長崎2日目
時折雨が降る中を、電車に乗って原爆資料館へ
長崎に原爆が落とされた映像や、被爆直後の長崎の街の惨状などの資料展示を見ていると、
心がえぐられるような痛みを感じる。
どんな理由があっても核兵器を使ってはいけない。
どんな理由があっても核実験もやってはいけない。
今も、日本の近くの国で核実験が行われているようだが・・・
悲しみと憤りを感じた資料館だった。
1945年8月9日、午前11時2分、この場所の上空で原子爆弾が炸裂した。
当初の投下目的地(小倉)が雲に覆われていたので、次なる都市の長崎に変更となった。
その長崎も雲に覆われていたが、たまたまこの場所だけに雲の切れ間があった・・・
もしも・・何かが一つ違っていたら・・・とは思うものの、
日本に原子爆弾が落とされる運命は変えようもなかったのかもしれない・・・
絶対に、絶対に、戦争はいけない。
被爆のために亡くなった多くの人たちに、「どうぞ安らかに」と手を合わせた。
平和公園の象徴「平和記念像」は、長崎出身の北村西望の作品。
この像の上を指す右手は原爆の脅威を、水平に伸びた左手は世界平和を、
軽く閉じたまぶたは犠牲者の冥福を祈っているそうだ。
医師・作家の永井博士が晩年暮らした小さな家「如己堂(にょこどう)」(手前の小さな家)
「己の如く隣人を愛せ」という意味を込めて名づけられた。
永井博士は、医師として結核診断のためのレントゲンを操作するうちに被爆し、自らも白血病となっていたが、
被爆者の救護活動に奔走し、最後は寝たきりの状態になった。
原爆で妻を亡くし、残された子供たちと三人で、この2畳ほどの家で暮らしながら本を執筆し、
作品の中から「長崎の鐘」として藤山一郎が歌ったり、映画化されたりして全国的に知られるようになった。
いつか行ってみたい・・と思いながらも、市街地から離れているので諦めていたが、今回行けてよかったし、
この如己堂の横に立派な「永井隆記念館」が建てられて管理が行き届いていることにも安心した。
永井博士と言えば、痩せて髭があるイメージがあったので中年と思っていたが、享年43歳という若さだったとは!
母を亡くした小さな子供2人を残して逝くことは心残りだったろうが、現在の記念館館長はお孫さんだとか。
子供・孫の成長を、見守っているのだろう。
浦上天主堂
信者たちが30年もの年月をかけて石と煉瓦を積み上げて造った大聖堂は原爆で全滅し、
今の教会はその後に建てなおされたもの。
この辺りで雨足が強くなったので、教会の中でしばらく静かな時を・・・と入ったのだが、
椅子がある手前に立ち入り禁止のロープが
教会って誰をも受け入れるんじゃないの
椅子ぐらい座らせてくれてもいいんじゃないの
と、不満が先で内部の印象が全く残っていない。
まだ私、人間が出来てないようだ・・
長崎駅から歩いて10分足らずの坂の上(西坂)にある「日本二十六聖人殉教の碑」
豊臣秀吉の禁教令により京都や大阪で捕えられた26人のキリシタンが処刑された場所。
この26人は、外国人宣教師6人と日本人20人で、中には3人の少年もいた。
その当時この辺りは海に面した岬で、その後も多くのキリシタンの処刑が続いたそうだ。
殉教の碑の裏手にあるので分かりにくいが、「日本二十六聖人記念館」があり、
その入口に「愛は死よりも強し」の碑があった。
確かにそう!
死も何も愛を裂くことは出来ない。
愛は永遠なり
時折雨が降る中を、電車に乗って原爆資料館へ
長崎に原爆が落とされた映像や、被爆直後の長崎の街の惨状などの資料展示を見ていると、
心がえぐられるような痛みを感じる。
どんな理由があっても核兵器を使ってはいけない。
どんな理由があっても核実験もやってはいけない。
今も、日本の近くの国で核実験が行われているようだが・・・
悲しみと憤りを感じた資料館だった。
1945年8月9日、午前11時2分、この場所の上空で原子爆弾が炸裂した。
当初の投下目的地(小倉)が雲に覆われていたので、次なる都市の長崎に変更となった。
その長崎も雲に覆われていたが、たまたまこの場所だけに雲の切れ間があった・・・
もしも・・何かが一つ違っていたら・・・とは思うものの、
日本に原子爆弾が落とされる運命は変えようもなかったのかもしれない・・・
絶対に、絶対に、戦争はいけない。
被爆のために亡くなった多くの人たちに、「どうぞ安らかに」と手を合わせた。
平和公園の象徴「平和記念像」は、長崎出身の北村西望の作品。
この像の上を指す右手は原爆の脅威を、水平に伸びた左手は世界平和を、
軽く閉じたまぶたは犠牲者の冥福を祈っているそうだ。
医師・作家の永井博士が晩年暮らした小さな家「如己堂(にょこどう)」(手前の小さな家)
「己の如く隣人を愛せ」という意味を込めて名づけられた。
永井博士は、医師として結核診断のためのレントゲンを操作するうちに被爆し、自らも白血病となっていたが、
被爆者の救護活動に奔走し、最後は寝たきりの状態になった。
原爆で妻を亡くし、残された子供たちと三人で、この2畳ほどの家で暮らしながら本を執筆し、
作品の中から「長崎の鐘」として藤山一郎が歌ったり、映画化されたりして全国的に知られるようになった。
いつか行ってみたい・・と思いながらも、市街地から離れているので諦めていたが、今回行けてよかったし、
この如己堂の横に立派な「永井隆記念館」が建てられて管理が行き届いていることにも安心した。
永井博士と言えば、痩せて髭があるイメージがあったので中年と思っていたが、享年43歳という若さだったとは!
母を亡くした小さな子供2人を残して逝くことは心残りだったろうが、現在の記念館館長はお孫さんだとか。
子供・孫の成長を、見守っているのだろう。
浦上天主堂
信者たちが30年もの年月をかけて石と煉瓦を積み上げて造った大聖堂は原爆で全滅し、
今の教会はその後に建てなおされたもの。
この辺りで雨足が強くなったので、教会の中でしばらく静かな時を・・・と入ったのだが、
椅子がある手前に立ち入り禁止のロープが
教会って誰をも受け入れるんじゃないの
椅子ぐらい座らせてくれてもいいんじゃないの
と、不満が先で内部の印象が全く残っていない。
まだ私、人間が出来てないようだ・・
長崎駅から歩いて10分足らずの坂の上(西坂)にある「日本二十六聖人殉教の碑」
豊臣秀吉の禁教令により京都や大阪で捕えられた26人のキリシタンが処刑された場所。
この26人は、外国人宣教師6人と日本人20人で、中には3人の少年もいた。
その当時この辺りは海に面した岬で、その後も多くのキリシタンの処刑が続いたそうだ。
殉教の碑の裏手にあるので分かりにくいが、「日本二十六聖人記念館」があり、
その入口に「愛は死よりも強し」の碑があった。
確かにそう!
死も何も愛を裂くことは出来ない。
愛は永遠なり