の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

出雲國一之宮熊野大社

2010年08月15日 21時26分33秒 | 中国(鳥取、島根)
■本殿■
(12th June 2010)
 


★出雲國一之宮熊野大社(舊下ノ宮)★ 島根県松江市八雲町熊野2451

・延喜式内社、出雲國意宇郡、熊野坐社、名大。

・舊社格は國幣大社。

・祭は熊野大櫛御氣野命、亦の名素盞嗚尊という。『延喜式』に収める「出雲國造賀詞」には「伊射那伎乃日眞名子加夫呂伎熊野大櫛御氣野命」とあり、「靈妙なる御食つ」という意味の名が明記されている。

・『出雲國風土記』にある出雲四大の一。他の三大は杵築、佐太、野城。

・古來より、杵築大社(現出雲大社)の上位に置かれていた。

・鎌倉時代頃までは一之宮の稱は當社が與えられていたが、鎌倉期以降は杵築大社に移ったようである。

・『和名抄』によると、熊野の「くま」は「久万之禰」の「くま」とし、すなわち米の意に通じる。また、「隈隈しい」所という意味の「隈」と考えられている。

・本居宣長は『古事記傳』以降、紀伊と出雲の熊野について、本末關係を説明しようとする向きが多いが、實際、『延喜式』名帳において、熊野坐社、熊野社が、出雲、紀伊、丹後、越中、近江と、出雲、紀伊の二か國に留まらず、この關係は成立しないと思われる。

・元宮は海抜六百十メートルの天狗山にあり、風土記の記す「熊野山」とされる。

・『出雲國風土記』では熊野大社とされていたが、『延喜式』名帳では熊野坐社と記された。

・社傳では熊野村の住人が紀伊國に移住したときに分靈を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとし、往古、出雲で炭焼きを業としていた有馬氏が遙か紀の國に移動したというが、三重県熊野市の有馬は榎本が本姓であり、元々、熊野の海人族と考えられている上に、出雲國との關連がある傳承は皆無である。その上、天文十一年(1542)の大内氏の富田城攻撃の際に社殿が全燒し、明治六年(1873)の意宇川の氾濫により社地の一部が流され、文書類は消失したというのに社傳が殘っているというのもまた奇なことである。また、この社傳は、平安の末頃から始まる紀州の熊野の進出により、創建された熊野社が「熊野上ノ宮」と呼ばれるようになったことに對抗するものであると思われる。

・現熊野大社(熊野下ノ宮)が古來よりの熊野大社と考えられているが、近世、現熊野大社社地の上手約一町のところに紀州系の熊野社が建てられ、上ノ宮が建てられ、下ノ宮の祭は天照大となっていたが、これは、紀州系への対抗策であったと考えられている。

・明治維新に至り、社整理が行われたときに當社も上下の宮を一本化し、「熊野社」と改めた。明治十年(1877)には、舊上ノ宮を伊邪那美社と改稱し、これと下ノ宮前面にあった稻田社とを攝社とし、本殿の両側へと遷した。昭和五十二年(1977)、社名を熊野大社と改めた。

・中世以來の文書に見える社家は鈴木氏と稱し、のちに熊野氏と改稱。明治維新まで続くが、明治の國家管理時代に入ってからは官選宮司となり、現在では出雲大社の千家教統がこれを兼務している。


■一の鳥居■
(30th December 2007)

 

■參道■
(30th December 2007)



■橋と三の鳥居■
(30th December 2007)
 

(12th June 2010)



■隨門■
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 


■境内■
(12th June 2010)



■拜殿■
(30th December 2007)



■本殿(向かって左は伊邪那美社)
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 


■攝社伊邪那美社■
(30th December 2007)


・祭は伊奘冉尊。他十九社合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、能利刀社論社、合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、田中社、合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、楯井社、合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、速玉社、合祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、布吾彌社論社、合祀。
・元元、上之宮の社殿。
・本社本殿に向かって左に鎭座。


■攝社稻田社■
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 

・祭は眞髪觸奇稻田姫。脚摩乳、手脚乳、少彦名命を配祀。
・延喜式内社、出雲國意宇郡、前社、合祀。
・本殿に向かって、右隣に鎭座。


■社號標■
(12th June 2010)
 


■末社荒社■
(12th June 2010)
 

・祭は素戔嗚尊。靇、闇靇、罔象女を配祀。


■末社稻荷社■
(12th June 2010)
 


■舞殿■
(30th December 2007)

(12th June 2010)
 

 舊拜殿を改築。


■鑽火殿■
(30th December 2007)


 立札より、
「御祭スサノオノ大は「檜の臼、卯木の杵」で火を鑽り出す法を教えられた。熊野大社は「日本火出初社」とも讃えます。出雲國造(出雲大社宮司)は、大の靈幸い給う器の燧臼、燧杵を拜戴し、鑽火して「火繼=靈繼」の式を仕えなければ、その職を襲職することが出來ません。大の靈威を戴き性國造となります。この鑽火殿はその古傳由緒を傳える建物であり、器が奉安してあります。毎年十月十五日の鑽火祭は古來からのしきたりの重儀であり、出雲國造が器を拜戴するために參向して人の歌、琴板によって榊舞百番を納めて慮一滯の祝壽をします。これに先立って特殊な『龜太夫事』が奉仕されます。」


■巫女さん■
(30th December 2007)



((コメント))

2007年12月30日

 雪が降る最中に参拝。本当は上の社跡にも行きたかったが断念。実は、紀伊の熊野との関連が何か見つからないかな、と思ってやってきたが、正直、何も見つからなかった。神社の持つ神気の種類も異なり、直接的な関係はないと感じる。

2010年6月12日

 舊熊野下ノ宮である、現熊野大社。二度目の訪問である、前回は年末で雪が降るときであったので境内の眺めは少し異なるように感じるが、やはり、出雲大社よりは心地いい氣を持っているのは否定できない。

 紀伊の熊野とは異なる氣を持っておるが、それは、土地の問題もあるのでつながりを否定しうる材料ではないが、熊野三山ではなく有馬の名を社傳に殘していることに何かの關係を浮かび上がらせているように思う。個人的には、やはり、出雲の民は、紀和の出雲族の殘党と思えるのである。 


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