昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―⑩

2017年01月30日 | 日記

翌朝から、僕はとっちゃんに積極的に語り掛け始めた。桑原君はそ知らぬ顔を決め込んでいたが、おっちゃん、カズさん、大沢さんは、うれしそうに二人の会話に時々加わってくれた。

「とっちゃん。いつも何時頃起きてんの?」

「早いで~~」

「朝刊終わってから、何してんの?」

「いろいろやな~~」

「家のこと手伝ってんの?」

「それは、おばはんがやることやがな」

僕が掛ける言葉はほとんどが暖簾に腕押し。とっちゃんの反応は取りつく島もないものがほとんどだった。が、そんな状況を見かねると、

「とっちゃん!ちゃんと答えてあげんかいな」

おっちゃんは苦笑いを浮かべながら口を挟んでくれ、

「しょうもない子やなあ。何か答えてあげんかいな」

カズさんは呆れ顔で笑い、

「すまんなあ、栗崎君。諦めんと話したってな」

と、僕を励ましてくれた。

そんな周囲の変化や気遣いを感じ取ったのか、とっちゃんはやがて、僕にこんなことを言うようになった。

「グリグリ~~。勉強してんのかいな?勉強せんとあかんで~~」

「仕事にだいぶ慣れてきたみたいやの~~、グリグリも」

そして必ず、タバコの煙を一吹きするのだった。

 

そんな日が10日以上続いた朝、とっちゃんがキスチョコをポケットに帰って行った直後、桑原君が真顔で近づいてきて、いきなり、こんなことを口にした。

「とっちゃんのことやけど‥‥。そろそろ、いろんなこと教えたらんとなあ。あれじゃあ、人間として恥ずかしいで。なあ、そう思わへんか?」

桑原君がいつも適度に取っていたとっちゃんとの心理的な距離が、僕との会話を近くで耳にすることによって縮まったらしく、桑原君のとっちゃんに対する意識は、より批判的でかつ鮮明なものに変わっていた。僕は桑原君の変化の激しさに戸惑った。

「教えてやる、いう態度はあかん、て話になってたん違う?とっちゃんが何か聞いてきた時には教える、いうことでええやろう」

「いや。とっちゃんが聞いてくるとは思えへんなあ。教えた方がええて」

桑原君の口調がいやに押し付けがましい。

「教えるて。誰が?‥‥何を?」

「社会の仕組みとか労働することの意義とかやねえ。そうや。雇用関係の何たるか、とかについてもやねえ‥‥」

桑原君の声が大きくなっていく。

おっちゃんは、ふっと奥に消えてしまい、カズさんはバイクの音高く勧誘活動へと向かう。

販売所の中を、一瞬沈黙が支配する。

「まあまあ。世の中、“きちんと説明しろ”て言われたら困ることばっかりやけど‥‥」

大沢さんが沈黙を破る。

僕としては、大沢さんと桑原君の議論に発展していくのも避けたいところだ。話題の視点を変えてみようとする。

「何か一緒にできることでもあればいいんですけどねえ。‥‥とっちゃんの趣味とか‥‥」

考えてみれば、販売所の仲間の趣味や好みを、僕は誰一人知らない。

「そうや。趣味と言えば、とっちゃん、将棋好きやったなあ」

大沢さんが思い出したように言い、桑原君に笑顔を向ける。

「そうや!一緒に遊んであげたらええんやないの?遊びながら、人付き合いのルールなんかをさりげなく教えてあげてやね~~。そうや!栗塚君、将棋に誘ったってよ」

桑原君が目を見張る。自分の思い付きが気に入ったようだ。

「そうや、そうや。それや。それがええわ」

大沢さんもうれしそうに同意を示す。僕はもう引き返すことはできない。

 

「とっちゃん、将棋好き?やるか?」

翌朝、帰ろうとするとっちゃんに声を掛けた。

「なんや、グリグリ将棋すんのかいな?そうか~~。ええやろう。相手したるで」

とっちゃんは一瞬だけ驚きの表情を浮かべたが、すぐ満面の笑みに変わった。

「栗塚君気い付けや~~。とっちゃん強いで~~」

おっちゃんは、カウンターの新聞に落としていた目を上げた。

「負け知らずやからなあ」

カズさんは出掛けて行きながら、僕に目配せをした。

とっちゃんはどんな将棋を指すのだろうか。僕は決して将棋が強い方ではない。心してかからなければいけない。

小さく緊張する僕の肩を、とっちゃんが突っつく。

「ほな、行くで~~」

将棋盤と駒は二階らしい。とっちゃんはさっさと階段を上がっていく。後を追いかけようとゴム草履を脱ぎ、雑巾で足の裏を拭いていると、桑原君が傍に来た。

「僕の部屋やからな」

そう言うと、先に上がっていった。

二階に上がり開け放たれたドアから中を窺う。とっちゃんの端座する背中が見えた。

そっと近付く。とっちゃんはもう、灰皿を横に、駒をいそいそと並べ始めている。手馴れた所作と前屈みの姿勢が、これまでに踏んできた場数の多さを思わせた。

見かけによらない秀でた一芸が、とっちゃんにあったとしても不思議ではない。多少は腕に自信のあった中学生の夏、夕涼みの縁台に腰掛け手招きをする近所のおじさんにこてんぱんにされたのを思い出す。僕を打ち負かした後の、とっちゃんの勝ち誇った顔や、尖った口先から勢いよく吹き出される勝利の紫煙が目に浮かぶ。

「遊びやからな、遊び」

桑原君が耳打ちする。勝敗が決した後、僕が感じるであろう屈辱を慮っての言葉か。

「早う座りいな」

とっちゃんに促され、向かいに胡坐を掻く。端座のとっちゃんに見下ろされる格好だ。

「わしからでええか~?」

とっちゃんが角道を開ける。大沢さんと桑原君が足音を忍ばせながらやってきて、窓辺に二人並んで腰掛ける。

僕ととっちゃんは角を交換し、以降はほとんど定石通り。淡々と進んでいく。

とっちゃんは僕の一手毎に「そおか~~」「やるやないか~~」「そこ来るか~~」と腕を組み首を傾げ、時には居住まいを正して盤を睨みこむ。

が、不思議なことに、その所作の割には打つ手は平凡。とても強いようには思えない。奥の手でもあるのだろうか。

しかし、そんな心配をする間もなく、お互いが10手くらいを打ち終わる頃には、もう勝敗の行方は見えていた。

窓辺に並んで腰掛けている桑原君と大沢さんに、小首を傾げてみせる。と、二人同時に笑いながら、僕と同じように小首を傾げてみせる。その時、やっと僕は、みんなにからかわれていたこと気付いた。

二人を笑顔交じりに睨みつける。すると、大沢さんが盤面に注意を向けるよう、顎で促した。急いで振り向く。盤面に変化があったようには見えない。

「矢倉囲いしよう思うて間違うたわ。今日は、あかんなあ」

僕と目が合ったとっちゃんが快活に笑う。照れを装っているようにも見える。

「矢倉囲い知ってるだけでも凄いやないか~~」

小馬鹿にするような言い方になってしまい、慌てて言葉を足す。

「まあまあ。そう言うても、まだ互角やからな」

すると、意外なことに、とっちゃんは不快そうに身を捩った。

「それはわかってる」

吐き捨てるように言うと、片膝を立てた。顎に手を当て、長考に入る構えだ。しかし、僕にはもう詰めは見えている。

大沢さんと桑原君を振り向く。二人とも、盤面を見ていたはずの目を窓外の景色へと逸らしている。

盤面に目を戻す。と、その時。僕は、“とっちゃんの強さの秘訣”を発見した。

盤面にとっちゃんの玉がなかったのだ。とっちゃんは、玉を隠してしまっていたのだ。

「とっちゃ~~ん。自分の王様隠したらあかんがな」

すぐに僕は言った。が、とっちゃんに悪びれる様子はない。

「せやかて、これ取られたら負けるやんか」

堂々と玉を見せ、胸のポケットにポトリと入れる。

「さあ、次はどうくる?」

とっちゃんは、盤面に大きく覆いかぶさる。僕は窓辺の二人に救いを求めるように目を向けた。

 

「グリグリ~~。将棋せえへんか~~?」

それからというもの、とっちゃんは毎朝将棋をねだってきた。

「とっちゃん、自分の王様隠すんやもん。それ止めるんやったら、してあげてもええけどな」

その度に条件を出すのだが、それは無視され、

「ええやないか~~。一回だけ、一回だけやて!な!ええやないか~~」

おっちゃんの応援を期待する大声で、しつこくとっちゃんは繰り返した。

「いつもすまんなあ、栗塚君」

おっちゃんの一言に2日に一度は根負けし、

「一回だけやで!」

と念押ししながら、苦笑いする桑原君と一緒に二階に上がる。

が、一旦始めると一回で終わるわけもなく、三回は相手をさせられることになる。しかも、とっちゃんの駒を全て取り切らなければ終わらない。勝負が早々と決した後に駒を取り切る徒労感を三回も味わうだけではなく、その合間には何度かのとっちゃんの“長考”に付き合わなくてはならない。

「あかんかったなあ。二回も同じ失敗したらあかんわ。なあ、グリグリ」

三回の対局が終わると、とっちゃんはほとんど毎回同じ台詞を吐き、上機嫌でさっさと階段を下りて行く。そして、僕はただ一人、駒を片付けることになるのだった。

「僕もな、とっちゃんに勝つ方法は全部取るしかない思うんよ。面倒くさい話やけどな」

大沢さんが、とっちゃんと入れ替わりに二階に上がってきて、そんな僕に慰めの言葉を掛けてくれることもあった。

桑原君は、その後ろから顔を出し、

「“参った!”て、言いたくなってくるやろう?」

と言ったりしていたが、僕には“君が相手をしてくれるようになって、ほんま、助かってるで”と言っているようにしか聞こえなかった。

遂に僕は、とっちゃんからの将棋のおねだりをほとんど断るようになった。とっちゃんを将棋に誘って二週間もしない頃だった。

しかし、とっちゃんの“将棋せえへんか~~?”は次第に執拗さを増していった。配達が終わった爽快感を感じる暇はなくなっていた。

下から見上げる粘っこい目つき、絡みつくような喋り方、おかきとタバコの入り混じった臭い……。連日襲い掛かるとっちゃんのおねだりに、僕は辟易としていた。苛立ちが頂点に達しそうな時もあった。

おっちゃんとおばちゃんの「すまんな~~。我慢したってな~」という囁きが耳に届いていなかったら、我慢は限界に達していたかもしれなかった。

ところが、ある日を境にとっちゃんの“将棋せえへんか~~?”攻撃はピタッと止んでしまった。6月中旬のことだった。

                   Kakky(柿本洋一)

  *Kakkyのブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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