戦後50年たって社会の仕組みや経済の仕組みにほころびが目立ってきた。特にバブル現象がおきて今までの仕組みが根本的に問い直される時期に差しかかっている。未だに明確な指針が手探り状態で、闇の中で手探りをしている状態が続く。
歴史的社会状況の認識に、誤解があるのだろうか..。
救済はあるのか。
仏教はよりよい生き方のマニュアルなのか。
ミッテランの言葉 「卓越した科学者は科学を通して神を見いだし近づいた。中途半端な科学者は科学を通して神を遠ざけた。」
生かされて生きている。 自分の生死は自分で決められない。 己以外の何物かによって生かされている。
生かされていると言うことは言い換えれば何物かの支えや後押しのお陰で生きていると言うことである。ここに他力、自力の考え方が生まれるが、自分が一生懸命に生きるための支え、後押しの力を自覚するならば、そこには当然自分の命を支えているもの、後押しをしているものに対して、感謝の念が沸いて来よう。
単に生きているのではない、生かされて生きているのだという現実を悟ったときに初めて人は報恩謝徳の気持ちが生まれるのだ。すなわち神仏の存在に気が付くとき初めて生かされていることへの感謝の気持ちが生まれる。これは当たり前の事だ。考えてみるがいい。人の世で人と付き合う場合、お世話になれば感謝するのはエチケトであり、マナーである。もし人から好意を受けて素知らぬ顔をしていたら、その人は早晩必ず相手にされなくなる。好意を受けたら感謝してお返しをするから、人間関係が円滑になる訳で、感謝もしない、お返しもしない人だったら、こちらから付き合いを断る。これは人情の自然に沿った考え方であり、行為である。
人は自分の希望でこの世に生まれ出てきた訳じゃない 自分の力でどうにもならぬ事を体験したときに人はここに思い当たる。経験しなかったら分からないだろう。
生きているということは、生かされていると大きな力の支えがあると言うこと。
7、日常生活で実感する神仏の力
ノーベル賞受賞の学者が参画したヘッジフアンド、ロングターム・キャピタル・マネージメントがつぶれた。計算されしつくされた、人知の限界を示すものとして注目される。この世には人知を超越した何ものかが存在すると実感したのは私一人ではない筈。この世には人知や努力だけでは、どうにもならない事がある。この真理を実感できるのは人生の1/2以上生きて経験を積まないと分からないこと(理解できないこと)ではないだろうか。つまり40歳以上にならないとこの辺の感覚は出て来ない。
ちょっとしたことだが目に見えない大きな力が働いていることを実感できる瞬間がある。自分の命にしたがって、人生を誠実に生き、まじめに考えた人にのみ訪れる神仏の力の実感である。 見えない大きな力(今仮にこの力を神仏を言っておこう)に支配されていることだけは事実である。 何故か、それは個人が実感することであるから。 絶体絶命と言う場面におかれたときに、一番実感できるのでは?。
8 心の闇(これから21世紀に向かって構築すべき価値観を模索している状態)に乗じて、つけ込むかのようにいろいろな宗教教団が、雨後の筍のように出現している。
多くの中でどれが本物か見分けるのに困る。
本物かインチキか見分けるものさし
1、教祖の人柄、や教祖を取り巻く人達の価値観、宗教観 これに尽きると思う。
2、教団組織への加入、脱退の自由があるか。巧妙な脅しはないか、脱退金の徴収や、不幸が生じるなどの脅迫的なことはないか。
3、金品の強要はないか。金がかからないか。自ら進んで自発的に行う寄進は当然認められる。ようは金を要求されないかどうかである。このうち1つでも疑問に思うことがあれば、その教団のメンバーに加わることは慎重に考えるべきだ。
9、他力と自力 他力か自力かそんな論争は無益である。電車に乗るためには、駅まで自分の力でいかないと、乗ることはできない。さらに電車にのって運んでもらって初めて目的が達成されるのである。それを自分の力だとか乗り物の力だとか言ってみても始まらない。ただ二つの力が合わさって目的が達成されることだけは確かである。どちらに比重を置くかと言うことに関しては人それぞれである。
10いま考える、 物が豊かになれば、心は貧しくなる。物欲に支配されて振り回され心はやせ細る。 物欲は無限、止まることを知らない。これを追いかけると餓鬼道に陥り、自己破滅につながる。
心が基準。心ですべてのものを決めて行く。心がやせ細っては始末が悪い。心を肥やすには 生きる大欲と日常生活の少欲、知足少欲、物欲に振り回されない考え方、生き方が大切。豊かな物に囲まれて生活していても、心が貧しいと、人間らしい心を持ち合わせていないと、それは人間性の喪失につながる。つまり心が貧しければ、人間は人間でなくなると言うことだ 。
科学技術の発達に惑わされて失っている人間性の回復を図る努力が必要になる。
物の世界を追い詰めて、その結果大きな転換期を迎えた。
今こそよく考えなければならない時である。
初めに 神や仏がこの世に存在するかどうかは論理の世界で証明は出来ない。神仏の存在はそれを信じるかどうかにかかっている。信じる人にとっては神仏は存在するのであるが、信じない人にとっては神仏の存在はない。それが現代の常識になっているが、果たして神仏の存在は信じる、信じないで決められるものだろうか。
科学と言う名の下に、人間の思考で解決出来る、あるいは理解出来ることのみが、真実であろうか。 我々がこの世で生活して経験することではあるが、この世の中には人間の力や知恵を超越したものが、存在することをなんとなく実感することがある。偶然として片付けるには、あまりにも不合理で説明がつきにくく、我々はこういうものを、人間を超越した摩訶不思議なものとして神、仏の力のお陰、または御利益という。
人は何か一つのことを徹底的に追求しているときに神仏の世界が有るかどうかと言うことに突き当たる。結果的には神仏の世界を発見する。
フランスの大統領、ミッテランは真の科学者は科学を通して神を発見した、がそこまで到達してない科学者は科学によって神を遠ざけた(見つけることが出来なかった)と喝破した。
人間は自分のからだですら、自由に呼吸を止めたり、心臓の鼓動や胃腸のはたらきをとめることは出来ない 無量寿経のなかで、釈迦が弟子に仏の功徳を説く。
仏が説法をした国や場所では天下は和らぐ。
日、月は清く明るく、雨風は時におうじて適当に降り、災害や疫病は起こらず、国は豊かにして民衆は安らか暮らし、兵や武器は無用。人々は互いに徳を高めて、仁を尊び礼儀と謙譲の道を守ったと。
これからの世に、何か役立つヒントになることがあれば幸いだ。
歴史的社会状況の認識に、誤解があるのだろうか..。
救済はあるのか。
仏教はよりよい生き方のマニュアルなのか。
ミッテランの言葉 「卓越した科学者は科学を通して神を見いだし近づいた。中途半端な科学者は科学を通して神を遠ざけた。」
生かされて生きている。 自分の生死は自分で決められない。 己以外の何物かによって生かされている。
生かされていると言うことは言い換えれば何物かの支えや後押しのお陰で生きていると言うことである。ここに他力、自力の考え方が生まれるが、自分が一生懸命に生きるための支え、後押しの力を自覚するならば、そこには当然自分の命を支えているもの、後押しをしているものに対して、感謝の念が沸いて来よう。
単に生きているのではない、生かされて生きているのだという現実を悟ったときに初めて人は報恩謝徳の気持ちが生まれるのだ。すなわち神仏の存在に気が付くとき初めて生かされていることへの感謝の気持ちが生まれる。これは当たり前の事だ。考えてみるがいい。人の世で人と付き合う場合、お世話になれば感謝するのはエチケトであり、マナーである。もし人から好意を受けて素知らぬ顔をしていたら、その人は早晩必ず相手にされなくなる。好意を受けたら感謝してお返しをするから、人間関係が円滑になる訳で、感謝もしない、お返しもしない人だったら、こちらから付き合いを断る。これは人情の自然に沿った考え方であり、行為である。
人は自分の希望でこの世に生まれ出てきた訳じゃない 自分の力でどうにもならぬ事を体験したときに人はここに思い当たる。経験しなかったら分からないだろう。
生きているということは、生かされていると大きな力の支えがあると言うこと。
7、日常生活で実感する神仏の力
ノーベル賞受賞の学者が参画したヘッジフアンド、ロングターム・キャピタル・マネージメントがつぶれた。計算されしつくされた、人知の限界を示すものとして注目される。この世には人知を超越した何ものかが存在すると実感したのは私一人ではない筈。この世には人知や努力だけでは、どうにもならない事がある。この真理を実感できるのは人生の1/2以上生きて経験を積まないと分からないこと(理解できないこと)ではないだろうか。つまり40歳以上にならないとこの辺の感覚は出て来ない。
ちょっとしたことだが目に見えない大きな力が働いていることを実感できる瞬間がある。自分の命にしたがって、人生を誠実に生き、まじめに考えた人にのみ訪れる神仏の力の実感である。 見えない大きな力(今仮にこの力を神仏を言っておこう)に支配されていることだけは事実である。 何故か、それは個人が実感することであるから。 絶体絶命と言う場面におかれたときに、一番実感できるのでは?。
8 心の闇(これから21世紀に向かって構築すべき価値観を模索している状態)に乗じて、つけ込むかのようにいろいろな宗教教団が、雨後の筍のように出現している。
多くの中でどれが本物か見分けるのに困る。
本物かインチキか見分けるものさし
1、教祖の人柄、や教祖を取り巻く人達の価値観、宗教観 これに尽きると思う。
2、教団組織への加入、脱退の自由があるか。巧妙な脅しはないか、脱退金の徴収や、不幸が生じるなどの脅迫的なことはないか。
3、金品の強要はないか。金がかからないか。自ら進んで自発的に行う寄進は当然認められる。ようは金を要求されないかどうかである。このうち1つでも疑問に思うことがあれば、その教団のメンバーに加わることは慎重に考えるべきだ。
9、他力と自力 他力か自力かそんな論争は無益である。電車に乗るためには、駅まで自分の力でいかないと、乗ることはできない。さらに電車にのって運んでもらって初めて目的が達成されるのである。それを自分の力だとか乗り物の力だとか言ってみても始まらない。ただ二つの力が合わさって目的が達成されることだけは確かである。どちらに比重を置くかと言うことに関しては人それぞれである。
10いま考える、 物が豊かになれば、心は貧しくなる。物欲に支配されて振り回され心はやせ細る。 物欲は無限、止まることを知らない。これを追いかけると餓鬼道に陥り、自己破滅につながる。
心が基準。心ですべてのものを決めて行く。心がやせ細っては始末が悪い。心を肥やすには 生きる大欲と日常生活の少欲、知足少欲、物欲に振り回されない考え方、生き方が大切。豊かな物に囲まれて生活していても、心が貧しいと、人間らしい心を持ち合わせていないと、それは人間性の喪失につながる。つまり心が貧しければ、人間は人間でなくなると言うことだ 。
科学技術の発達に惑わされて失っている人間性の回復を図る努力が必要になる。
物の世界を追い詰めて、その結果大きな転換期を迎えた。
今こそよく考えなければならない時である。
初めに 神や仏がこの世に存在するかどうかは論理の世界で証明は出来ない。神仏の存在はそれを信じるかどうかにかかっている。信じる人にとっては神仏は存在するのであるが、信じない人にとっては神仏の存在はない。それが現代の常識になっているが、果たして神仏の存在は信じる、信じないで決められるものだろうか。
科学と言う名の下に、人間の思考で解決出来る、あるいは理解出来ることのみが、真実であろうか。 我々がこの世で生活して経験することではあるが、この世の中には人間の力や知恵を超越したものが、存在することをなんとなく実感することがある。偶然として片付けるには、あまりにも不合理で説明がつきにくく、我々はこういうものを、人間を超越した摩訶不思議なものとして神、仏の力のお陰、または御利益という。
人は何か一つのことを徹底的に追求しているときに神仏の世界が有るかどうかと言うことに突き当たる。結果的には神仏の世界を発見する。
フランスの大統領、ミッテランは真の科学者は科学を通して神を発見した、がそこまで到達してない科学者は科学によって神を遠ざけた(見つけることが出来なかった)と喝破した。
人間は自分のからだですら、自由に呼吸を止めたり、心臓の鼓動や胃腸のはたらきをとめることは出来ない 無量寿経のなかで、釈迦が弟子に仏の功徳を説く。
仏が説法をした国や場所では天下は和らぐ。
日、月は清く明るく、雨風は時におうじて適当に降り、災害や疫病は起こらず、国は豊かにして民衆は安らか暮らし、兵や武器は無用。人々は互いに徳を高めて、仁を尊び礼儀と謙譲の道を守ったと。
これからの世に、何か役立つヒントになることがあれば幸いだ。