鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

古日向こそは投馬国(2)

2024-02-09 15:32:39 | 古日向の謎

  【投馬国(古日向)の官と副官】

古日向とは、律令制が導入され列島の大部分に令制国が置かれる以前の鹿児島県と宮崎県とを併せた領域で、魏志倭人伝が書かれた時代、古日向は「投馬国」であったことが分かった。

投馬国は戸数が5万戸もある倭人伝時代、屈指の大国であった。

官を彌彌(ミミ)といい、副官を彌彌那利(ミミナリ)といった、とある。

このミミといい、ミミナリといい、邪馬台国を含む他のどの倭人国にも無い官及び副官である。

邪馬台国では女王は別にして、官にイキマ・ミマシヲ・ミマワキ・ナカテがいるが、イキマは「生目」、ミマシヲは「孫之男」、ミマワキは「孫脇」、ナカテ「中手」とそれらしい倭語で復元でき、伊都国でも官はニキ(主)、副官はシマコ(島子)・ヒココ(彦子)、また多くの国々では官はヒコ(彦)、副はヒナモリ(夷守)である。

しかし投馬国の官ミミ、副官ミミナリはどの国にも見当たらない官名である。実に独特の呼び名である。

しかも彌彌はミミとしか読めず、彌彌那利はミミナリとしか読めないのも投馬国の官名の特徴だ。

 

  【ミミ名は記紀にもあった】

ところで記紀の天孫降臨神話にはこのミミが登場する。

ニニギノミコトが天照大神の命を受けて高千穂の峰から地上に降りるのが「天孫降臨」だが、実は最初は二ニギの父で天照大神の太子であるアメノオシホミミが降臨することになっていた。

ところが降臨の準備をしている間に、孫のニニギノミコトが生まれたので、二ニギを降すことになった。

この降臨者の変更は父のオシホミミの申告によるだけでなされており、本当の理由は不詳である。(※オシホミミがミミ名であることと関係するのだが、ここでは省略する。)

とにかく高千穂のクシフルタケに降臨したのは、孫のニニギノミコトであった。まさに天「孫」であり、皇「孫」であった。

高千穂のクシフルタケに降臨し、その後、鹿児島の山の神オオヤマツミの娘カムアタツヒメと出会った二ニギは聖婚をして、三皇子ホテリ・ホスセリ・ホオリを授かる。古事記によるとその内のホテリは阿多隼人の祖となり、第三子のホオリが兄のホテリを従え、皇孫2代目となった。

2代目のホオリは山幸彦として統治するが、兄海幸彦とのいさかいによって、海の中の宮(ワタツミ神の竜宮)を訪れることになる。ホオリはそこでワタツミの娘トヨタマヒメに出会い、恋仲となり、ヒメは地上に戻るホオリを追って海岸に至り、そこで3代目の皇子ウガヤフキアエズを生み、そのまま竜宮に帰る。

3代目のウガヤフキアエズは母トヨタマヒメの妹のタマヨリヒメによって養育され、成人ののちタマヨリヒメを妻として、四皇子(4代目)イツセ・イナヒ・ミケヌ・ワカミケヌを生む。最期のワカミケヌこそがのちの神武天皇である。

この皇孫4代目の神武天皇の時にいわゆる「神武東征」が行われたとする。

現在の日本史ではこの神武東征は有り得ない話で、火山灰に覆われた素寒貧の南九州からはるばるやって来て畿内に侵入し、橿原王朝を打ちたてたというのは、「日向という吉祥語を持った国名を生かしたおとぎ話の類である」と津田左右吉が一蹴して以来、歴史以前の妄説として顧みられなくなった。

ところが、記紀には神武天皇の皇子としてタギシミミとキスミミがいると書く。

このうち兄のタギシミミは父の神武と共に畿内を目指しているのだ。東征途上のタギシミミの存在感は極めて薄いが、とにかく橿原王朝が始まり、神武亡きあとに後継者となるはずだった。

ところがタギシミミは、大和で生まれた三皇子ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミのうち、第三子のカムヌマカワミミによって殺害され、後継者はカムヌマカワミミになった。第2代綏靖天皇である。

 

  【大和で生まれた皇子の名がなぜ○○ミミなのか】

津田左右吉の学説以来、古日向を舞台にした神話は無論「神武東征」も全くのおとぎ話に格下げされたのだが、私は古日向を倭人伝上の「投馬国」としており、その官及び副官(実際には王と女王)の名がミミとミミナリであることから、古日向で生まれたとされるタギシミミとキスミミは実在性が極めて高いと考えるに至った。

そう考えると、さらに「神武東征」後に初代大和王権たる橿原王朝を樹立したあとに、神武が畿内の豪族の娘イスケヨリヒメを娶って生まれた三皇子がヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミと、またまたミミを皇子名に付けたのはまさに古日向が投馬国であったことの傍証であり、「神武東征」は間違いなくあったと考えている。

古日向に生まれたタギシミミ・キスミミにしろ、また大和で生まれたカムヤイミミ・カムヌマカワミミにしろ、古日向を舞台にした神話やそこから出発して大和王権を生んだことなど全くのおとぎ話であるならば、皇子の名にタギシミミ・キスミミ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミなどと奇妙な名を造作する必要など全くない。

皇子名として「○○彦」「彦○○」のような名付けなら、造作にしてももっともらしく見えるではないか。

このことから私は古日向が投馬国であったことに加えて、いわゆる「神武東征」の類があったと考えて何の不自然もないと思うのである。(終わり)

(※オシホミミが降臨しなかった理由とタギシミミがカムヌマカワミミに殺害されてしまう理由については別稿を考えている。)

 

 

 

 

 


坐骨神経痛は完治!

2024-02-08 10:35:19 | 日記

去年の暮、忘れもしない羽田行きの飛行機の中で突然発症した坐骨神経痛。

狭い飛行機の座席が痛みを増幅したのだろう、居ても立っても居られないとはこのこと、我慢我慢の1時間半だった(帰りのフライトでも同様だった)。

ところが立って歩いてしまえば何ともなく、無事に墓参りを済ませ、それどころか葛飾柴又の寅さん記念館を見学し、「とらや」で名物の団子まで食して来た。

坐骨神経痛が発症したのは12月22日で、ちょうどオヤジの命日だった。よくも今まで墓参に来なかったな――という戒めだったか?

また歩くのには支障がなく、柴又帝釈天(題経寺)界隈を歩くことができたのは、まあ遠くから来たのだからそれくらいの楽しみはさせてやろう――という仏恩(?)か。

どっちにしても、帰宅後の坐骨神経痛の痛みは変わらず、よく行く温泉で知人に話したら、自分も坐骨神経痛だが病院へは何度か行ったきりでそのままにしている、と言われ、まずは温泉で治して行こうと決めた。

その後、温泉に行っては腰のあたりを中心に低周波をかける(電気風呂にはいる)日々が続くのだが、大相撲が始まってから、ふと気が付いたのだ。

「お相撲さんが坐骨神経痛で休場したというのは聞いたことがないぞ」――と。

あんなに激しくぶつかり合い、土俵から転げ落ちることの多い力士に捻挫や打撲、膝の故障は多く、それで途中休場する力士はたしかに多い。

だが、休場のアナウンスや新聞に載る休場力士の記事に「坐骨神経痛で○○週間の加療が必要のため休場」というのは聞いたことも見たこともない。

それでいったい力士が坐骨神経痛にならない理由は何なのかを考えてみると、突っ張り合うにしてもがっぷり四つに組むにしても、力士の腰が常に安定しているのに気付かされた。

その安定した姿勢を保つのが「外股」ではないか。「ガニ股」に似ているが、こっちは膝と膝との間が空き過ぎており、多くは膝自身が曲がっている。

「外股」は膝が曲がってはおらず、膝の下の足の先が大きく外を向いている状態である。要するに時間前に対戦する両力士が徳俵の場所で蹲踞する時の足先の向きが外向きで、その角度が非常に大きい状態だ。

力士はそのままの外股でぶつかり合い、突っ張り合い、四つに組んだりしている。腰が安定しているから体の中心がぶれないでいられ、土俵際でもよく残している。

そこで蹲踞に近い姿勢をとるようにしてみた。椅子に座っていても、ちょっと前かがみになると尻の横から太ももの裏にかけて、鈍痛が走っていたのだが、10日くらい意識してやってみたら、大分痛みが軽減して来た。

もちろん温泉の電気風呂には毎日のように通っているのだが、4日前だったか、朝起きて前かがみになって靴下を履く時、何と全く痛みを感じなかったのだ。

今日はそうっと菜園の畝作りをしてみた。もう終わりかけの白菜の畝に残る枯れたり腐りかけていたのを掻き取るのだが、中腰になっても鈍痛は全く起きない。

そのあと草を処分しながら耕したのだが、さすがに普通の鍬では腰に負担がかかるだろうと思い、長さ30センチほどの手鍬で耕し、畝を作った。

この間、約30分、長さ3メートル、幅70センチほどの畝立ての間、もちろん中腰であったが、やはり痛みはほぼ終焉していた。

ありがたや、外股と電気風呂。坐骨神経痛はやはり腰から来るようで、腰に直接働く低周波は血行と筋の強張りを解きほぐす効果が高いと思う。そして外股は体幹のバランスを整えてくれたのだろう。

坐骨神経痛には温泉(銭湯)の電気風呂がお勧めだ。ただし5分以上の長湯は禁物。また心臓にペースメーカーを装着していると入れない、という制限がある。


古日向こそは投馬国(1)

2024-02-06 13:43:09 | 古日向の謎

  【古日向は投馬国である】

古日向とは奈良時代直前の大宝2(702)年に薩摩国が、また奈良時代最初期の和銅6(713)年に大隅国が分立して、南九州が日向国・薩摩国・大隅国の3か国になる前の、今日の宮崎県と鹿児島県を併せた広大な領域を言う。

この宮崎県と鹿児島県とを併せた古日向を、私は魏志倭人伝時代に九州にあった5万戸の大国「投馬国」(つまこく)に比定している。

投馬国を宮崎県西都市に「妻」という大字があることでここに比定する研究者が多いが、西都市域に5万戸を想定するのは無理で、せいぜい数千戸だろう。

(※西都市域も私見の投馬国の内あり、全くの誤謬というわけではない。)

投馬国(古日向)人は自分の国を「ソツマ」と称していたと思われる。「ソツマ」とは「ソ(曽・蘇)」「ツ(~の)」「マ(場所・地域・国)」と分解でき、「我々が住んでいるのは曽津間じゃ」と自称していた。

帯方郡に派遣されていた魏の官吏が九州にやって来て、南九州出自の海民に、「あんたの国は何と言うのだ」と尋ねた時、彼らは「曽津間(ソツマ)じゃ」要するに「曽の国である」と答えた。

帯方郡から来た魏の役人は「ツ」の強勢に押されて「ソ」が聴き取れなかった可能性が高く、よって「ツマ」と聴き取り、これに「投馬国」と当てた。私はそう考えている。

戸数五万戸というと、魏志倭人伝記載当時、一国でこのような多数の戸数を抱える国はない。

邪馬台国は「七万戸ほどだろう」と倭人伝は記載するが、これは「その余の傍国は遠絶にして詳しい情報はない」として挙げられた「斯馬国」以下「奴国」まで21か国を併せた戸数だろう。これを私は「邪馬台国連盟」と見なしている。

また邪馬台国連盟の最南端の国「奴国」の南には「狗奴国」があるとしており、宿敵の男王・卑弥弓呼(これは卑弓弥呼=ヒコミコの誤り)がいて、大官に狗古智卑狗(クコチヒク=菊池彦)がいるとしているが、この狗奴国については戸数の情報はない(魏とは通交がないためだろう)が、3万戸程度はあったと思っている。

 

  【投馬国・邪馬台国への行程】

帯方郡からの使い(役人)が、九州島に上陸したあと、「郡使の往来に際して、常に駐まる所」という唐津に比定される「末盧国」から東南陸行500里の所にある「伊都国」の位置が大問題である。

この国をほとんどの研究者は福岡県糸島市(旧前原町・志摩町)に比定するのだが、糸島市なら壱岐国から直接ここへ水行すればよく、どうして唐津で船を降り、少なからぬ携行品の数々を背負いながら海岸沿いの険しい道を歩く必要があるのだろうか。

そもそも東南へ歩くというのに、唐津から糸島市へは東北であることも否定される理由だ。さらに日本書紀の仲哀天皇紀や肥前国風土記逸文には、怡土郡(糸島市の旧郡名)は最初は「伊蘇(イソ)国」と呼ばれていたのだが、転訛によって「イト郡」になったが、それは誤りである――と書かれているのだ。

「糸島=伊都国」説は完全に比定されなければならない。糸島には「伊都国歴史資料館」があるが、糸島に住んでいた豪族「五十迹手(いそとて)」に因んで「五十国歴史資料館」とすべきだ。

(※五十(イソ)はまた崇神天皇と垂仁天皇の和風諡号にあり、それは崇神の九州時代における王権が、この糸島五十(イソ)の地から始まったことを示している。)

私は伊都国を「イツ国」と読み、唐津市から東南へ松浦川沿いの道をとり、上流部にある「厳木町」(きゆらぎ町)を「イツキ町」と読み替えて「伊都城(イツキ)」とする。まさにそこは「伊都(イツ)国」の王城があったと考えている。戸数は当時わずか1000戸になっていたが、かつては佐賀平野部を占める大国であった。

この伊都国からさらに東南へ100里(1日行程)の所に奴国があるが、この奴国は戸数が2万戸と巨大である。佐賀平野の西部に位置する多久市から小城市一帯にかけて、有明海の海の幸にも恵まれた気候温暖な平野部だろう。

この次の国「不弥国」はその東100里で、現在の佐賀市がまだ海中にあり、かなり陸奥に入った大和町あたりかと思われる。

 

  【距離表記と日数表記】

さて以上の不弥国までは帯方郡から○○里という「距離表記」によって記載されている。この不弥国までの距離は合計すると1万700里である。またもう一つの距離表記があり、それには「郡より女王国に至る、1万2千余里」とある。

そうすると不弥国から邪馬台国まではあと1300里ということになる。この時点で畿内説は全く成り立たないことが分かる。

当時もちろん地図はなかったが、当てはめてみると唐津から厳木町(伊都国)を通り、佐賀平野に下って多久・小城、そして大和町まで700里のさらにおよそ2倍ほどの1300里を行った先に邪馬台国があることになる。

私はそこを八女市とした。

ところがここで悩ましい問題が生じる。帯方郡から半島の西海岸を経由し、朝鮮海峡を渡り、唐津に上陸してから松浦川沿いに東南500里の厳木町、さらに東南の奴国を経て東の不弥国まで帯方郡からの距離表記は10700里。

この不弥国のあとは、次のように投馬国と邪馬台国が登場するのだが、これが日数表記なのだ。

<(東行至る不弥国、百里。官に曰く多模、副に曰く卑奴母離、二千余家有り。)南至る、投馬国、水行20日。官に曰く彌彌(ミミ)、副に曰く彌彌那利(ミミナリ)。五万余戸なるべし。南至る邪馬台国、女王の都する所。水行10日、陸行1月。(以下省略)>

不弥国にはタモ(玉?)という大官がおり、ヒナモリ(夷守?)という副官がいて、戸数は2千戸程度だという情報を書き記したあと、「南至る投馬国、水行20日」とくる。さらに投馬国の戸数は5万余戸ばかりだという情報を書いたあと、「南至る邪馬台国、女王の都する所、水行10日、陸行1月」とくる。

多くの研究者は不弥国から船出して南へ20日の所に投馬国があると考える。不弥国を多くの研究者は福岡県の宇美町とするのだが、そこからは南へ行けるような海はない。投馬国までの20日の水行を悪戦苦闘して、遠賀川を逆上らせたりする。それでも20日は多過ぎる。

また宇美町から東へ水行し、下関海峡を通過して大分・宮崎の海岸を「水行」させたりする。これだと一見南へ下るようだが、その前の玄界灘を東行する過程を全く考慮しないで無視する。

仮に宮崎方面に南下し、宮崎を投馬国に比定したとしても、邪馬台国はそこからさらに南へ水行10日し、上陸したら1か月歩いた場所であり、鹿児島の大隅半島か薩摩半島に上陸したあと、徒歩で1か月もかかる地域はない。

 

  【距離表記と日数表記は同値である】

ここで考慮しなければならないのは、段落というものを無視した漢文の書き方である。

上で引用した不弥国から投馬国、投馬国から邪馬台国の日数表記記事は連続しているけれども、どちらの「南至る」も共に帯方郡からの日数表記なのだ。

つまり帯方郡から邪馬台国までの距離表記「1万2千里」と「(帯方郡から)南至る水行10日、陸行1月」という日数表記は同値なのである。

「水行10日」とは「帯方郡から半島の西海岸経由で朝鮮海峡を渡り末盧国(唐津市)までの1万里」と同値であり、「陸行1月」とは「末盧国から伊都国・奴国・不弥国を経由して邪馬台国までの2千里」と同値なのである。

投馬国が後になったが、この日数表記も「帯方郡からの水行20日」であり、不弥国からの水行20日ではない。距離表記では書かれていないが、もし書くとすれば「帯方郡より投馬国まで2万里」となろう。まず「水行10日(距離表記では1万里)」は帯方郡から末盧国までの1万里。

末盧国からは、さらに南へ水行10日(距離表記では1万里)の九州南部域が広く該当する。

したがって戸数5万戸という大国は鹿児島県と宮崎県とを併せた古日向ということになる。

倭人伝の行程記事では距離表記と日数表記とが混在しているのだが、距離表記と日数表記が同じことを別の表現で表しているのだと気が付けば、九州説にとって臆説は存在しないことになろう。

 


50年の逃亡

2024-02-04 11:23:23 | 日本の時事風景

全国に指名手配となっていた桐島聡という容疑者が約50年ぶりに偽名を捨てて本名を名乗り、警察の事情聴取を受けつつ胃がんのため亡くなったという。

昨日の新聞などで、内田洋こと桐島聡は「本人の疑いがある」と警察から発表されたとあったが、「疑いがある」という表現にはちょっと違和感を覚えた。警察用語なのだろうか。普通なら「可能性が高い」と言うところだ。

それまで約40年間、神奈川県の某建設会社に住み込みで働いていたらしいが、その間、要所要所に指名手配の写真があるにもかかわらず、建設会社側も世間でも(よく行っていたという音楽バーでも)誰一人指名手配の本人だとは気付かなかったそうである。

まだ100パーセントの確定ではないのだろうが、出身の広島県には親族がおり、双方のDNA鑑定などなされたようだから、ほぼ本人として間違いないだろう。

聞くところによれば、親族側は偽名のまま死んでくれたらよかった思っているらしい。50年近くの間音信不通で「今さら何でまた」と思わざるを得ないのだろう。

もっと早くに自首していれば、どうだっただろうか。国家に対する反逆罪というような罪名で、それなりに厳しい判決は受けただろうが、10年程度の懲役で済んだような気がする・・・。

10年で出所していれば、まだ30歳程度で、人生のやり直しは幾らでも出来たろうにと思うのだが、これは憶測だが、仲間との兼ね合いがあったのだろうか。自分だけ捕えられたら仲間を裏切ることになる、仲間が芋づる式につかまっては元も子もない――そんな気持ちを持ち続けていたのだろうか。

純粋と言えば純粋である。

それにしても彼の属していた「東アジア反日武装戦線」という組織名を聞いた時、「武装戦線」は別にして、「東アジア反日」というところはあの統一協会の隠れた教義に近いと思った。

もちろん教祖の文鮮明はキリスト教に基づく教義を掲げているのだが、妻の韓鶴子は常々「日本は半島を侵略した戦犯国家なのだから」を口にし、日本信者からの多額の献金を正当化している。

こういう所から活動資金が出ている可能性は無かったのか――という疑念を生じたのだが、そうであれば桐島容疑者がいつまでも市井の中に隠れ住み続けていた理由が分からなくなる。

憶測で考えるのはこれくらいにしよう。

暗闇からひょっこり――というには余りにオープンだった桐島容疑者の逃亡50年。劇的な結末をだれかドラマにしたら、それなりにヒットするかもしれない。

 


初咲き三種

2024-02-01 14:23:05 | 日記

昨日の暖かさは春を思わせ、夕方の天気予報では鹿児島のどの地点でも3月下旬の気温だったという。奄美地方では25℃を超え、1月中としては初めての夏日を記録したそうだ。

大隅でも鹿屋では午前中は雨模様だったが、昼過ぎに青空が見える時間があって気温がぐんぐん上がり、22℃くらいまでいった。

南寄りの西風が吹き、外で庭いじりをしていると背中が熱いくらいで、日陰に折り畳み式の椅子を出して休んだほどだ。

夕方、冷たくない西風なら大丈夫だろうと近所で凧上げをしたが、よく上がり、久しぶりに気分爽快になった。

今朝は小雨模様だったが、庭を見て回ると、あるはあるは、春の訪れを告げる花が開花していた。

梅に、河津桜、そして乙女椿。

この花たちは例年同じ頃に咲き揃うのだが、ほぼ同日に咲いたのを見たのは初めてだ。

草の仲間では菜の花の一種のナバナはもうだいぶ前から咲いていて、花瓶に生けたりしているが、木に咲く花としてははサザンカ以来の開花となる。

今日の日中はこの時期としては結構な雨だが、適度な湿り気がつぼみが開くのを後押しするに違いない。

春告げ鳥の鶯の鳴き声も間もなく聴こえてくるだろう。待ち遠しい。