俳句日記/高橋正子

俳句雑誌「花冠」代表

12月12日(水)

2012-12-12 14:08:56 | Weblog
★木蓮の冬芽みどりにみな空へ  正子
木蓮の芽は春に向けて小さな鳥のくちばしのような青い芽をみな空へむけて育んでいますね。春が待ちどおしいです。。(小口泰與)

○今日の俳句
山風の陽を奪いけり冬の蝶/小口泰與
山から吹いて来る風は陽に輝いているのだが、その陽を奪って、何よりも輝いていきいきしているのは冬の蝶。蝶の翅の力強さがよい。(高橋正子)

○桜紅葉

[桜紅葉/横浜日吉本町] 

★濃紅葉に涙せきくる如何にせん/高浜虚子
★柿紅葉マリア燈籠苔寂びぬ/水原秋櫻子
★障子しめて四方の紅葉を感じをり/星野立子
★黄葉はげし乏しき銭を費ひをり/石田波郷
★芸亭の桜紅葉のはじまりぬ/岩淵喜代子
★桜紅葉これが最後のパスポート/山口紹子
★水飲めば桜紅葉の母国あり/久保田慶子
★ことごとく桜紅葉の散りぬれど/桐一葉
★よい物の果てもさくらの紅葉かな/塵 生

 紅葉というと、イロハモミジが人気を集めていて、紅葉で有名な観光地の多くはこの樹種の紅葉だ。これはこれで見事な紅葉で、そのすばらしさを賞賛するのに全く異存はない。しかし、桜の紅葉も、もう少し話題になっても良いように思う。桜の紅葉には、話題になるだけの美しさがあると思っている。ただし、この話はソメイヨシノのことだ。

 どうも桜の紅葉は、今ひとつ人気がない。それは、あまりきれいな紅葉ではないと思われているからだろう。イロハモミジの紅葉と比べると、地味な感じがすると思われているようだ。ただ、そのような評価の原因の一つは、桜の紅葉を見る時に、太陽の光を透かして見ることが多いからではないだろうか。桜の紅葉は、逆光で見ると色が褪せて、地味に見える。イロハモミジなどは、逆光だとこの世のものとは思えないような赤い輝きを見せることがある。ところが、桜だと薄い、褪せた褐色に見えて、どうにも冴えない。桜の葉は、やや厚手の葉だ。だから表と裏では紅葉の色が違う。表は鮮やかな赤や黄に紅葉していても、裏はどの葉も皆薄い地味な黄色をしている。そのため、陽光に透かすと、表と裏の色が混じって、色が冴えなくなる。この辺りに、人気のない原因があるような気がする。

 これは、桜の紅葉の鑑賞の仕方が間違っているのだ。桜の場合は散って地面に散り敷いている葉を見るのがよい。それも散ったばかりの、せいぜいが一日ぐらいの、まだ水分が残っていてしんなりしているものがよい。少し乾くとすぐに地味な褐色に変色してしまうからだ。苔の上など暗い地面の上だと、表と裏の色が混じることなく、表の鮮やかな赤や黄色がはっきり見える。条件が整った場所に落ちている桜の紅葉を見ると、木についている時に比べて、比較にならないほど赤みや黄みが増して、実にしっとり美しく見える。桜は、散ってから一段と紅葉が進むかと思うぐらいに鮮やかだ。拾って手に触れるとひんやり感じて心地よい。

 もう一つ、イロハモミジの紅葉は、集団の葉の見事さを愛でるわけだが、桜は違う。桜は、紅葉の時期になると、葉がぽつぽつと紅葉して、紅葉が極まったものからはらはらと落葉していく。一斉に紅葉するわけではない。なので、何となく1本の木の色がそろわない。また、全体の印象がすけすけした感じになる。この点も、桜の紅葉が人気がない理由の一つだろう。桜の葉の紅葉は、一枚が大きいために、一枚だけでも迫力があり、味わいがある。赤やら褐色やら黄色やら、さざまざまな色の葉がある。同じ一枚の葉の中に、それらの色が塗り分けられているものも少なくない。ただ、木の枝についている時は、葉がまばらなために集団としての美しさは感じられない。その代わり、一枚の葉の紅葉に存在感がある。つまり、桜の葉の紅葉は、一つ一つの葉の紅葉を楽しむものであり、集団としてのまとまりを楽しむものではない。一つ一つの葉を手にとって、その鮮やかさ、しっとりとした美しさ、そして個々の美しさの違いを楽しむものだ。時には、虫食いの跡までもが、造形のポイントとして楽しめる。つまるところ、地面に落ちている鮮やかに紅葉した葉を拾って、手にとって虫食いの穴までも鑑賞するのが、桜の紅葉を愛でる作法だろう。

 一度桜の紅葉を手に取って見てもらいたい。桜の木の根本に、散ったばかりの桜の葉が散り敷いていたら、眺めて欲しい。できれば小春日和の正午がよい。きっとその美しさに驚くだろう。イロハモミジの紅葉とは違った、上品でしっとりした美しさが味わえるはずだ。結局、桜は、花も紅葉も第一級の樹木なのだ。(ウェブ「自然のフォトエッセイ」より)


◇生活する花たち「柊・茶の花・錦木紅葉」(横浜日吉本町)

コメント (1)
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