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大草代官を苦しめた【新六古六の争】

「新六」は新勢力、「古六」は旧勢力の意味です。
倉敷は全村が真っ二つに割れ、その争いは宝暦明和の頃から天保まで続きました


以下は「新六古六の争」の概略です。

大草太郎右馬政郷が倉敷にやって来る60年以上前から、倉敷では新旧の勢力が対立していました。
旧勢力とは水夫屋敷十三組の組頭・いわゆる十三軒衆の旧家です。
これらの旧家がおよそ200年もの間、倉敷の村役全ての職を独占してきました。
長い年月の間には旧家とは名ばかりに没落したもの、あるいは村役には力量の足りない者もおり、それを快く思わない人々が出てくるのも、まぁ自然の成り行きというものです。
力をつけてきた百姓たちは、十三軒衆による村役独占を不服として、機会ある毎に会合を持ち書状をしたため反抗を試みていました。

大草太郎右馬政郷の支配となった後紛争は激しさを増し、文政7年とうとう江戸公事となりました。
文政8年3月、村役に江戸奉行所に出頭するよう命令が下った時、嘆願書を持った数百人が役所に押し掛け、門訴してこれを阻止しようとしました。
全村両派に分かれての深刻な対立となり、双方道で遭っても全く口も聞かず、数年間氏子の祭りも出来なくなったそうです。


文政9年5月26日、この江戸公事は新派の勝利で決着します。

十三軒衆の村役独占を認めない。
現在の村役人の総辞職。
村役人は高得総百姓の公選による。

以上のように、200年ぶりの村政大改革となりました。
しかし、この後も村役公選を巡って両派の対立は続きます。



そんな中
文政11年7月29日、「かねてより病気療養中のところ……」と大草代官の死が発表されます。

大草代官の墓碑には、逝去が発表された文政11年7月29日が歿日として記されています。
しかし、寺の過去帳には「幸徳院殿上沢良栄居士 文政九丙戌五月十日 大草太郎右馬様」とあるそうです。
代官所の記録にも「実は……」という記述があるそうです。
本当の歿日は文政9年5月10日、2年間もその死が伏せられていたんですね

伝えられるところでは、新六古六の一件の責任を取って切腹したということです。
文政9年5月10日………それは江戸での訴訟が決着するわずか16日前のことでした。





つづく

注)
「新禄古禄」かとも思いましたが、倉敷市史に「新六古六」とありましたので、そのまま掲載しています。

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