風に誘われて

あの山から、あの海から、私を呼ぶ声が聞こえます。
風が「行こう!」と誘います。
風に誘われて、さあ立ち上がろう!!

光太郎と賢治

2015-11-09 | 北海道の夏 8年目(2015)
遠野⇒花巻を回り、その夜は花巻温泉に宿泊
翌日は宮城県は松島に宿を取っているので、東北道に乗る前に高村光太郎記念館に寄った。


朝8時半のオープンと同時に入館。
早い時間だったので私達のほかに誰もいなかったので静かに見学することが出来た。
が、ここも館内は写真禁止
だが、この記念館は見応えあり。
やはり光太郎が長命だったことや、この地に7年間も住んで、その間は村の人たちと結構交流があったことなどで
資料が多く残っていることもあるのだろう。



記念館の近くには光太郎が住んだ山小屋があるはず・・・が、意外や立派な建物。
光太郎が住むとなれば小屋と言っても立派だなあ・・と言うのが第一印象だった。
が、それは私の思い違いで、光太郎が実際に住んだという小屋は、この建物の中に保存されていた。
そして、その小屋は本当に粗末な小さなものだった。


 
建物の中に、更に建物という構造になっている。
如何に、この地の人が光太郎を、そして光太郎の住んだ山小屋を大切にしているかが分かる気がした。


                                

光太郎と智恵子との生活は世間から隔離した世界で、その中で智恵子を喪ってしまった。
その反省もあり、この地に住んだ7年間は、村の人たちとの交流を深めたそうだ。
資料の中には、サンタクロースの格好をした光太郎が小学校に行き、
子供たちにプレゼントをした時の写真もあった。

それと、光太郎と宮沢賢治との意外な繋がりも知った。
光太郎や草野心平たちとの交流の場に、賢治の弟さんが賢治の残されたトランクを持って行ったそうだ。
みんなでトランクの中を見ているうちに「雨にも負けず」の詩が残された手帳を見つけ、
それを読んだ全員が発表することを勧めて、あの詩は世に出た。
それ以来、光太郎と賢治の弟さんとの交流が始まった。
因みに光太郎と賢治が会ったのは一回きりで、それも特に話もしなかったらしい。

空襲で家を失った光太郎に、賢治の弟さんが自分の家に疎開を勧め、
1年以上も宮沢家に住んでいたそうだ。
が、宮沢家も被災し、そこで花巻郊外に山小屋を立てて住み始めたということだ。

高村光太郎ほどの人ならば、もっと立派な家に住めただろうにと思ったが、
光太郎の気持ちの中に自己の戦争責任の意識があり、自身に対する流刑の意味もあったとか。
裏山に行っては智恵子の名前を叫んでいたという話を聞いて、その辛さ、寂しさを思い馳せた。

あの、つい先日行ってきたばかりの十和田湖の「乙女の像」の制作を決心したのもこの場所。
昨日行ってきた遠野と宮沢賢治の繋がり。
その宮沢賢治と高村光太郎との繋がり。
同時代に生き、同地域に住み、そんな人の繋がりを知ったことも、今度の旅の嬉しいことだった。

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