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上杉景勝墓所

2013年10月20日 22時32分36秒 | 歴史上人物の墓所
■上杉景勝墓所■
(14th June 2008)



★上杉景勝墓所★ 山形県米沢市御廟一丁目5-32 米澤藩上杉家墓所

・弘治元年(1555)、越後國魚沼郡上田庄の坂戸城下に上田長尾家當主長尾政景の次男として生まれる。生母は上杉輝虎(上杉謙信)の實姉の仙桃院。

・長兄が早世したので世子となるが、永祿七年(1564)の父の長尾政景の溺死を受け、春日山城に入り叔父の上杉謙信の養子となった。

・豐臣政權の五大老の一人。

・出米澤藩初代藩主。

・永祿九年(1566)に行われた謙信の關東出兵が初陣であると言われる。以降、景勝は上田衆を率いて越中の將、椎名康胤の取成や謙信旗本の吉江資堅の軍役を定めるなど、謙信政權下で重要な役割を担った。

・天正三年(1575)、名を長尾顯景から上杉景勝(一說に長尾景勝)に改めると共に、謙信から彈正少弼の位を譲られた。

・天正六年(1578)三月十三日、謙信が死去すると、北條氏から人質として出され、謙信が養子に迎えた上杉景虎との相續爭いが勃發。一般に御の亂と呼ばれる。三月二十四日、いち早く春日山城本丸と金藏を占拠した景勝側が有利となり、景虎は春日山城下の御(上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。六月に甲相同盟に基づき武田勝が景勝、景虎の調停のため信越國境まで出兵すると一轉して景勝は窮地に陷った。しかし、東上野の割讓と黃金讓渡を條件として武田氏と和睦し、武田家の後ろ盾を得た景勝は戰局を覆した。このときに勝の異母妹の菊姬と婚約、翌年九月には正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田との關係を强化。天正七年(1579)、景虎正室である實姉(妹とも)の円院は景勝からの降伏勸告を容れずに自害、同年三月、和議を申し出ようとした養祖父の上杉憲政が景虎の嫡男の道滿丸とともに何者かによって討たれるなど徐徐に立場を惡くした景虎は自害し、後繼者爭いは終わりを迎える。

・御の亂の混亂が續く天正九年(1581)、亂の恩賞問題により對立狀態にあった北越後の新發田重家が織田信長と通じて造反した上、柴田勝家率いる織田軍に越中にまで侵攻され、さらに翌年には越中への出陣を約束していた武田勝の滅亡により、後ろ盾を失うなど、上杉家は滅亡の危機に立たされた。天正十年(1582)、織田軍は越中を完全に制壓して上杉氏は窮地に立たされたが、六月二日、信長が本能寺にて自害したために織田軍の北征は頓挫、上杉家は九死に一生を得た。

・信長の死後は北信濃に侵攻して北條氏直と爭うが、北信濃四郡の割讓を條件に北條氏と講和。その後、信長の天下統一事業を繼いだ柴秀吉と好を通じた。

・天正十四年(1586)六月、上洛して秀吉と會見、養子の畠山義眞(當時は上杉姓)を人質として差し出して臣從、命脈を保った。その際に、越中國と上野國の領有を放棄、かわりに佐渡、出の切り取りを許可される。さらに景勝は正親町天皇に拜謁して右近衞少將に任じられた。

・天正十八年(1590)、秀吉の北條小田原征伐にも、山浦景國を先鋒として出兵し、前田利家や眞田昌幸らとともに、上野、武藏の北條方城を攻畧。

・文祿元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵が始まると、五千人を率いて肥前國名護屋に駐屯、翌文祿二年(1593)の六月六日から九月八日まで、秀吉の名代として家臣の梨親らを伴って渡鮮。

・文祿三年(1594)、權中納言となり、「越後中納言」と呼ばれた。

・文祿四年(1595)、豐臣家五大老の一人小早川景が家督を小早川秀秋に譲り隱居したため、空いた五大老に景勝が任命された。

・慶長三年(1598)、秀吉の命により會津百二十萬石に加移封され、以後は「會津中納言」と呼ばれた。景勝は要となる米澤城に家老の直江兼續を配置、對伊達政宗の最前線の白石城の甘糟景繼、島城の本庄繫長、梁川城の須田長義、東禪寺城の志駄義秀を指揮させた。

・慶長三年(1598)八月、秀吉が死去すると、家老の直江兼續が五奉行の石田三成と懇意にあった事などの經緯から川家康と對立。九月、秀吉の葬儀のため、上洛。慶長五年(1600)二月になると、景勝は夏までに領内城の補修を命じ、三月になると鶴ヶ城が將來手狹になると考え、會津盆地のほぼ中央に位置する指に新城の建築を命じた。四月、家康から上洛して領内城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られる。この際、兼續による挑發的な返答が、家康の會津征伐を煽ったとされる。世に名い「直江狀」である。家康は大軍を率いて景勝討伐に出陣、景勝は指城の突貫工事を命ずるも、六月になると普請を中斷して家康軍の對應にあたる。七月、討伐に向かった家康の留守中に三成らが擧兵し(關ヶ原の戰い)、家康が西上するとなると會津から出兵。東軍に與した伊達政宗や最上義光らと戰った。しかし、九月十五日の本戰で三成ら西軍が敗れたため、十二月、家康に降伏。慶長六年(1601)二月上旬、家康は結城秀康のとりなしで豐光寺の西笑承兌を介し、兼續に音信させ、景勝の上洛陳謝を促した。景勝が兼續と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存續は正式に許された。改易は免れたものの、置賜、信夫、伊達の三郡からなる出米澤三十萬石の藩主として減移封され、上杉家は景勝一代において北信越の大大名から出半國の一大名へと沒落。

・減封後は米澤藩の藩政確立に尽力。

・慶長十九年(1614)正月、松平忠輝の居城田城築城の際、伊達政宗の指揮の下天下普請を行なった。

・慶長十九年(1614)十月、豐臣家が川家の江戸幕府への臣從を拒み起こった大坂冬の陣において、川方に起請文を提出し、先發した直江兼續とともに出陣。さらに、翌年の大坂夏の陣では京都警備を担當し、八幡山に布陣した。

・元和九年(1623)三月二十日、米澤城で死去。享年六十九。

・感情を表に出すことがほとんどなかったといわれる。ある時、飼っていた猿が景勝の座に座って、もっともらしくうなずいたり、部下に指圖したりといった自分の物まねをしていたのを目にし、そのあまりの可笑しさに思わず笑みをこぼしたが、これが生涯でただ一度家臣たちの目前で見せた笑顏であったという。

・かなりの愛刀家で、卓越した鑑定眼を持ち、特に氣に入ったものから選抜した『上杉景勝御手選三十五腰』と呼ばれる目錄にまとめており、収集物には國寶や重要文化財が多數含まれている。

・景勝が秀吉に招かれて上洛するとき、數百の供を連れたが、上杉兵は將兵共によく威信が行き届いており、行軍中は無駄口を叩かず粛然としており、人馬の步む音がするだけだったという。


((コメント))
2008年6月14日

 宰相直江山城守兼續とのコンビが非常に有名。個人的には、上杉謙信よりもはるかに好きで、威嚴のある人であったと思っている。川家康に面と向かって關が原合戰のときに東北で喧嘩を賣った一人であり、その强さは誰も否定しない。



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