いのあにさんと…」の名台詞が聞かれます

母親はこの浄瑠璃を聞くと

何かいやなことを思い出すのでしょう

… … …

大阪、道頓堀の中座は、ガス爆発を起こして、

近くの法善寺横町(ほうぜんじよこちょう)も被害を受けて

一時は、消防法で問題のあった法善寺横町を

どうするかまで問題を起こしました



道頓堀界隈も人形浄瑠璃を公演していた

文楽座(ぶんらくざ)は朝日座と改称されて

曾我廼家十吾(そがのやじゅうご)を

座長とする松竹家庭劇が

一方、中座は藤山寛美の松竹新喜劇が

それぞれ上演されていました

その中座がなくなり、朝日座は国立文楽劇場に

なりました。道頓堀界隈も様変わりしました









お見合いの後

2015年08月16日 20時12分42秒 | Weblog


私の母親のおばあちゃんは

典型的な明治女で

母親もあの人の真似はとても

できない…と尊敬していました



おばあちゃんは

… … …

幼にして父母に従い

婚しては夫に従い

老いては子に従うという

… … …

典型的な思想の持ち主でした

「そんな従ってばかりの人生はイヤ…」と

我が母親は云っていたそうです



料亭での見合いが済んで

相手方から縁談を進めて欲しいと云ってきました

緊張するお見合いの席上で

堂々と食事をする娘さんに好意を抱いたと云われました



こちらの両親は相手側の家柄はいいし

この縁談に大変乗り気でした

ただ娘(我が母親)は

「どうしてもイヤ…」と断り続けました

なにがそんなにイヤなの?と問い詰められます

「相手の男性は背が低いから…」と

苦し紛れの返事をしました

そして、おばあちゃんに

「あんたに意中の人がいるの?」と重ねて聞かれます






壺坂霊験記

2015年08月15日 22時00分24秒 | Weblog


若い母親は、意を決して

東京の料亭に向かいます

… … …

見合いの相手の家柄は

裕福な医者一家だったようです

… … …

母親は見合い相手の若い医師を

一目見て、大嫌いなタイプだったようでした



そこで母親は、意を決して?

相手側に不快な印象を与えるように

出てくる豪華な料理を片っ端から

パクパク平らげて行ったそうです



やがて、浄瑠璃が始まります

演目は「壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)」で

「三つ違いの兄さんとゆうて暮らしているうちに…」の

名調子で夫婦愛を描いたストーリーです。




あらすじをWikipediaから引用しますと

盲目の沢市(さわいち)は

妻のお里(さと)が明け方になると

出掛けていくのに気付き、

男ができたのではと疑い妻を問い詰める。

… … …

お里はこの三年間、沢市の目が治るようにと

壷阪寺の観音様に願掛けに行っていたと

打ち明ける。

… … …

邪推を恥じた沢市は、お里とともに観音詣りを始めるが、

目の見えない自分がいては将来お里の足手まといになると考え、

満願の日にお里に隠れて滝壺に身を投げる。

… … …

夫の死を知り悲しんだお里も、

夫のあとを追って身を投げてしまう。

… … …

二人の夫婦愛を聞き届けた観音の霊験により

奇跡が起こり、二人は助かり、

沢市の目も再び見えるようになる。





縁談

2015年08月15日 00時02分54秒 | Weblog


私の父親は関東大震災のあと

映画スタッフ、俳優さんたちと

関西へ移動するのですが

罹災風景を写真に撮って

関西で発表したようでした



関東大震災後、東京は復旧して

私の母親は、帝国女子医専に通学し

やがて、地獄のような国家試験を終えて

無事、卒業しました



いよいよ適齢期の娘さんに

なった母親に縁談がありました

母親の両親とも大変,乗り気だったようでした

東京の料亭で浄瑠璃の会が開かれました

それを、鑑賞する名目で見合いが行われることに

なりました。

… … …

私の母親は話を持ち込んだ両親に

抵抗したらしいのですが

仲人の顔を立ててとか…

浄瑠璃の会だけでも出席してくれ

などと懇願されて出掛けることになりました。





父親と母親の出会い?

2015年08月13日 19時07分01秒 | Weblog


関東大震災の結果、私の父親は

関西で映画制作の仕事を始めます

… … …

当時は、出来上がった映画フィルムを

映画館に運ぶ仕事が時々、あったようなのです



私の父親は映画フィルムを東京の

映画館に運ぶのに,銀座、新富町の

母親の家に泊まった?と

聞いたことがありました



私の父親の実家は静岡県浜松市の

歯科医で歯科医院を開業していました

… … …

一方、母親の実家も東京銀座の

新富町で同じく歯科医院を開業しています



当時、歯科医師会のような席上で

両方の親はなんとなく、

知り合いだったのかも知れません

… … …

となると、私の父親も母親もお互いに知らない

間柄だったわけでもないことになります

… … …

映画フィルムを携えた映画青年(私の父親)が

「お世話になります…」と銀座・新富町の

歯科医院、母親の実家へ訪れたとすれば

なんとも可笑しいことです。

… … …

この辺りの話は全くの謎?です…






父親は関西へ

2015年08月12日 18時59分58秒 | Weblog


せっかく、白木屋写真部から映画会社に転職した

父親にとって,未曾有の関東大震災で

首都圏の撮影所の向島撮影所、蒲田撮影所は壊滅して

しまいました

… … …

映画のスタッフ、俳優さんは関西にやってきます

父親は東亜キネマ甲陽撮影所、帝国キネマ芦屋撮影所

東亜キネマ等持院撮影所と次々に移籍していきます



当時、活動写真として発足した映画撮影所は

小さなプロダクションの規模で

あちこちにあったのでしょう

これは、全く,私の想像ですが



関東大震災で、撮影所を関西に持ってきたのは

時代劇に好都合だったのでしょう

… … …

特に、京都は歴史的な社寺仏閣が豊富です

時代劇のロケーションに不自由はしません



父親は,松竹下加茂撮影所に落ち着きます

松竹の現代劇は鎌倉の大船撮影所で

時代劇は京都の下加茂撮影所と

太秦撮影所で制作されました