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鴨着く島

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投馬国の王統を探る(2)

2025-03-27 05:06:45 | 邪馬台国関連
「投馬国の王統を探る(1)」では、まず魏志倭人伝上の半島の帯方郡からの行程から、邪馬台国(女王国)の所在地を九州島内とした。

その骨子は倭人伝が記す<帯方郡から邪馬台国までの距離は1万2千里である>という一文と、<南水行10日、陸行一月>とを同じもの(同値)とすることであった。

つまり投馬国のすぐ後に書かれている<南水行10日、陸行一月>は、距離で表記すれば帯方郡からの邪馬台国までは1万2千里である、ということなのである。

帯方郡から九州島の上陸地である末盧国(唐津)までは水行1万里で、これに要する日数が10日(ただし風待ちなどの日数は考慮せず、正味ということ)であり、先の<南水行10日、陸行一月>のうちの水行10日がこれに該当し、残りの<陸行一月>が唐津から東南方向へ一月陸行して邪馬台国に辿り着く日数ということである。

その陸行の距離は1万2千里から唐津までの1万里を差し引いた2千里となる。水行なら正味2日で到達する距離だが、陸行の2千里は所要日数が一月(30日)
であるのは、水行(水運)の速度と陸行(徒歩)の速度の違いであり、私は陸行(徒歩)一日当たりの距離表記は100里と見ている。

一月は30日であるから、2千里を30で割れば約70里となるが、陸行の場合、道程の中で休息することは可能であり、30日のうち10日は雨風や疲労による休息日(遅延)があったと見る。

とにかく私論の邪馬台国所在地は、末盧国(唐津)から厳木(きゆらぎ=いつき=伊都城)を経て多久、小城に下り、佐賀平野の山手側を経由し(途中で吉野ケ里を見る。ここは女王国連盟21か国のうちの「華奴蘇奴(かなさな)国」であろう)、筑後川を渡って南下した所の八女市である。

(※末盧国から東南へというのを東北に行った所にある糸島市を「伊都国」に比定するのは誤りで、糸島は書紀でも筑前風土記でも「伊蘇(いそ)国」であり、「伊覩(いと)国」とするのは転訛だとしている。邪馬台国の所在地を決定できない最大の誤りが「糸島=伊都国」説である。)

  投馬国の所在地

投馬国は倭人伝の記述では、末盧国から東南へ陸行500里した伊都(いつ)国(戸数千余戸)を経て、東南100里の多久市や小城市一帯を支配する奴国(戸数2万戸)に入り、さらに東に100里行った不彌国(戸数は不明、佐賀市の北から流れる嘉瀬川の扇状地一帯)まで700里の次に<南至る投馬国、水行20日>とある国だ。

この記述だが、それまで陸行○○里としていたのが急に「水行20日」となっている。

これも邪馬台国の位置が投馬国からの<南水行10日、陸行一月>ではないのと同じく、投馬国も不彌国からの<南水行20日>ではない。連続して考えたいのはやまやまだが、不彌国と投馬国、さらに投馬国と邪馬台国とは連続していない。

ともに帯方郡からの水行表記である。

邪馬台国が帯方郡から<南水行10日、陸行一月>だったのと同様に、投馬国も帯方郡から<水行20日>なのである。

そうすると邪馬台国は九州島に上陸したあとはおおむね東南方向へ陸行2000里であるから、九州島でも内陸に位置することが分かるが、投馬国は陸行する必要のない海岸地帯に国土が広がっていたことを示している。

そこはどこか? それは邪馬台国の水行10日と投馬国の水行20日を比べてみれば判明する。

帯方郡から九州島北岸の上陸地末盧国(唐津)までは正味10日の水行であったのだから、投馬国は唐津で上陸しないでさらに水行10日の所にあるということで、九州島のおそらく西海岸を水行10日南下したところに所在する国である。

そこは鹿児島県本土全域が相当する。また東海岸を水行10日すれば宮崎県域も該当する。

投馬国の国情に関する倭人伝の記述は、

<官を彌彌(みみ)といい、副官を彌彌那利(みみなり)という。5万戸なるべし>

とある。

5万戸というと相当な大国である。

魏書の倭人伝の直前に記されている『韓伝』によれば、三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の戸数は馬韓が50余国で10万余戸、辰韓と弁韓は両者併せて24か国で4~5万戸とあるが、投馬国は後者の戸数に匹敵するのだ。

したがって私は鹿児島県域のみならず、宮崎県域をも含めた国、令制国以前の日向国全体(古日向)がこれに相当すると考えている。令制国成立以後、古日向は薩摩国・大隅国・日向国に3分されるが、それ以前の古日向こそが倭人伝上の投馬国に該当すると考えている。



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