■手水舎、拜殿■
(23rd November 2012)
★石屋社★ 兵庫県淡路市岩屋字明神799
・延喜式内社、淡路國津名郡、石屋社。
・舊社格は社。
・祭は國常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊。『社總社記』では月讀尊とする。
・社傳によると、崇天皇の御代、三對山に繪島明が鎭座したのが石屋社の始まりであるという。
・當社はかつて來馬に屬し、長元年(1163)の記錄には「天地大明」とある。
・室町時代、大内義興が將軍足利義稙を擁し京に攻め入ろうとして岩屋に軍を進め、三對山に城を築いた折、三對山に鎭座していた繪島明を現在地に遷し、のちに池田氏が淡路を領したとき石屋社を再興したといわれる。
・その昔、功皇后が三韓征伐の折、風待ちのため、當社に參拜、「いざなぎやいざなみ渡る春の日に、いかに岩屋のならば」と詠じたところ風が凪いだといい、それにちなみ、當社ではこの歌を海上安全の護符としていた。
・承曆四年(1080)、石屋のの祟りによって白河天皇が病に罹ったため、當社で祈願祭が執行されたと傳えられる。
・岩屋の對岸、明石市材木町に岩屋社があるが、社傳によると、成務天皇十三年(143)、淡路の岩屋にある二柱を祀る社が波の侵食で海中に沒しようとしていた爲、敕命により明石の名主六人衆が新造船で淡路まで迎えに行ったという。
■鳥居、長屋門■
(23rd November 2012)
■手水舍■
(23rd November 2012)
■拜殿■
(23rd November 2012)
■拜殿扁額■
(23rd November 2012)
■本殿■
(23rd November 2012)
■末社八百萬社■
(23rd November 2012)
■末社稻荷社■
(23rd November 2012)
■大和島■
(23rd November 2012)
((コメント))
2012年11月23日
夜中に車を走らせ、「道の駅あわじ」にて少し休憩。天候不良であったが、早朝に始動、まずは岩屋の石屋社へ訪問。以前に行った明石の岩屋社の元のというべきところであるので期待して行ったのであるが、社殿は立派なものであるにも關わらず、感じるものはいまひとつの狀態であり殘念な思いであったが、戰亂の合で本來の社地を失っていたということであり、こういう意味では同情せざるをえない。いずれにせよ、岩屋の龍を感じることはなかった。
(23rd November 2012)
★石屋社★ 兵庫県淡路市岩屋字明神799
・延喜式内社、淡路國津名郡、石屋社。
・舊社格は社。
・祭は國常立尊、伊弉諾尊、伊弉册尊。『社總社記』では月讀尊とする。
・社傳によると、崇天皇の御代、三對山に繪島明が鎭座したのが石屋社の始まりであるという。
・當社はかつて來馬に屬し、長元年(1163)の記錄には「天地大明」とある。
・室町時代、大内義興が將軍足利義稙を擁し京に攻め入ろうとして岩屋に軍を進め、三對山に城を築いた折、三對山に鎭座していた繪島明を現在地に遷し、のちに池田氏が淡路を領したとき石屋社を再興したといわれる。
・その昔、功皇后が三韓征伐の折、風待ちのため、當社に參拜、「いざなぎやいざなみ渡る春の日に、いかに岩屋のならば」と詠じたところ風が凪いだといい、それにちなみ、當社ではこの歌を海上安全の護符としていた。
・承曆四年(1080)、石屋のの祟りによって白河天皇が病に罹ったため、當社で祈願祭が執行されたと傳えられる。
・岩屋の對岸、明石市材木町に岩屋社があるが、社傳によると、成務天皇十三年(143)、淡路の岩屋にある二柱を祀る社が波の侵食で海中に沒しようとしていた爲、敕命により明石の名主六人衆が新造船で淡路まで迎えに行ったという。
■鳥居、長屋門■
(23rd November 2012)
■手水舍■
(23rd November 2012)
■拜殿■
(23rd November 2012)
■拜殿扁額■
(23rd November 2012)
■本殿■
(23rd November 2012)
■末社八百萬社■
(23rd November 2012)
■末社稻荷社■
(23rd November 2012)
■大和島■
(23rd November 2012)
((コメント))
2012年11月23日
夜中に車を走らせ、「道の駅あわじ」にて少し休憩。天候不良であったが、早朝に始動、まずは岩屋の石屋社へ訪問。以前に行った明石の岩屋社の元のというべきところであるので期待して行ったのであるが、社殿は立派なものであるにも關わらず、感じるものはいまひとつの狀態であり殘念な思いであったが、戰亂の合で本來の社地を失っていたということであり、こういう意味では同情せざるをえない。いずれにせよ、岩屋の龍を感じることはなかった。