仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(自殺的傾向_その6)

2007年12月23日 | 文化
(上掲写真は飯盛山ふもとの土産物屋に置かれていた自動販売機)
 ただし、「朝敵」「賊軍」とされたことに対する会津の人々の怨念は、現在でも生き続けているらしい。飯盛山にある[白虎隊記念館]の展示では、新政府側は「官軍」ではなく「西軍」と称されている。鶴ヶ城の博物館にも「官軍」という言葉はなかった。この表現を使った時点で、それを敵として戦った会津は「賊軍」になってしまうからだろう。
 しかしながら、これほど怨念が根深いものであるにもかかわらず、その向かう先はせいぜい新政府の中核となった薩長藩閥=「官」であり、それに権威を与えた「天朝」の責任が問われることはない。「会津は賊軍ではない」「朝敵の汚名を雪ぐ」と頻りに主張することは、「敵になりたくてなったんじゃない」というぼやきであり、結局 最初から恭順の姿勢を示している。
 滅私奉公型の価値観を基本原則とした白虎隊を象徴・核とするということは、この国において、その基本原則の源泉として位置付けられた天皇制の構造に取り込まれ、入れ子の中に収まってしまうことを意味する。自らが従っていた基本原則・道徳律を解体し再構築するという痛みを伴う作業を行なわない限り、これを乗り越えることはできない。言い換えると、白虎隊を疑えない人々には、朝敵たることを自ら積極的に選択し、会津の人々に塗炭の苦しみを味わわせたものを、根本から問い直し覆す意志が生まれるはずがないのである。
 だからこそ、イタリアやドイツの人々はネイションの敵に記念碑を贈るのだという認識を持たなかったのだろう。天皇制という支配システムの巧妙さ・周到さを思わずにはいられない。

やすいはなし(自殺的傾向_その5)

2007年12月23日 | 文化
 この説明版に書かれているように、「前の記事」で写真を載せた石碑は、ナチス政権下のドイツ外交官から贈られたもの。石柱はファシストイタリアのものだから、まさに日独伊三国同盟(もっとも、フォン・エッツドルフ氏がナチス党員だったかは不明)。
 このような符合に意味を見出すことは、さほど無理なこじつけでもないだろう。白虎隊のありようとファシズムとは通底・共通するものがあるのだ。藩のために命懸けで戦い、藩の滅亡とともに自身も死ぬという滅私奉公性、共同体と為政者への強い忠誠心は、国家・民族を絶対化するファシズムにとっても美徳とすべき心性である。
 ややこしいのは、ファシズムが、「超国家主義」と表現されることもあるようにナショナリズムの過度に高潮した姿であるのに対し、白虎隊も会津藩本体も、確立されつつあったネイションの中枢即ち新政府に敵対し、実際に干戈を交えたという事実だ。したがって両記念碑の存在は、ネイションに至上の価値をおく人々、あるいはネイションの高官による、ネイションの敵への讃美を示していることになる。
 このような転倒が起きた理由は何か。白虎隊がネイションを超えた価値を体現しているから、ではなく、ネイションへと統合されるべきもの、あるいは既に統合されたものと見倣されたからだろう。事実、白虎隊は明治期に文部省唱歌の題材となるなど、既に国家による「名誉回復」とそれと並行した「活用」が図られていたといえそうだ。
(続く)

やすいはなし(自殺的傾向_その3)

2007年12月23日 | 文化
 要するに、第二次世界大戦前にファシスト政権時代のイタリアから寄贈されたもの。「第2次世界大戦後 占領軍の命により」銘文の一部が削り取られたという。文字を削って思想統制を図るとは、墨塗り教科書に通じる粗雑さだが、占領軍はこのモニュメントをファシズム・軍国主義の残滓として問題視したのだろう。
(続く)

やすいはなし(自殺的傾向_その1)

2007年12月23日 | 文化
 福島県の会津若松に行ってきました。旅程などは省略しますが、途中で喜多方に寄って[食堂なまえ]の「極太手打ちチャーシューメン」と[坂内食堂]の「肉そば」をハシゴし、とてもおいしかったことだけは書いておこう。
 会津若松駅から周遊バスに乗り、白虎隊士が自刃をした飯森山へ。戊辰戦争で旧幕府側に立った会津藩の悲劇を象徴する出来事といわれているんだけれど、以前からどうにも間の抜けた話だと思えてならない。総勢20名(うち1名は生存)が揃って腹を切った理由が、市中から火が上がるさまを本城(鶴ヶ城)が陥落したと勘違いしたため、というのだからアホらしいではないか。正確な状況を確認もせずに悲憤慷慨の末に自滅する姿は、あまり手本にしたいものではない。若者たちが死を選んだ痛ましさを精神的な崇高さとして受け取ることは、感情に流されたことによる判断の短絡だと思う。
 飯盛山のふもとの入口からは長い階段になっている。有料の「動く坂道」を横目に登りきると、ちょっとした広場に出る。広場の左側には木々に囲まれた隊士の墓やその他の戦死者慰霊碑があり、逆に右側は、現在でも使われている普通の墓園へ降りる階段に続く。隊士が炎上している(と誤認した)城を望み自刃した場所はその墓地のなかにあり、上掲写真の碑と像が置かれている。この場所からは現在でも鶴ヶ城を遙かに見とおすことができた。
(続く)