ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

俳画教室の忘年会

2018年12月06日 | 俳句

 昨日は午前中に月1回の通院で薬を貰って、序でにインフルエンザの予防接種をして貰いました。午後は健康体操…しばらく休んでいましたので、〝珍しい…〟などと言われて、ちょっと反省!何事も継続が大事ですものね~。

 今日は昼過ぎまで雨が降り夕方には止みました。このところそこそこの気温で、エアコンをつけずに済んでいますので、アリガタイです!予報では明日ぐらいから寒くなりそうだと…最低気温が6度らしい。

 今日の12時からは俳画教室の忘年会がありました。毎年どこかで行うのですが、今年は全日空ホテルの中にある中華料理店でした。教室があるのは第2第4木曜日、だから教室のない第1木曜日にということ。

 今回は参加者20名のグループでしたので、円卓の個室。3つのテーブルにそれぞれ席について…開始です。次々と美味しいご馳走がでて、話も弾み最後のデザートを食べ終わったところで、いよいよミニ講話。

 実は、俳句の指導をしているということで、何でもいいからこの場で話をして欲しいと前から頼まれていたのです。さて、さて何を話そうかと思いながら考えては来たのですが…。日頃の俳句教室の生徒さんとは違いますので、ちょっと緊張しました。

 結局、俳画の仲間ですので〝俳句と俳画の共通点〟について話しました。端的に言えば、どちらも〝余白〟が大事だと言うこと。

 そもそも俳画とは、日本画の一形式で、俳諧味のある洒脱な略筆の墨絵や淡彩の小品画をいいます。だから油絵などのように絶対に重ね塗りをしません。日本画の一形式といっても本格的な狩野派や円山派のような装飾的な大和絵とも違います。ある時は一筆で球体であることを分からせたり、描いてない部分にある無数の枝や花など…全てを書き切らずに全体を想像させるというところ、俳句の省略、即ち〝言わずに語る〟というところと同じなのです。

 では、俳画と賛の俳句との関係はどうかというと…。私が俳画を始めたばかりの時、疑問に思ったことがありました。〝紫陽花の絵になぜ紫陽花の句を付けたらいけないのだろうか?〟と。それは、俳画というものは、俳句への「匂いづけ」であるのが望ましく、だから賛はその絵の説明になるものでなく、作品を見た人の想像に広がりを持たせるようなものが良いとされているからなのです。

 中村不折と交流して、画も嗜んでいた正岡子規が、次のように書き記しています。「画だけでは何だか物足らぬといふやうな場合に俳句の賛を書いて、その趣味の不足を補ふ事は悪い事ではない。それ故に或画に賛をする時にはその賛とその画と重複しては面白くない。」と。更に、「要するに画ばかりでも不完全、句ばかりでも不完全といふ場合に画と句を併せて、始めて完全するやうにするのが画賛の本意である。」とも書かれています。だから、賛の句が先にあればそれに響き合うような画を、画が先にあればそれを補うような俳句を賛に選ぶことが大切だという話を、皆さんに致しました。

 まあ、俳画教室では先生の書かれた手本を見て練習しますので、賛を選ぶということは無いのですが、ただ俳句が一文字・一音を大切にして詠むように、俳画もたった一本の線であっても重要なのだという話、更に俳句も俳画も余白に余情や余韻が生まれるという話には皆さん納得されていました。

 慌てて家を出ましたので、今日はスマホを忘れてしまいました。それで写真が撮れないので、Sさんにお願いして撮った写真を送っていただくように頼んだんですが…まだ届きません。仕方がないので、今日先生に頂いたお土産の煎餅とフクロウの鈴の写真で我慢して下さいね。一緒にSさんより毎年頂く〝バッタ〟も、いやこれは〝コオロギ〟かも。他に幹事さんちの〝ギンナン〟や〝藍染のハンカチ〟。何だかクリスマスのプレゼントみたい!これで来年も良い年になること間違いなしですね。(鬼が笑う ウフフ…)

コメント
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