金山城大手虎口の石垣
国指定史跡金山城跡は、Wikipediaによれば、
新田金山城は、群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、全山アカマツに覆われた金山に築かれた山城である。別名「太田金山城」、「金山城」。
金山の頂上にある山城であり、現在は、本丸跡とされている地点に新田神社がある。背後の斜面には石垣の一部が遺存しており、往時のようすを現在に伝える。関東平野を一望に収めることができ、西方は一段低くなっており「日ノ池」「月ノ池」がある。西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、これら曲輪につながる尾根群には堀切が設けられている。
1469年(文明元年) 新田一族であった岩松家純によって築城される(新田義貞築城説もあるが、最近行われている発掘調査ではその時代の遺構や遺物は検出されていない)。以降、1528年(享禄元年)に由良成繁・国繁親子、1584年(天正12年)には北条氏と主は変わったが、上杉謙信の攻撃を退けるなど、関東七名城の一つとされる。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際攻撃を受けて落城、こののち廃城となった。
また、太田市の案内によれば、
標高239mの金山山頂の実城(みじょう)を中心に、四方に延びる尾根上を造成、曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守った戦国時代の山城です。特筆されるのは、石垣や石敷きが多用されていることで、従来、戦国時代の関東の山城に本格的な石垣はないとされた城郭史の定説が金山城跡の発掘調査で覆されました。
主な曲輪群は実城・西城・北城(坂中・北曲輪)・八王子山の砦の4箇所ですが、山麓にも城主や家臣団の館・屋敷があったと考えられ、根小屋(城下)を形成していたと見られます。と、夫々記されています。
駐車場:有(無料) 太田市公式ホームページ
史跡金山城跡の案内図(クリックすると拡大します)
西矢倉方面へ、いざ、出陣! 西矢倉への堀切
物見台下虎口と硬堀
馬場下通路 物見台へ
物見台からの視界
三の丸下から二の丸を望む(建物は復元された武器庫) 月の池
復原された総石垣の大手虎口 二の丸から三の丸方面を望む
日の池と武器庫
本丸跡には前回紹介した「新田神社」が建立されている 西矢倉へ通じる桟道
史跡金山城跡 地図
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