鴨着く島

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大東亜戦争とは(高松宮日記から⑤)

2019-09-23 22:35:59 | 日本の時事風景
終戦の月の末に高松宮は大東亜戦争の「意義」についてこう書いている。(※日々の日記とは別に、考察したことをまとめている。)

1、大東亜戦争によって得たるもの
(一)植民地民族の開放  第一段作戦による東亜民族の解放は、戦局により日本のこれら民族に対してとれる処置は圧迫に終わりし観あり。行政の不手際は反感を買いたるも、日本の精神は不正ならず。結果として一度解放せられし諸民族は、例えば比島(フィリピン)において米軍を救世主再来と考えたりと雖も、再び過去の比島にはなり得ず。東洋以外の諸植民地も米英等をして旧来の植民地として維持し得らざしめしは、ある程度の目的達成にほかならず。
(二)日本民族の世界的地歩の踏み出し(省略)
(三)戦局不利となれる諸原因(省略)
(四)上御一人の御稜威のみ唯一の国民の頼るべき処なるを知らしむ(省略)
2、今後の問題・・・28項目を挙げている。


1の(一)はそもそも大東亜戦争を戦った目的についてで、簡にして要を得ている。
欧米の植民地政策が人種差別に基づき、現地の人民を束縛(一種の奴隷化)へと導いているのを解放すべく「大東亜共栄圏構想」のもとに、それぞれの民族(国民)が自立を果たすことが目的だったのである。

さらに、高松宮が考察したように、日本軍および行政の進出が不徹底なうちに再度旧植民地宗主国の米によって侵略されたフィリピンのように、国民がアメリカの植民地支配を是とする場合でも、それまでの植民地支配(衆愚支配)とは違って来ているのはある程度日本の「大東亜共栄圏構想」の目的(意義)が生かされたということであるーーというもので、その考え方に自分は賛成する。

戦争に負けたほうがきれいごとを言っても仕方あるまいーーという意見もあるだろうが、自由党(吉田茂党首)と民主党(鳩山一郎党首)とが合同したいわゆる「保守合同」と同じ年(1955年)に開かれた「アジア・アフリカ会議」(インドネシアのバンドンで開催)では開催主体であるスカルノ・ナセル・周恩来・ネールといった、かって欧米の植民地になった経験があり、1940年代に完全独立を果たした主要国の首班がもろ手を挙げて日本への感謝を表明した事実を忘れてはなるまい。

高松宮日記には自身が所属した海軍省の後裔である「復員省」や「引揚者援護局」(各地の援護施設を慰問している)「日赤」などの記述や当然のことながら皇族同士の付き合いや「憲法」「昭和天皇の退位」などに割かれた記事が圧倒的に多いが、最後のほうでほんわかとした記事に出会い、当時の国民との共時性に驚かされる。それは昭和22年8月31日の日記である。

(昭和22年)8月31日(日)晴
朝、富士晴れて、赤い山肌の夏富士(※前日に御殿場を訪れていた)。
(略)
14時8分御殿場発、帰京。国府津で乗り換えたら席がなかったから、車掌が駅長に言われたとて探しに来て、後部の車掌室に行って腰掛けた。
夜、川田正子のお別れ放送30分。やっぱり物悲しい。別にどうなるというのでもない。子供が大人になる当たり前のことなのだが、あの川田正子がやはり放送なりあの姿なりから姿を見せなくなるということは胸に迫るものがある。
放送の編集もよかった。どんな気持ちで唱っているのかと思う心持で珍しい情のうつった放送を聞いた。
秋の淋しさがしみ渡ってきた。


御殿場へ行った理由はわからないが、御殿場から眺めた「赤富士」。そして御殿場駅から乗車してから乗り換えるときに満員だったのか席がなく、駅長から皇族の高松宮と知らされた車掌が車掌詰め所に案内して座らせたという、戦後間もなくの「皇族待遇」(冷遇ではなかろう)の事実が赤裸々である。

しかしそれよりも何よりも興味深いのが、童謡歌手の川田正子の引退に関する感慨である。

川田正子は戦時中から昭和22年の8月までいくつかの童謡で大ヒットを飛ばした少女歌手で、「みかんの花咲く丘」「とんがり帽子」などが有名である。

高松宮も戦時中から戦後の混乱期によく耳にしたのであろう、愛らしく澄んだ声の国民的少女歌手の引退(変声期を理由に歌わなくなったらしい)を大層残念がっているのがほほえましい。