トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

障害と文学 「謡曲 弱法師」

2008-07-28 10:53:28 | 文学
舞台となるのは、大阪市にある四天王寺。聖徳太子が創建した仏法最初の寺院とされています。悲田院があり、貧窮者・病人・孤児も集まってきていました。寺の周辺には乞食(こつじき)が参集して、参詣人の憐憫を乞うていたという事です。参詣人も功徳のために、彼らに施しを行っていました。
 舞台には、河内国高安の里の左衛門尉(さえもんのじょう)通俊が従者を伴って登場します。去年の暮れに、他人の讒言により、息子の俊徳丸を家から追い払ってしまいました。今となっては、俊徳丸が不憫で、現世後世の安楽を祈るために七日間貧民に施しを行っていました。満願の日に、盲目の少年が杖をついて現れます。
「出入(いでいり)の、月を見ざれば明暮の、夜の境をえぞ知らぬ。難波の海の底ひなく、深き思いを人や知る」「前世で誰かを厭い嫌ったので、現世で報いを受け、人の中傷を受けて、不孝の罪(勘当)に沈む我が身。悲しみの涙で目が曇り、ついには盲目の身にまでなってしまい、まだ死んでもいないのに、宙ぶらりんの状態で闇の道に迷うようであります」
 仲間からは、あまりにもよろめいて歩くので「弱法師」(よろぼし)と名前を付けられています。お互いに気付かぬ身、父通俊は、弱法師に施しを与えます。時は彼岸の中日。垣根の梅の花が、弱法師の袖に散ります。梅の花の古歌の問答が始まり、仏を讃嘆する弱法師。逆境の中でも、風流心を忘れず、悟りの境地にいます。ここで、父は弱法師が我が子俊徳丸である事に気が付きますが、人目を気にして、夜になってから名乗ろうと思うのでした。
さて、四天王寺の西門の石の鳥居は、極楽浄土の東門に向かい合っていて、彼岸の中日にここで日没を拝する古例がありました。夕刻になりました。通俊は弱法師に、日想観(西に向かい日没を見て極楽浄土を瞑想すること)を拝むように勧めます。弱法師の心眼には、かつて見慣れていた「難波の西の海「淡路絵島」「須磨明石」「紀の海」が映り、興奮状態で舞い狂うのでした。
「難波なる長柄の橋のいたづらに、彼方こなたと歩くほどに、盲目の悲しさは、貴賎の人に行き逢ひの、転(まろ)び漂ひ難波江の、足元はよろよろと、げにもまことの弱法師とて、人は笑ひ給ふぞや。思へば恥ずかしやな、今は狂ひ候はじ、今よりはさらに狂はじ」
 夜も更けて、通俊は我が子に過去を問いかけます。
「そも通俊はわが父の、その御声を聞くよりも胸うち騒ぎあきれつつ、こは夢かとて、俊徳は、親ながら恥かしとて、あらぬ方へ逃げ行けば、父は追ひ付き手を取りて、何をかつつむ難波寺の、鐘の声も夜まぎれに、明けぬさきにと誘ひて、高安の里に帰りけり、高安の里に帰りけり」

 追記:観世元雅作。クセは世阿弥作。世阿弥自筆本の転写本では、俊徳丸の妻や四天王寺の僧侶たちが登場する。
 参照:日本古典文学全集 謡曲二 (小学館)

 なお、この能の素材ははっきりしない。当時、継母により家を追われる子供の話が世に広がっていたのだろう。次回は、出来ればそれにも関連する説教節「信徳丸」に触れてみたいと思っている。
 子との再会というテーマを題材にした能には、少年花月が天狗にさらわれて、峰々を廻った後、清水寺で喝食となり、父親と再会を果たす「花月」がある。地元の神社の薪能で拝見したが、清清しい能であった。
 蝉丸と逆髪の再会は、悲しくもむごいものであった。
 


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2 コメント

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Unknown (トッペイ)
2008-07-28 21:37:21
能の実際の舞台となった実際のゆかりの土地は詳しくありません。
 旅行できたら良いですが、まあ無理でしょう。
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四天王寺さん (ななの小町)
2008-07-28 20:53:18
弱法師って、観てみたいです。。。

そっかぁ~高安って、羽曳野なのだと思うし。

長柄は、淀川にかかる橋でしょうか。

能って深いですねっ
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