8月4日のブログ「吾平山上陵の謎」では、鹿屋市吾平町にある吾平山上陵(正確にはアイラ・ヤマノウエノ・ミササギだが、通常アイラ・サンリョウと言っている)が「洞窟陵」なのになぜ「山上陵」と呼ぶのかーーについて書いてみた。
自分の結論としては、岩窟を御陵としたのは南九州(古日向=投馬国)を襲った天変地異のためであり、天変地異を「スサノヲの乱暴狼藉」に喩えると、あのアマテラス大神をして「岩戸隠れ」をさせた神話を想起させる。
つまり南九州ウガヤ王朝最後の王は天変地異のさなかに亡くなり、本来なら塚を築いて埋葬し祭祀されるところをそれがかなわず、天災の影響を受けない洞窟を御陵としたのではないかということである。
幕末の慶応3年に洞窟内に入って調査した国学者の後醍院真柱は、「この御陵は考えてみれば山上陵ではないが、後背の国見山系から連続する峰々の重なった内にあり、また地元の姶良(吾平)村の中心から見ればはるかに高い所にあるので、山上と言ったのに違いない」と『神代山陵志 吾平山上陵』に書いている。
後醍院真柱は吾平山上陵たる洞窟内で実際に塚と祭祀壇があり、その土中の5メートル×9メートルほどの広さにびっしりと石が敷き詰められているのを確認し「神代の御陵に違いない」と確信したそうだ。(※後醍院真柱の調査については『吾平町誌・上巻』を参照した。)
後醍院真柱の説も一理はあるが、日本書紀にある「山上陵」というネーミングは霧島市溝辺町にある「高屋山上陵」が、日本書紀に「高千穂山の西にある」という記述からまず山上陵と言われ、吾平のこの洞窟陵もそれに倣って吾平山上陵とされたのではないかと思われる。記紀撰修が行われた平城京から撰修者がわざわざ確認に来るには余りにも遠方であるので、そこは致し方なかったと考えるほかない。
さて岩窟は古来「岩戸」と呼ばれるのが一般であった。鹿屋市大姶良には「岩戸神社」があるが、この「岩戸」は岩戸神社の奥宮に相当する山中に屹立する数枚の巨岩群がそれである。
ただ、この奥宮たる「岩戸」は洞窟ではなく、巨岩と巨岩が斜面にそれぞれもたれかかっていて、その隙間は人間がやっと通り抜けられるくらいしかなく、「悪人は通れない」などと験を担がれたりしているので、それなりの信仰空間を醸し出している。
岩戸神社(里宮)の御祭神は「アメノヒワシノミコト」で、忌部氏の祖神であるから「天の岩戸隠れ神話」との関連はない。
「天の岩戸隠れ神話」と言えば、何と言ってもそのものずばりの宮崎県高千穂町に存在する「天岩戸神社」だろう。
高千穂町は若い時に一度行ったきり。さしたる研究意欲もなかった頃なので天岩戸神社よりは麓の高千穂神社で有名な神楽を見るくらいなことで通り過ぎたのであるが、今はインターネットの検索で神社自身のホームページを見ることができる。
それによると天岩戸神社には「西本宮」と「東本宮」とがあり、本来の「天の岩戸」を祭っているのは「西本宮」だそうである。本宮と言っても社殿があるのではなく、巨岩の中に穿たれた洞窟を拝する「遥拝所」である。
これが本来の天岩戸神社であり、御祭神はオオヒルメムチ。また東本宮は元は「氏神社」だったそうで、こちらはアマテラス大神を祭っている。もともとは別々の神社だったのだが、統合されて現在の「天岩戸神社」になったようだ。
ここ高千穂町では毎年の初冬になると「夜神楽」が長期間催され、その中で「岩戸明け」神楽も奉納される。生きている神話と言ってもよい風物詩である。
吾平町の吾平山上陵でも「天変地異による岩戸隠れから再びよみがえる」という神楽劇のような物があってもいいかもしれない・・・「天災大国日本」を元気づけるためにも。
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