の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

麻賀多社奥宮

2010年07月04日 12時38分03秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■拜殿■
(13th May 2009)


★麻賀多社奥宮★ 千葉県成田市船形字手黒

・延喜式内社、下總國印旛郡、麻賀多社。

・舊社格は社。

・祭は本宮が稚産靈命、奥宮が稚日靈命。

・本宮と奥宮からなり、本宮は台方字稷山、奥宮は立谷津を一つ隔てた北方八百メートルの船形字手黒にあり、社家は太田家が務めた。

・社号の麻賀多は、麻の産地、麻縣による。

・一説には、印旛沼の潟から、眞潟であるとも。さらに、豐城入彦命下毛野君弟眞若君から「眞若田」からとも。あるいは、祭稚産靈命から、眞若であるとも。要は、不詳。

・社家太田家伝來の『延喜式内奥津宮麻賀多社』という縁起によると、日本武尊が東征のためこの地を通ったとき、松杉生い茂る山に登り、一本の大杉のウロに鏡を掛け、西に向かって伊勢の大御を拜み、戰勝祈念した。その折、里人から土地が悪く穀物が實らない嘆きを受け、その鏡を祀れば豐作になることを告げると、泉が湧き、慈雨が降り、五穀豐穰の地となったという。

・應天皇の御代、伊都許利命が、印旛國造として當地に來たおりに、靈夢をうけ、杉の木の下より七つの玉を掘り出し鏡と共に祭って、一社を創建したのが現奥宮という。麻賀多眞大明と稱した。

・推古天皇十六年(608)に、伊都許利命八世の孫広鋤手黒彦が、稷山の地に稚産靈命を遷座し、大宮殿を造営し、現本宮ができ、ここに二つの麻賀多眞大明が成った。

・延喜十八年(918)、朝廷の寶物である三種の器の一つ八尺瓊勾玉と同名であることから麻賀多社と改稱したという。

・奥宮境内地には伊都許利命墳墓といわれる方墳があるが、形態や石室、石棺から推測し、七世紀後半から八世紀初期のものと推測され、命の崩御年代に合わない。太田家系図によると、八代目広鋤手黒彦が皇極天皇元年(642)崩御とあり、年代が符合し、また、手黒彦は、稷山の地に稚産靈命を遷座したとされる人物で、古墳と奥宮の所在地「手黒」とも名が一致することから、從來の説とは別に、推古天皇十六年(608)、稷山の地に麻賀多社を創祀し、手黒彦死後、遺体を葬った場所に一族が社を設け、これが奥宮となったと考える説もある。

・印旛沼沿岸に鳥居河岸というところに鳥居があり、幸式の際の重要な場所であるという。

・印旛郡下十八麻賀多の總社。

・史家によっては、本宮と奥宮を混同して著述したり、その誤りが他の著作に引用されるなどし、論社の物議を引き起こすこともあった。


■杜■
(13th May 2009)
 


■一の鳥居■
(13th May 2009)
 


■二の鳥居■
(13th May 2009)



■拜殿■
(13th May 2009)
 


■本殿■
(13th May 2009)
 


■末社粟生日社■
(13th May 2009)
 


■木■
(13th May 2009)



 


■末社加志波比賣社■
(13th May 2009)
 


■末社祓戸社■
(13th May 2009)
 


■末社金比羅社■
(13th May 2009)



((コメント))

2009年5月13日

 台方から少し迷ったが、無事、麻賀多社奥宮といわれるところにたどり着いた。田舎であまり開発されておらず、木々が殘り、且つ、近くに印旛沼があるというコンディションのため、本宮と同様、惡くはない。この地区では、本宮とセットで考えると一番いいかもしれない。ただ、香取宮などと比べると、氣の格が違いが明らかではあるが。


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