昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

1969年。僕たちの宵山 ―昭和少年漂流記第二章―⑨

2017年01月28日 | 日記

翌5月5日、目覚めた瞬間から、もう僕は時間を持て余していた。白々と明けた窓の外は快晴。気温も上がっていきそうだ。

大沢さんと桑原君はどんな休日を迎えているのだろうか。仕事仲間二人それぞれの部屋と、それぞれと交わした会話が思い出される。

大沢さんの過去と宗教、桑原君の情報収集力、二人の異なる個性。そして、おっちゃんとおばちゃんが販売所夫婦になるに至った経緯などを思い描くと、“自立なくして自律なし!”などと息巻き、勇んで飛び出した自分が青臭く思えてならない。そして、そんな想いとは無縁に、また眠気が襲ってくる………。

“せっかくの休日なのに”と時折目覚めては思いつつ、僕はほとんど午前中を布団から身体を起こすことなく過ごした。しかし、12時を回った頃、さすがに耐え難くなった空腹に起き上がった。随分と久しぶりに頭が軽く、初夏を思わせる陽の輝きに部屋の空気も澄んで見えた。

外気に触れようと思った。青く澄み渡っているであろう初夏の空を眩しく仰ぎ見、鴨川のせせらぎを耳にしようと思った。本棚の上の小銭をすべてポケットに入れて部屋を出た。

銭湯手前の駄菓子屋でクリームパン2個とラムネを買った。店先にぶら下げられた木製の栓開けでラムネを開ける。急いで瓶に口を付け、噴き出すラムネを押し留める。

大人たちの作業を手伝ってもらった10円でラムネを買った昔を思い出す。自分のお金で買った満足感は、ラムネの味よりも勝っていた。初めての給料が手に入れば、その時からすべては、あの時のラムネのように、自分自身で手に入れることになる。

まだ想像の域を出ないが、隙間だらけの心も、きっとある程度は満たされることだろう。

クリームパンを口いっぱいに頬張る。と、その時、手の中の小銭が現在の所持金のすべてであることに思い当たる。

4月の労働日数はわずかとはいえ、給料はもらえるはず。いや、もらわなくてはならない。しかし、もらったところで、5月の生活費には足りない。条件付きと言われている前借りも申し込む必要がある。明日、朝刊を配り終わったら、給料の件と前借りができないものかを聞かねばならない。

クリームパンの残りをラムネで喉に流し込む。気付くと、ラムネを握った少年が二人、僕の前にぶら下がる栓開けを待って並んでいる。そうか。今日は子供の日だ。

 

店を出る。向かいのタバコ屋の店先では、公衆電話に若い男が噛り付いている。電話台の上には高く詰まれた10円玉。長距離電話の相手は恋人なのだろうか、受話器を強く耳に押し当て、何か聞き返しては笑っている。僕と目が合った瞬間、盗み聞きを咎めるかのように睨み付け、背を向ける。しかし、楽しそうな会話は続く。

掌の中の小銭を見る。200円程度か。100円定食2回分だ。啓子に電話するわけにはいかない。

賀茂川に向かう。向こうに見える出雲路橋を行き交う人は少ない。さらに向こう、烏丸通りとの中間点辺りには、黒い人混み。籍を置いているだけの予備校の校門辺りだ。気にはなるが、何が起きているのか確かめようという気にはなれない。

賀茂川左岸の河川敷に下りる。子供たちの嬌声の中を歩く。弁当を広げるカップルのすぐ横を通り抜ける。握り続けていたもう一個のクリームパンを頬張る。

北大路橋の橋桁を潜り抜ける。北山橋が見える。この際だ、と販売所に行ってみることにする。

河川敷から北山橋のたもとに上がる。と、販売所の引き戸が開き、出てくるとっちゃんの姿が目に飛び込んできた。斜め後ろ、販売所の中に向かって何か叫んでいる。見つかるのを恐れ、頭を低くする。河川敷へと急いで下りて、振り返る。後姿を見られてしまっていなければいいが……。

 

5月6日、休日明けの朝刊から帰ってきた販売所はちょっとした躁状態にあった。

「グリグリ~~~~~~。お疲れ~~~~!」

とっちゃんの声が、いつもよりひと際大きい。

「お帰り~~」

「お疲れさん」

桑原君と大沢さんの声も心なしか明るい。一昨日の夕刊後の会話が僕との距離を縮めてくれたようだ。

「お疲れ、お疲れ」

おっちゃんの声も妙に明るい。タバコまで差し出してくれる。一体、何があったというのだろう。

タバコを受け取り、とっちゃんに火をつけてもらう。

「ええことがあったんや。ほら」

周りを訝しむ僕に桑原君が耳打ちをして、顎をとっちゃんの方に向ける。

とっちゃんには緊張の色が見える。伸ばした背筋が、いかにも怪しい。

「ちょっといい?」

タバコの灰を灰皿に落としながら、とっちゃんの背後を盗み見る。すぐ目に入ってきたのは、いつものお菓子のお盆。しかし、なんとそこにはキスチョコが加わっている。

「あ!」

思わず声を上げ、桑原君を振り向く。

「食べて、食べて。これからは毎日やからな。カズさんに感謝してや」

他愛もなく驚く僕に、おっちゃんは上機嫌な声を掛けてくる。とっちゃんの監視の目を避けながら、早速一つ摘み取る。チョコレートは久しぶりだ。

「昨日一日で新規が10軒以上取れたんやて。カズさん一人で」

大沢さんがおっちゃんの上機嫌の理由を教えてくれる。最近できたアパートとマンションでの勧誘の成果だろう。さすがカズさんだ。

突然、桑原君が脇を突かれ、思わず手にしたキスチョコを落としそうになる。

「いらへんねやったら、もろうてやってもええで」

桑原君が笑っている。

急いでタバコを吸い終わり、キスチョコの銀紙を剥く。口に入れるとたちまちチョコの香りが口中を満たしていく。甘さは幸せなんだなあ、と思った。

 

翌朝から、朝のお菓子にキスチョコが加わることになった。そして、たったそれだけことが朝の光景を徐々に変えることになっていった。

ピーナッツの大部分を独り占めにしていたとっちゃんのことだ。きっとキスチョコもその多くを自分のものにしようとするに違いない。僕たち3人は暗黙のうちに、そう理解していた。が、現実は予想を超えていた。

僕がキスチョコの存在を確認できたのは、キスチョコがお菓子のお盆に加わった6日一日だけ。それ以降は、一切見かけることはなかったのだ。

僕よりも配達から早く帰ってくる大沢さんは、

「7日の朝は見たような気がするけどなあ」

と言ったが、大沢さんより少しだけ早く帰ってくる桑原君は、

「7日もそれから後も、僕は間違いなく見てへんで」

と証言した。

僕たち3人はキスチョコに出会えなくなった原因を考えた。大沢さんがまず分析する。

「おっちゃんの“これからは毎日やからな”という言葉に嘘がないとすれば、原因は二つしか考えられへん。一つは、おばちゃんの反対や。思った以上に金が掛かるという理由やろなあ。もう一つは、とっちゃんや。中途半端に残す方がまずい思うたん違う?少し残ったものは存在していたもののアリバイになるし、たくさん存在していたはずだと文句言われても反論できひんもんなあ。この際や、元々なかったことにしてまえ、ということ違う?」

桑原君は、珍しく慎重だ。

「後者やろうと思うけど、証拠なしに決めてまうわけにはいかんへしなあ」

僕も同じ意見だ。が、ことは販売所からサービスで提供されるお菓子のお盆にキスチョコがあるかなしかという話。いかにも子供っぽく、いじましい。

「どっちにしても、あほらしい話やわなあ」

3人は笑い合って、忘れることにした。

しかし、それから一週間も経たないうちに、僕たち3人は犯行現場を目撃してしまうことになる。そして、目撃してしまうと、笑って忘れるわけにはいかなくなっていた。

                   Kakky(柿本洋一)

  *Kakkyのブログは、こちら→Kakky、Kapparと佐助のブログ


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