■拜殿■
(13th May 2009)
★麻賀多社奥宮★ 千葉県成田市船形字手黒
・延喜式内社、下總國印旛郡、麻賀多社。
・舊社格は社。
・祭は本宮が稚産靈命、奥宮が稚日靈命。
・本宮と奥宮からなり、本宮は台方字稷山、奥宮は立谷津を一つ隔てた北方八百メートルの船形字手黒にあり、社家は太田家が務めた。
・社号の麻賀多は、麻の産地、麻縣による。
・一説には、印旛沼の潟から、眞潟であるとも。さらに、豐城入彦命下毛野君弟眞若君から「眞若田」からとも。あるいは、祭稚産靈命から、眞若であるとも。要は、不詳。
・社家太田家伝來の『延喜式内奥津宮麻賀多社』という縁起によると、日本武尊が東征のためこの地を通ったとき、松杉生い茂る山に登り、一本の大杉のウロに鏡を掛け、西に向かって伊勢の大御を拜み、戰勝祈念した。その折、里人から土地が悪く穀物が實らない嘆きを受け、その鏡を祀れば豐作になることを告げると、泉が湧き、慈雨が降り、五穀豐穰の地となったという。
・應天皇の御代、伊都許利命が、印旛國造として當地に來たおりに、靈夢をうけ、杉の木の下より七つの玉を掘り出し鏡と共に祭って、一社を創建したのが現奥宮という。麻賀多眞大明と稱した。
・推古天皇十六年(608)に、伊都許利命八世の孫広鋤手黒彦が、稷山の地に稚産靈命を遷座し、大宮殿を造営し、現本宮ができ、ここに二つの麻賀多眞大明が成った。
・延喜十八年(918)、朝廷の寶物である三種の器の一つ八尺瓊勾玉と同名であることから麻賀多社と改稱したという。
・奥宮境内地には伊都許利命墳墓といわれる方墳があるが、形態や石室、石棺から推測し、七世紀後半から八世紀初期のものと推測され、命の崩御年代に合わない。太田家系図によると、八代目広鋤手黒彦が皇極天皇元年(642)崩御とあり、年代が符合し、また、手黒彦は、稷山の地に稚産靈命を遷座したとされる人物で、古墳と奥宮の所在地「手黒」とも名が一致することから、從來の説とは別に、推古天皇十六年(608)、稷山の地に麻賀多社を創祀し、手黒彦死後、遺体を葬った場所に一族が社を設け、これが奥宮となったと考える説もある。
・印旛沼沿岸に鳥居河岸というところに鳥居があり、幸式の際の重要な場所であるという。
・印旛郡下十八麻賀多の總社。
・史家によっては、本宮と奥宮を混同して著述したり、その誤りが他の著作に引用されるなどし、論社の物議を引き起こすこともあった。
■杜■
(13th May 2009)
■一の鳥居■
(13th May 2009)
■二の鳥居■
(13th May 2009)
■拜殿■
(13th May 2009)
■本殿■
(13th May 2009)
■末社粟生日社■
(13th May 2009)
■木■
(13th May 2009)
■末社加志波比賣社■
(13th May 2009)
■末社祓戸社■
(13th May 2009)
■末社金比羅社■
(13th May 2009)
((コメント))
2009年5月13日
台方から少し迷ったが、無事、麻賀多社奥宮といわれるところにたどり着いた。田舎であまり開発されておらず、木々が殘り、且つ、近くに印旛沼があるというコンディションのため、本宮と同様、惡くはない。この地区では、本宮とセットで考えると一番いいかもしれない。ただ、香取宮などと比べると、氣の格が違いが明らかではあるが。
(13th May 2009)
★麻賀多社奥宮★ 千葉県成田市船形字手黒
・延喜式内社、下總國印旛郡、麻賀多社。
・舊社格は社。
・祭は本宮が稚産靈命、奥宮が稚日靈命。
・本宮と奥宮からなり、本宮は台方字稷山、奥宮は立谷津を一つ隔てた北方八百メートルの船形字手黒にあり、社家は太田家が務めた。
・社号の麻賀多は、麻の産地、麻縣による。
・一説には、印旛沼の潟から、眞潟であるとも。さらに、豐城入彦命下毛野君弟眞若君から「眞若田」からとも。あるいは、祭稚産靈命から、眞若であるとも。要は、不詳。
・社家太田家伝來の『延喜式内奥津宮麻賀多社』という縁起によると、日本武尊が東征のためこの地を通ったとき、松杉生い茂る山に登り、一本の大杉のウロに鏡を掛け、西に向かって伊勢の大御を拜み、戰勝祈念した。その折、里人から土地が悪く穀物が實らない嘆きを受け、その鏡を祀れば豐作になることを告げると、泉が湧き、慈雨が降り、五穀豐穰の地となったという。
・應天皇の御代、伊都許利命が、印旛國造として當地に來たおりに、靈夢をうけ、杉の木の下より七つの玉を掘り出し鏡と共に祭って、一社を創建したのが現奥宮という。麻賀多眞大明と稱した。
・推古天皇十六年(608)に、伊都許利命八世の孫広鋤手黒彦が、稷山の地に稚産靈命を遷座し、大宮殿を造営し、現本宮ができ、ここに二つの麻賀多眞大明が成った。
・延喜十八年(918)、朝廷の寶物である三種の器の一つ八尺瓊勾玉と同名であることから麻賀多社と改稱したという。
・奥宮境内地には伊都許利命墳墓といわれる方墳があるが、形態や石室、石棺から推測し、七世紀後半から八世紀初期のものと推測され、命の崩御年代に合わない。太田家系図によると、八代目広鋤手黒彦が皇極天皇元年(642)崩御とあり、年代が符合し、また、手黒彦は、稷山の地に稚産靈命を遷座したとされる人物で、古墳と奥宮の所在地「手黒」とも名が一致することから、從來の説とは別に、推古天皇十六年(608)、稷山の地に麻賀多社を創祀し、手黒彦死後、遺体を葬った場所に一族が社を設け、これが奥宮となったと考える説もある。
・印旛沼沿岸に鳥居河岸というところに鳥居があり、幸式の際の重要な場所であるという。
・印旛郡下十八麻賀多の總社。
・史家によっては、本宮と奥宮を混同して著述したり、その誤りが他の著作に引用されるなどし、論社の物議を引き起こすこともあった。
■杜■
(13th May 2009)
■一の鳥居■
(13th May 2009)
■二の鳥居■
(13th May 2009)
■拜殿■
(13th May 2009)
■本殿■
(13th May 2009)
■末社粟生日社■
(13th May 2009)
■木■
(13th May 2009)
■末社加志波比賣社■
(13th May 2009)
■末社祓戸社■
(13th May 2009)
■末社金比羅社■
(13th May 2009)
((コメント))
2009年5月13日
台方から少し迷ったが、無事、麻賀多社奥宮といわれるところにたどり着いた。田舎であまり開発されておらず、木々が殘り、且つ、近くに印旛沼があるというコンディションのため、本宮と同様、惡くはない。この地区では、本宮とセットで考えると一番いいかもしれない。ただ、香取宮などと比べると、氣の格が違いが明らかではあるが。