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主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

微分と積分の概念の双対性。

2011-09-22 00:00:50 | mathematics
台風にちなんだ豪雨の被害について思いを馳せていたら,微分と積分のことが思い浮かんだ。


豪雨のとき,外に出かける際に関心があるのは,いまどのくらいの激しさで雨が降っているかということである。

雨の激しさというのをどう数量的に表現するかというと,一番ぴったり来るのは「ある時間内にどれだけの雨が降ったか」ということである。
ここで「ある時間内に」と書いたが,要点は観測時間をそろえるところにある。
同じ240ミリの雨が降ったとしても,一日を通じてなのか,一時間に降ったのかでまるで雨の激しさは異なる。
観測時間の間隔を一時間にそろえるなら,一日に240ミリの雨量というのは,換算すると一時間に10ミリということであり,一時間に240ミリに比べれば大したことはないという印象を受ける。

このように,雨の激しさは「単位時間当たりの雨量」によって表現されると考えられるわけだが,「単位時間当たりの雨量」というのは割り算で計算する。

もっと一般には,引き算で変化量を求め,求めた変化量同士で割り算をすることによって「平均変化率」が求められる。それが変化の激しさの指標であり,割る方の変化量を 0 に近づけるという極限操作で,平均変化率のある種の理想化を行うのが微分の考え方である。


それに対して,積分も「ある時間内にどれだけの雨が降ったか」を量る一つの指標であるが,こちらは「激しさ」という感覚と結びついているのではなく,「実際にどれだけ溜まったか」という全体量を取り扱う概念である。

一時間に100ミリという激しい雨が降る瞬間もあったが,ほぼ一日中晴れの日もあった。けれども,三日間で合計1000ミリを超える雨量があった,などというときに,雨が止んでしまっていれば,外にちょっと出かけるときにもう雨の激しさを心配する必要もないので,雨のことなど忘れてしまうが,山に振った大量の雨水によって,土砂災害が起きたり,河川の増水による災害が起きたりと,別の種類の問題が生じることとなる。

そういうわけで,豪雨という自然災害ひとつをとっても,自分が濡れることを心配するときの「微分的」な雨の激しさと,人力ではなすすべもない大きな災害を引き起こしかねない「積分的」な総雨量の多さという,概念的に異なる二つの視点をもって備えるべきという大事な教訓を『微分積分』という言葉から引き出すことができるのである。

なお,積分量というのは観測している時間間隔ごとの雨量を足し合わせることによって求めるわけだが,足し合わせる雨量自体は,通常 「変化率」×「観測時間」というような積で求められることが多い。

したがって,「引いて割る」という計算に基づく微分に対し,「掛けて足す」という計算に基づくのが積分だと言うこともできる。

日本の高校では微分の逆として不定積分を導入するが,微分とは無関係に定積分を導入してから「微分積分学の基本定理」と呼ばれる定理によって微分と積分を結びつけるという理論の構成の仕方もある(というより,微分積分の理論の学問的な取り扱いではそちらの方が主流であろう)。

そのような理論構成の場合は,きちんとした取り扱いでは「微分積分学の基本定理」を数学的に証明すべきだが,「引いてから割る」という微分計算の逆は「掛けてから足す(※)」という積分計算なのだと,言葉の上でのことだけではあるが,なんとなくわかったような気になれる捕らえ方もあるのではないだろうか。
こういう対応にはこの記事を書いていて初めて気がついたのだが,こういう観点に立って「微分積分学の基本定理」を見直してみるのは意義のあることかもしれない。

※ 「靴下を履く」→「靴を履く」の逆は,当然「靴を脱ぐ」→「靴下を脱ぐ」なわけだから,A に続いて B を行うという操作の逆は,B を解除してから A を解除するという順番になる。

また,なんとなく感覚的にではあるが,微分では時間間隔を狭めて瞬間の状態を考えようという短期的な意識の動きを感じるのに対し,積分では時間間隔を広げて,個々の瞬間の状態にはこだわらず,「それで結局どうなったの?」という全体的な傾向を問題にするという感じがある。

両者の関心の向きを矢印で表せば,微分は内に向かう「すぼまり」

→ x ←

であるが,積分は外に向かう「広がり」

← o →

である。

微分はほんのちょっとの変動を増幅して取り上げる「敏感さ」や「不安定感」があるが,積分はほんのちょっとの変動はならしてしまうのでビクともしない「鈍感さ」や「安定感」がある。

実際に,微分積分のさらなる発展形である解析学と呼ばれる理論においては,関数の値の変動の激しさ(振動量)を測るのには微分的な量を用い,激しく変動する関数の挙動を滑らかにならすのに積分を利用している。
電気工学における回路理論にも微分回路や積分回路といったものがあり,電気工学者たちはそれらの回路の特性について,上に述べたのとどこかしら共通するイメージを抱いているのではないかと思われる。


微分積分という思想の応用として,科学技術への直接的な応用ばかりに目を向けるのではなく,こんな風な自然現象の捉え方のような「物事の見方」という側面も意識したいものである。
とは言っても,自分の経験から推し量る限りでは,こういう思想面に関心を持ったり,理解できるようになるにはそれなりの成熟を必要とするので,微分積分を初めて教わるときにあまりこういう話ばかりされてもチンプンカンプンかもしれない。

改めて学び直すときに,「ああ,そういう意味があったのか」と初めて会得できるような,そんな類の極意ではないだろうか。

ちなみに,こういう感想には「なんであのときそう言ってくれなかったんだろう」という恨み言が続くのがお約束だが,これは勝手な言いがかりに過ぎない。なぜなら,「あのとき」そう言ってもらってたとしても,理解できなくて聞き流したり,印象に全く残らず忘れてしまったに違いないから。

ありがたいお話というのは,聞き手に心の準備(あるいはニーズといってもよいだろう)があってようやくありがたみが身に沁みてわかるものである。

むしろ,学校で習うようなことは,こういう「すぐにはわからん」という話ばかりが満ち溢れているのではなかろうか。
コメント
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