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鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

防災の日2023.9.01

2023-09-01 18:41:26 | 日本の時事風景

今日9月1日は「防災の日」で、1923年9月1日に関東大震災が発生した日だ。今日はその100周年に当たる日である。

地震の規模はマグニチュード7.9だそうで、あの東北大震災の9.0に比べればエネルギーは100分の1だが、発生した場所が悪かった。神奈川県西部の小田原の近海だったのだ。

そのため東京はもちろんだが、横浜も大いに揺れ大きな被害を蒙っている。

しかし東京の地震による被害は巨大なもので、東京だけで10万人以上が死んでいる。

正確には行方不明者を入れて10万5千人だそうだが、そのうち9万2千人が火災によるという。

要するに火災さえ発生しなければ、或いは小規模で消し止められていれば、これほどの惨状にはならなかったのだ。

火災の主な原因はもちろん失火だが、発生した時間帯が悪かった。午前11時58分だったからちょうど昼食のために多くの家庭で火を使っていたのであった。

当時の炊事で火を起こすのに使ったのが、竃(かまど)であった。かまどは薪をくべ、火吹き竹で火を起こし、かまどの上に載せられた鍋ややかんを沸騰させるものだ。

多くの学校(尋常小学校以下、高等小学校や旧制中学など)では新学期の初めの日とあって始業式があり、生徒は午前中に帰宅していた。

もうすぐお昼という時間に突如起きたのが大地震だ。

母や祖母が作っていた昼食を食べるどころか、台所から火の手が上がったのだからたまらない。みな逃げるのにてんやわんやになった。

そうこうしているうちに火の手はどんどん広がり、みな逃げるのに精一杯だったそうだ。

私の母が当時住んでいたのは台東区の浅草に近い店舗だったのだが、這う這うの体で逃げ延び、幸いにも祖父祖母はじめ一家は無事であった。

焼け出されたのち、しばらくは店員の田舎である東京の郊外に身を寄せ、やがて祖父祖母の出身地である三重県の津市に一年ほど帰っていたという。

その後東京の復興の目途が付いたのち、今度は北区十条にふとん店を構えることになった。今日に続く「十条銀座」の一角である。

母と兄姉妹の5人兄弟が成人したのは、その十条銀座であった。

男は一人で、母と姉の間に生まれているが、戦時中に召集され、軍属としてインドネシアへの補給船に乗り組んだのだが、帰って来たら結核となっていて、そのまま約10年後に亡くなった。

長野県から嫁いできた伯母さんは戦後の復興期の繁忙期に、大変忙しい思いをしたようだ。母の実家であるから子供心に気安く、一番くつろげる場所だった。

夫婦とも教員であった我が家が、夏のボーナスをもらい、夏休みが始まるころになると必ず母の実家に行ったが、「銀座通り」を夜遅くまでからころと下駄の音が響いてさんざめいている商業地の独特の雰囲気の記憶はいまだに新鮮である。

とにかく日本は名うての天災大国である。地震はもとより火山噴火、台風・大雨による洪水や土石流などなど、毎年どこかで災害の起こらない年はない。

これに「戦災」が加わっては話にもならない。戦争は絶対に避けるべきだ、アメリカが何と言っても。

(閑話休題)

関東大震災の写真やフィルムがテレビでよく流されるが、あの惨状は戦時中に東京や他の大都市が焼け野が原になった様とそっくりである。

それもそのはず、太平洋戦争中のアメリカが日本本土への無差別攻撃の参考にしたのが、関東大震災による東京の惨状であった。

「紙と木でできた木造家屋が蝟集している町」はいったん火事が起これば、関東大震災の東京のようになることを知った米軍は、B29の爆弾攻撃の前にあらかじめ攻撃対象地区の周りに油をまき、そこへ爆弾(焼夷弾)を落とす作戦をとった。

作戦は上首尾に終わり、1945年3月19日の東京大空襲では約10万人が死んでいる。あの当時の米軍にとって日本人は虫けら同然の扱いだったのだ。戦争中とはいえ戦時国際法に違反する残酷な仕打ちであった。

(少しタイプは違うが、ベトナム戦争中に米軍はベトナムのジャングル地帯に「枯葉剤」という除草剤を撒いているが、発想は同じだ。)

 

 


107年ぶりの優勝

2023-08-24 15:53:27 | 日本の時事風景

夏の甲子園の決勝で神奈川県代表の慶應義塾高校が、宮城県代表で大会2連覇を狙っていた仙台育英高校を破った。

初優勝と思いきや、1916年(大正5年)に全国中等学校大会で優勝していたので、何と107年ぶりに2回目の優勝を飾ったことになるという。

驚きを通り越して「へえ!」だ。

準決勝で鹿児島県代表の神村学園を6対2で下した仙台育英の2連覇が最も考えられていたのだが、そうではなかった。

神奈川県代表では常連が強豪の東海大相模と横浜高校だが、その2校を破って県代表を掴み取ったわけだから、並々ならぬ実力を持っていたのだろう。

それにしても私を含め下馬評に上がってはいなかった高校だ。

仙台育英高校には150キロ近くの速球を投げるプロ注目の投手が2人おり、誰が見ても慶応高校の劣勢は明らかだった。

それがそれが、5回には一挙に5点をもぎ取るという慶応高校の一方的な展開になった。終わってみると8対2の大差だ。

優勝インタビューで森林監督のモットーである「エンジョイ ベースボール」が繰り返されたが、この「自分の競技を楽しむ」という考えは、最近のアスリートの口からよく言われるフレーズでもあり、さして珍しくはないが、次の言葉は考えさせられる。

<野球の新しい姿と多様性へのきっかけになったと思う。>

この発言の意味するところは一言でいえば「自由な髪形」のことである。

およそ集団競技の中でほとんどの競技者が「坊主頭」なのが高校野球である。サッカーにしてもラグビーにしても、ランニング競技にしてもほとんどの場合、髪型は自由である。

校則で男子の髪形を坊主頭にしている高校は今はまず存在しないが、かつてスポーツの盛んな高校ではそれが普通だった。

しかし高校生でも国際大会に出場する機会が増えるにつれて、各国の男子ジュニアの姿を見て次第に「坊主頭でなくても・・・」という感慨を抱いた生徒が多くなったに違いない。

それでもこと甲子園野球に関する限り、坊主頭への規制が揺らぐことはなかった。

しかしやはり時代の要請だろう、「坊主頭になるので野球部に入るのをやめた」という生徒が増えて来たのだ。

何も坊主頭でないからと言って野球に差し支えがあるわけではない、自由にしよう、しかもそれを自己管理、つまり自主性に任せよう――こういった高校が増加しているという。

その典型というべきが、今度の優勝校慶応高校だったのだ。

たしかに時代の潮流ではある。自由な髪形のサッカー人気に取られて行くのを残念に思う人々には共感を得るに違いないが、何事にもほどほどというものがある。

坊主頭の方がいい、という生徒がいたずらに肩身の狭い思いがしないよう配慮をして行かなくてはなるまい。また茶髪は許されるのかなどという議論も湧き上がるかもしれない。

それはともかく、「陸の王者慶応!」というスタンドの大声援は誰をも鼓舞した。テレビのこっち側にもある種の懐かしさを以て。

 


終戦記念日2023.8.15

2023-08-17 09:19:07 | 日本の時事風景

今年も終戦記念日がやって来た。

武道館では各県遺族代表が参加して行われるはずだったが、台風7号が紀伊半島に接近し上陸しそうだということで進路に当たる10府県の代表者が来られなかったという。

台風7号は現実に当日の午前5時頃に、紀伊半島和歌山県の潮岬あたりに上陸し、そのままほぼ一直線で和歌山市付近を通過し、淡路島の北端をかすめて兵庫県に再上陸し、県内を北北西に進み日本海に抜けた。

先の6号台風は沖縄付近でくるりとUターンして東行し、奄美を抜けてまた北西に大きく向きを変えたが、あれもこれまでにない不可解な動きだったが、7号台風は対照的に太平洋側から列島のど真ん中を南から北へまっ直ぐ貫くという、こちらはこちらで唖然とするような直球路線だった。

終戦記念日の戦没者追悼式典は正午に開催されたから、台風7号は紀伊半島に上陸してそのまま北北西に進み和歌山市に差し掛かるころだったわけだ。

ほとんどの台風はこの時期には沖縄から奄美群島を通り、南九州から北部九州への進路を取るのだが、7号台風は異例中の異例な進み方をした。ために大阪や名古屋の国際空港や新幹線を利用しようとしていた旅行客や帰省客が足止めを食らい予定が大きく狂ったようだ。

譲位後の新天皇ご夫妻が全国戦没者の追悼碑の前で「お言葉」を読み上げるのはこれで5回目だが、もうお馴染みの光景となった。

今年は残念ながら10の府県からの参加者が台風7号のために来られなくなったうえ、戦没者の父母に当たる人たちの参列が無かったそうだ。時の流れというのだろう。致し方ないことである。

亡くなった310万という多くの御霊にロシアによるウクライナ戦争がどう映っているだろうか。

「大義亡き戦争は止めよ」と言うだろうか。おそらくそうだろうと思う。

今時ロシアのプーチンの言う「東部4州に住むロシア人迫害阻止」つまり「居留民保護」という大義は通用しないはずだ。彼らは自由意志によってそこに住んでいるはずで、強制的に住まわせられているのではないからだ。

先の大戦における日本の「大義」は何といっても「ヨーロッパ列強からのアジアの解放」であった。もちろん拙速だったり、功名合戦だったりしたきらいはあるが、日本軍民の「天皇の軍隊(皇軍)」としての規律と誇りは全軍に貫かれていた。

南京でシンガポールで日本軍は「悪辣の限りを尽くした」などと言われているが、日本軍の「天皇の軍隊としての規律」はしっかり保たれていたのだ。

それに比べると終戦後に満州に侵入して来た旧ソ連兵の悪逆非道は話にならない。婦女暴行は勝者当然の権利だったそうだからたまったものではない。

今度の戦争ではウクライナの婦女子に対しての暴行はワグネルという民間軍事会社の社員が行ったのだからロシア政府は関係ない、と、しらを切るつもりなのだろうか。

アメリカもベトナム戦争ではそれに近い非道を行った。アメリカはベトナム戦争の勝利者ではないのだから、本来なら、べとちゃドクちゃんの件を含めてきちんと戦時損害賠償をしなければならなかった。

どっちもどっちだが、戦争は2度と起こしてはならない。

日米安保があることによって米国の対中敵視政策に加担し、かりそめにも日本がアメリカの対中戦争の「盾」になってはならない。

 

 

 


長崎平和祈念式典2023

2023-08-13 10:13:12 | 日本の時事風景

9日の長崎平和祈念式典について書こうとしたら、9日の午後から我が家のWi-Fiが使えなくなっていた。どうやら前日から始まった台風6号の強風のなせる業だったようだ。

翌10日の夜中の1時頃だったと思うが、さらに強まった風のためどこかの電線が不具合を起こしたらしい。停電さえ起きてしまった。これは約7時間くらいで復旧したが、早速パソコンを開いても「接続が確認されません」の表示。

我が家のある地域は1年前からようやく光通信の配下に入り、あまり実感はないが「高速通信」の恩恵に預かるようになっていた。

それよりとにかくインターネットにつながなければブログは書けない。そこで契約している@ニフティに連絡したところ、たしかに回線の不具合で接続が阻害されており、結構広い範囲で接続障害があり、回復には3週間ほどかかる――という。

ー冗談じゃない、自分なりにブログの更新を3日以内としているのだ、それが3週間とは!―

と心中穏やかならず、それじゃあと鹿屋市内で公共のWi-Fiが使えるところを探したら、鹿屋市の市民交流センター「リナシティ」の情報室に行き着いた。そこでいまこれを書いている。

さてテーマの長崎平和祈念式典(正確には長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典)だが、被爆78周年の今回の式典は、我が家に軽微な被害をもたらした今度の台風6号の進路に当たるため、60年ぶりに屋内での式典になったという。

会場の「出島メッセ長崎」に集った被爆者・遺族等の関係者はわずか40名余りだったそうで、岸田首相はじめ各国の参列者は皆無という寂しさであった。

敵国人であり異教徒でもある日本人を原爆の犠牲に供したのはアメリカ人の「人種的優越心」が後押ししたことは間違いないが、彼らにとって誤算だったのは、浦上天主堂に集い朝のミサに参列していたキリスト教徒の日本人までも、天主堂と共に抹殺したことだった。

アメリカはしまったとばかり、長崎市に浦上天主堂の再建を申し出たのだが、長崎市はこれを断っている。

そのため浦上はそして長崎は、アメリカにとって鬼門と化した。自分の知り得る限り、駐日大使で長崎を公式に訪問したのは、民主党オバマ政権下のあのケネディ家の娘キャサリン・ケネディしかいない。

チェコのプラハで核廃絶を訴えてノーベル平和賞を授賞したオバマ大統領の下だったから、ケネディ女史も「勇を鼓して」長崎を訪れることができたのだろう(ただし当のオバマ大統領は広島は訪れたが長崎には行っていない)。

原爆投下についてアメリカでは終戦直後では80パーセントを超える支持者がいたのだが、今日はほぼ50パーセントまで低下している。低下したのはやはり核廃絶を訴えたオバマ大統領の影響と、戦争を知らない世代が大半を占めるようになったことが大きい。

それにしても今回、各国の大使の参列取りやめでホッと胸をなでおろしているのはアメリカ大使館ではないか。浦上天主堂の惨劇は彼らの心に重くのしかかっているはずだ。各国大使、とくにキリスト教を信奉している国の大使には見てもらいたくない戦争遺跡なのだ。

今朝の関口宏サンデーモーニングでは、米軍が原爆を投下するための試験として原爆に似せた「パンプキン爆弾」を数か所で実際に日本人の頭上に投下していた――という情報が流されていた。

実際に愛媛県の宇和島市に落とされたパンプキン爆弾によって17名の死者が出たという。皇居の近くにも落とされたというから無差別も極まりない。

また、終戦の日の2,3日後にも三つ目の原爆を落とす予定だったらしいことも分かっている。

広島のウラン型原爆でその日のうちに約15万、長崎のプルトニウム型原爆で約10万が死亡、今日までに双方併せて50万が犠牲になっている、たった2発で。

「長崎を最後の被爆地に!」という声を絶やしてはならない。

 


広島平和祈念式典2023

2023-08-06 18:46:36 | 日本の時事風景

広島への原爆投下から78周年の今年は、5月に広島出身の岸田総理のホストの下でG7が開催され、G7各国首脳とウクライナのゼレンスキ―大統領が原爆資料館を訪れたことで話題になった。

ここで岸田総理が自分が音頭を取って核廃絶に向けての工程表でも発表すれば、被爆地広島出身の政治家としての面目が立とうものを、相変わらず「アメリカの核の傘(抑止力)」を認め、それに依拠する姿勢を変えないものだから、世評はすこぶる悪い。

国際的にもこの日本の立場は理解不能に近く、極端な見方では「核の傘は日米同盟を前提にしているのだが、日米同盟をやめたら今度は日本が核兵器を開発し、広島・長崎の仇を取るに違いないから、アメリカが日本に核兵器を持たせないようにしているのだ」というような国際感覚もあるくらいだ。

日本が仇討ちなんてすることは金輪際あり得ないし、仮に日米同盟が廃棄されても日本が核兵器を持つことは国民感情が許さない(国際的にも否定される)。

松井広島市長に続いて壇上に立った湯崎広島県知事は、日本が核廃絶に向けて積極的に取り組むことが何としても肝心なことであり、被爆死亡者への慰霊の最たるものということを明確に述べていた。

原爆投下について一般アメリカ人の認識の大きな部分は「原爆投下によって終戦を早め、無用な戦闘による戦死者を皆無にした良策だった」というものだが、米兵の間では例の「リメンバー・パールハーバー」の掛け声の下、一種の「仕返し」感が支配していた。

パールハーバーの仕返しはその後の戦闘で十分に満足させられている。ガダルカナル以降の兵隊同士の戦闘による戦死者は国際法上合法で、その線での日本軍への「仕返し」は済んでいたはずだ。

ところがその後の沖縄本島上陸の際の沖縄住民に対する攻撃から始まる日本本土の一般市民に対する「無差別爆殺」は戦時国際法では許されないものであった。まして広島・長崎への原爆投下においておや。

ここまでひどい一般市民への爆弾投下は、「仕返し」を通り越してアメリカ側の有色人種への差別感情抜きには考えられない。

人種のるつぼと言われるアメリカだが、各人種の「主権」が守られるようになったのは、ベトナム戦争終結の1975年以降のたかだか50年に過ぎない。

「たかだか50年に過ぎない」からと言ってそれ以前の人種差別への「仕返し」は許されるかというと、そういうことにはならない。ベトナム人がそうだし、日本人もそんな怨念はとっくになくなっている。

今のところ対抗手段の核兵器を持ってアメリカを叩いてやろうと考えているのは北朝鮮の親分以外にない。