鴨着く島

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「二つの戦争」田原総一朗の原点

2022-06-03 08:52:30 | 日本の時事風景
田原総一朗はジャーナリストというよりテレビのキャスターという印象が強い。

独特の鋭い切り口でやや早口でしゃべる人だが、舌鋒の鋭さに似ない愛嬌(!?)のある表情が得をしているのか、「朝まで生テレビ!」
という深夜番組のキャスターを勤めて今年で35年になるという。

この手の内容では超長寿の部類に属しているというか、分野を問わず、長さの点だけでも、おそらく定期番組ではあの「笑点」に次ぐ長さだ。

驚くべきはそれだけではない。番組の長寿もだが、この人は昭和9(1934)年生まれだから今年で88歳であり、現役のキャスターではもちろん最年長である。しかも断トツの!

この分で行くと90歳までは続行できるのではないか。作家の佐藤愛子が90歳になった時に『90歳、何が目出度い!』というエッセーを発表して大きな話題になったが、その年までやったとしたら話題性では佐藤愛子を凌駕すること請け合いである。

何しろ男性は女性より平均寿命が、7つばかり下回っているのだ。つまり男の90歳は女の97歳に相当するわけで、長生きの女でも、その歳で定時番組をこなせる者はいないだろう。

現役の女性画家とかピアニストとか佐藤愛子のような女流作家はいるにはいるが、放送番組にゲストとして呼ばれて出演することはあっても、番組の運営側に回るようなことはない。

したがって、番組の内容や田原総一朗の政治的な主張は別にして、男の一人としてただ単に「現役で頑張れ!」と応援したくなる。

その田原総一朗がジャーナリストになった要因は、「二つの戦争」にあったという。

一つは日本人ならだれ一人外せない「太平洋戦争」であり、もう一つは「朝鮮戦争」である。

太平洋戦争については体験者であれば誰しもきわめて大きな影響を受けたのは了解できるが、朝鮮戦争を挙げたのは意外だった。

まず、意外だと思った朝鮮戦争の方から取り上げよう。

といって田原総一朗が朝鮮戦争の原因と結果について論評を下しているわけではない。朝鮮戦争(1950年勃発、1953年に休戦協定。当時は朝鮮動乱と呼ばれた)の最中に高校生だった田原が教師に「戦争は反対だ」と言ったら、教師から「お前はアカになったのか」と言われたのにカチンと来たのだそうだ。

当時の朝鮮では北からの共産軍勢力が強く、一時は半島南部まで制圧されかかったのを、米軍の上陸反攻により現在の休戦ラインまで押し返し、1953年7月に休戦協定が結ばれて今の姿があるのだが、高校教師としては米軍が後押ししたがゆえに朝鮮半島の全面的な共産化(アカ化)が防げたので田原にそう言ったのだろうが、余りにも踏み込んだ発言だったには違いない。

田原としては「アカでもクロでもシロでもなく、ただ単に戦争はダメだ」と青年らしい潔癖感で言ったのだろう。頭ごなしに決めつける言い方をされるのを最も嫌い、反発する年頃であったのだ。

この反発、反抗心が後年の田原総一朗を生み育てたとも言えなくもない。当時の教師はもう鬼籍に入っているだろうが、以て瞑すべしか。

さて初めの戦争すなわち太平洋戦争だが、この戦争の評価はいわゆる東京裁判(極東軍事法廷)という「勝者の勝者による勝者のための裁判」という公正を欠いた欠陥裁判によってA級戦犯7名が軍国主義者に仕立て上げられ絞首刑を受けたわけで、戦前の日本はことごとく「軍国主義に染まり、馬鹿げた戦争への道をひた走った悪の枢軸国」であったかのように仕組まれてしまった。

この意識は戦後の日本を取り仕切った連合国占領軍、中でも米軍の思惑通りに日本人の頭に植え付けられた。

田原総一朗は太平洋戦争の頃に10歳前後の多感な少年時代を迎えており、「日本の戦争はアジアを欧米の植民地から解放する戦いだ」という戦争観に共鳴し、軍人を志したのだが、敗戦になると一転して学校では「太平洋戦争は悪い戦争だった」と教えるようになったことに手のひら返しの屈辱を感じたようだ。これが「大人は信用ならない。事実を事実として自分の目で見よう」と、田原をしてジャーナリズムを志させる原点だった。

その反骨精神を88歳になる今の今でも心の中に持ち行動している人はそう多くあるまい。

今度のロシアによるウクライナ侵攻は、田原自身のまごうことなき目にどう映っているのだろうか。もちろん戦争には反対を表明するだろうが、終戦への道の落としどころをどう見るか、「堂々と老いて来た」ジャーナリストの心眼を待ち望む。

(※このブログは南日本新聞の令和4年6月1日付文化欄「ハーベストタイム=ジャーナリスト田原総一朗さん」を参照した。)