初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

リバティ輸送船

2020年03月30日 18時33分39秒 | Weblog


私の問いに答えてくれた

船員さんとすっかり、親しくなりました。

しばらく、その船員さんと一緒に

丸く見える水平線の大海原を見ていました。

はるか後の方に煙を吐くクリーム色の船が

小さく見えます…

親しくなった船員さんは

その船を指さして、

「後から出発した引き揚げ船で

アメリカ製、リバティ輸送船だ」

と云いました。

… … …

このリバティ輸送船は第二次大戦で

急造された輸送船でした。

エンジンはタービンを使わず

レシプロ・エンジンでした。

… … …

私に説明してくれた船員さんは

「あの小さく見えるリバティ船は

明日になればこの信濃丸を追い越して

はるか、先を走っているだろう…」

と云います。

そして、その船員さんは私に

「この信濃丸の機関室を見せてあげる」

… … …

機関室の扉を開けると鉄格子の階段が

船底に向かって延々と続いています。



 



大海原

2020年03月28日 17時39分43秒 | Weblog


引き揚げ船「信濃丸」に乗船して

三度の食事が一汁だけというのには

すっかりびっくりされられました。

… … …

しかし、縁あって乗船できた

引き揚げ船が歴史的な船だった

ことにもびっくりしました。

船内で家族が落ち着く場所を

確認して甲板へ出てみました

… … …

数年前、神戸から満州大連へ

「みどり丸」で渡満したとき

海原の水平線が少し丸く見えましたが

「信濃丸」の甲板から見える

水平線も、やはり丸く見えました。

… … …

「信濃丸」の甲板でボンヤリ

海原を眺めていると初老の船員さんが

やって来ました…

その船員さんに思い切って聞いてみました。

「この船は「敵艦見ユ…」の信濃丸か?」と

その船員さんは小学生の私を見て

「そうだ!…」と頷きました…


「信濃丸」での食事は

2020年03月26日 20時54分01秒 | Weblog




日本で食事といえば「一汁一菜」と

云われます…

つまり、御味御汁におかず一品という

ことでしょうか…

それが、信濃丸に乗船した最初の食事は

白いご飯に、味噌汁が一杯だけです。

おかずがないのです。

その味噌汁も具が入っていませんでした。

敗戦の日本では食糧事情が極端に

悪かったからでしょうか…

その具の入っていない味噌汁を


口に含むと、プーンと鰹節の味がして

日本へ帰ってきたのだとつくづく実感しました。

… … …

戦時中の日本は食糧が乏しいと

新京で聞いていました。

しかし、満州の日本人の生活は

食糧に不自由はしませんでした。

そして、帰国の貨物列車、葫蘆島の収容所での

食事は脂っこい食事でした。

… … …

引き揚げ船「信濃丸」での

味噌汁とご飯だけの食事は

佐世保港へ上陸するまで続きました。








「信濃丸」に乗船

2020年03月24日 19時01分34秒 | Weblog


私はこの、歴史的な船に

乗船できて、不思議な運命を

感じました。

しかし、この驚くべき偶然に

反して、日本まで寝泊まりする

環境もすごいものでした。

… … …

船室は、広く板が敷き詰め

られていました。

一寸見ると体育館か

講堂の床のようです。

その広い床に、それぞれ

家族単位で輪になって座ります。

… … …

新京を無蓋貨車の汽車で

出発したときから葫蘆島の

収容所でも、床に家族で

座っていました。

そして、最後の船でも

床に座らせられました。

… … …

外から我々を見れば

引き揚げ日本人の難民群

だったのでしょうね…

やがて、船で初めての

食事時間がやって来ました。

その食事を見てまた、

ビックリしてしまいました。





日本人の引き揚げ船は「信濃丸」

2020年03月22日 20時08分20秒 | Weblog


甲板を歩いていて、私はフト見上げた

銘板の船名を見てビックリしました。

「信濃丸」(しなのまる)、

明治××年とあるでは

ありませんか。

… … …

この間まで軍事教練の教育を

受けていた元軍国少年の

私には、この艦名を見てピンときました

… … …

日露戦争でバルチック艦隊を

対馬海峡で迎えた

東郷平八郎元帥率いる日本海軍は

日本海海戦で大勝利を収めます

… … …

その海戦の始まりに

対馬海峡で、この「信濃丸」は

バルチック艦隊を発見して、

無線機で「敵艦見ゆ…」と打電します。

つまり、敵艦隊の発見を打電した

歴史的な軍艦(巡洋艦)が、日本人の

引き揚げ船として使われていたのです。

… … …

明治時代の軍艦が大正、昭和と続いて

「大東亜戦争」を乗り越えて、

外地の日本人引き揚げ者を運ぶ

強運な船だったのです。




いよいよ日本へ出発

2020年03月21日 21時59分43秒 | Weblog


ある日の朝、いよいよ港への

出発の知らせが届きました。

我が家族は、両親がそれぞれリックサックを

そして、三人の子供は小さなリックサック。

大人のリック二つと、子供の小さなリック三つが

わが家の全財産でした。

… … …

葫蘆島の収容所を

引き揚げ日本人は波止場へ向けて

出発しました。港が遠かったのか

近かったのか覚えていません。

やがて、港に二隻の輸送船が見えます。

後で判ったのですが、クリーム色の

スマートな船はアメリカが戦時中に

急造したリバティ船でした。

もう一隻はどうやら日本製の古い

貨物船?のようです…



私たち家族らはその古く見える

日本製の貨客船?に乗せられました

梯子を昇って、甲板を歩いていて、

ブリッジの銘板をみて

ビックリ…!しました。












葫蘆島の収容所で

2020年03月19日 21時36分16秒 | Weblog


葫蘆島(ころとう) の

引き揚げ日本人の収容所は

巨大なテントのまわりを鉄条網で

出入りが出来ない構造でした。

… … …

新京からはるばる葫蘆島まで

無害貨物列車に揺られてきました。

テント村の収容所に落ち着いて

やっと振動(列車の)から解放されました。

… … …

次は、このテント村収容所が出て

引き揚げ船で日本へ帰れるのですが

それが、いつなのかは判りません。

… … …

何日か、テント村で過ごしていました。

その何日間は、雨が降りませんでした。

やがて、日本へ帰れるらしいと

噂が流れてきました…




ついに葫蘆島へ

2020年03月16日 20時51分40秒 | Weblog


目的地、葫蘆島(ころとう) に

引き揚げ日本人を乗せた無蓋の

貨物列車は到着しました。

新京から、奉天を通ってやっと

到着しました…

… … …

何日かかってやって来たのか

すっかり忘れています

ただ、長い日数の間、雨は

一滴も降らず幸運でした。



満州は広大な陸地です。

大陸性気候とでも

いうのでしょうか?…

雨が滅多に降らないのです

列車を降りて、広大なテント村?

に入りました。



テントの中は地面にアンペラが

敷き詰めています。アンペラとは

満州での藁のムシロのようなものです。

広いテントのなか、家族単位で

座りました。


葫蘆島の引き揚げ日本人のイメージは、

中東の難民生活風景に近いかもしれません。







引き揚げ列車は葫蘆島に向かって

2020年03月13日 21時49分09秒 | Weblog


日本人の引き揚げ列車は

貨物列車でしかも、無蓋車でした。

無蓋車は天井がありません。

太陽のあかりを受けながら走るのですから

明るくていいのですが、

雨が降ってきたらひとたまりもありません。

幸い、奉天駅まで晴天続きで幸運でした。

… … …

やがて、相談がまとまったのか

引き揚げ列車は奉天駅を出発しました。

行く先は朝鮮半島を通るコースではなく

葫蘆島(ころとう) を目指していました。

数時間走った頃、大平原の真ん中で列車は

止まってしまいました。

しばらくして、世話役の一人が

私たち家族が乗っている無蓋車にやってきました。

「機関手が金をくれ!…金をくれないと走らない」と

いっていると、皆からいくらかの金を集めて

いきました。

やがて、引き揚げ列車は葫蘆島目指して

走り出しました。







引き揚げ列車は奉天に

2020年03月09日 21時26分29秒 | Weblog


満州から引き揚げる日本人を

乗せた貨物列車は、大平原の

なかを、奉天(ほうてん)に向かって

走り続けました…

… … …

人間を貨物列車で運ぶとは

なんということでしょう

新京から奉天までどの位の

時間で走ったのか、もうすっかり

忘れてしまいました。

… … …

食事の時間になると列車は

どこででも停車します。

日本人の中で世話役の人が

どこかで食事の用意をして、

皆に配ってくれました

… … …

おかずは、脂っこい炒め物

でした。日本へ帰るのには

体力が必要だからと、云っていました。

食事が済むと、日本人の大勢乗った

貨物列車は出発します

そうして目的地の奉天駅へ到着しました
… … …

奉天が分岐点になっていて、朝鮮半島を

通って日本へ帰るかまた、そのまま走って

葫蘆島(ころとう)から、船で日本へ帰るか

二通りのルートがありました。

大人達が、どうするか相談して

いましたが、なかなか結論がでません。

貨物列車は奉天からなかなか、

出発できませんでした…