鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

文化庁の京都への移転

2023-03-28 21:12:07 | 日本の時事風景
慶祝!文化庁の京都移転――と言いたい。

約50年前に創設された文化庁が京都府や市の要望を受け容れ、ついに霞が関から京都市に移転したという。

かねてから首都分散がうたわれていたが、職員500人規模の小さめの国家機関とはいえ、完全に軸足を東京から地方へ移すのは初めてだ。

小さな拠点的な移転では、すでに総務省の統計局の一部の和歌山市への移転と消費者庁の研究部門の徳島県への移転があるが、省庁単位の丸ごとの移転は今回が初めてとなる。

文化庁の京都への移転は理に適っている。

文化財に関することや世界遺産に関することは極めて文化的要素が強く、何も東京に機関を構える必要はない。予算の構築に当たっては政府や政治家の動きは必要だが、今はリモートワークが一般化しつつあり、不自由さはほとんど感じられないはずだ。

いずれにしても東京一極集中へ一石を投じたわけで、あとに続く省庁の移転を期待したいものだ。

中でも宮内庁の京都への移転を特に期待したい。

宮内庁の移転ということは皇居の京都への移転、つまり「還都(かんと)」を意味する。天皇の御在所が千代田城から京都御所に還るのが前提の移転である。

そもそも明治天皇が明治2年(1869)江戸に行幸し、千代田城に入ったのは前年の4月に江戸城が新政府に明け渡され、260余年の長きにわたって続いた徳川幕藩体制が終わったことへの止めを刺すためであった。

京都市民はその役割を知ってか知らずか、「天皇はんはちょっとの間江戸に居られるだけで、じきに戻ってきはる」と高をくくっていたようだが、何と何と、明治天皇はそのまま東京に残ってしまったのだ。

それから150年余り、京都市民はずっと待ち望んでいたはずである。明治天皇自身もしばしば京都の暮らしを懐かしんでおられたようである。

だが明治22年の「大日本帝国憲法」公布と翌23年の「帝国議会」開設により、日本は西欧列強に伍すべく帝国主義を標榜し、天皇は神聖にして侵すべからざる存在であり、帝国陸海軍の元帥となってしまった。

これには天皇も実に驚いたことだろう。伝統的な天皇の役割から逸脱したのだから。

国家の安泰と国民の繁栄を願い、数々の祈念行事を担うのが天皇本来の在り方なのに、軍隊の総指揮官になってしまっては違和感甚だしいわけである。

大正天皇は蒲柳の質だったこともあり、その点はもっとも嫌悪された方であった。

昭和天皇は良くも悪しくも大正から昭和の初めの国際情勢に翻弄され、ついに大戦を構えることになり、米国に敗れる結果となった。

昭和天皇が連合国総司令官マッカーサーに対し、敗戦国の国家元首なら命乞いをするはずなのに「自分はどうなろうとも国民を救ってくれ」と申し出たことに当のマッカーサーがいたく感心したというエピソードがあるが、天皇はそれくらい「国民ファースト」だったのである。

昭和天皇に見られたこのようなお気持ちこそが伝統的な天皇の存在感に他ならない。ならばやはり天皇の御在所は平安の都・京都がふさわしい。

このところ急増している外国人観光客も京都こそが天皇の居場所だと感じているのではないか。

以上は特に私が願う移転だが、その他とにかく首都分散の観点から省庁の日本各地への移転を進めてもらいたいものだ。

※インドネシアは首都ジャカルタ圏一極集中による弊害が大きくなったため、カリマンタン島(ボルネオ)の東部に移転する計画がある。既に一部の移転が始まったようだが、将来的には経済の中心はジャカルタ、政治の中心は新首都となるらしい。日本も見習うべきだろう。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿