ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

今日の兼題は〝霜〟

2018年12月11日 | 俳句

 今日は本当に久し振りの本格的な雨でした。寒~い、冷た~いを連発しながら、午後からの俳句教室へ出かけました。明日も曇で…まだ寒そう。

 今回の兼題は「霜」、もちろん冬の季語。晴れた寒夜、気温が氷点下になり、空気中の水蒸気が放射冷却によって冷え、地面や物に触れ、その表面についた氷のこと。

  霜の墓抱き起されしとき見たり   石田波郷

 この句は、森澄雄と山本健吉の「霜の墓」論争が有名なので、皆さんよくご存じの句でしょう。今思えばなぜそういう間違った解釈が、あれほどの俳人に出たのかしらと不思議に思いますが…。それはきっと切字の問題からなのではと私は思います。一般に俳句の切れは一個所、例えば上五か中七で切れる取り合せの俳句、でなければ下五だけで切れる一物仕立ての俳句というのが定番になっています。もちろん例外はありますが…。

 だとすると、この句の切字は「見たり」の「たり」(完了の助動詞)とみるのが普通でしょう。そうすると、「霜の墓(を)(私は)抱き起された時に見たのだよ」というような一元的俳句としての解釈が容易に生まれるでしょうね。また、それを澄雄は「霜の墓(が)抱き起された時(その墓を私は)見たのだよ」としたために、健吉から〝それは間違いである。この句は「霜の墓」で切れているのだ。〟と指摘され、それを認めた澄雄が訂正したという話なんです。

 この句には作者自身の解説がありますので、それを読めば反論のしようはないのですが、作者を知らない人が読んでしまうと、澄雄のような意味に取れないことはないでしょう。故に「抱き起されたのは作者だ」と確信をもって言えるのは、波郷の句だと知ればこその解釈なんです。また、健康な者と常に死が傍にある者の見る「霜の墓」は全く違う感慨でしょうから、単なる写生の句ではすまないということなんです。しかし、そういう意味からすると、正岡子規も波郷以上の境遇でしたよね。抱き起されて見たかどうかは分かりませんが、あの「鶏頭」の花を「十四五本も」と詠んだ子規と比べてみると、とても面白い気がします。生と死の真ん中にいる二人が、一方は〝死の世界〟を、他方は〝生の世界〟を見つめていたということになるのではないでしょうか…。私は二人がどんな性格の人か殆ど知りませんので、偉そうなことは言えませんが、何だかその性格で生きる姿勢の違いが現れたのではと感じてしまうのはあながち間違いではないかも?これは私の単なる思いつき…何というバカなことを言ってるのだぐらいに読んで下さいね。スミマセン!長々といたらぬ事を申しました。

 先日の〝野葡萄〟の実を昨日晴れていましたので撮りました。ほら、白くなっているでしょ! 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする