そぞろ歩き 2

彩の国を中心に、身近な自然や歴史あるいは文化的スポットを訪ね、その魅力を写真等でご案内。

さいたま文学館(埼玉・桶川市)

2009年10月25日 | Weblog
「さいたま文学館」(桶川市民ホール併設)正面

 高崎線「桶川駅」西口を出て、そのまま西へ3分程直進すると緑とオブジェのある「駅西口公園」に行き着く。
 「さいたま文学館」は、この西口公園内に「桶川市市民ホール」とともに建つ。文学館は同ホールの1階および地下1階にあり、埼玉ゆかりの文学者たちの展示等が見られる。
 1階展示室では、ビデオやパソコン地図によって「埼玉の文学」を分かりやすく解説している。
 地下1階の展示室では、田山花袋・安藤鶴夫をはじめとする埼玉ゆかりの文学者19人の遺品・原稿などを展示するとともにコレクションとしても貴重な永井荷風の資料が常時展示されている。
 また、企画展示室では12月6日(日)まで、田山花袋の「“田舎教師”から100年」をテーマに企画展が開催されている。
 文学好きのあなたにとっては一度は訪ねたいところであろう。
 

 企画展 田山花袋の「“田舎教師”から100年」のポスター(画像をクリックしますと拡大します)
  さいたま文学館公式HP
  観覧料:210円(65歳以上、障害者手帳有りの方 無料)  駐車場:有(1時間超え 有料)

 
緑と空間、そしてオブジェのある駅西口公園

 
玄関を入ると正面に桶川市民ホールおよび市民ギャラリー 右手にさいたま文学館がある

 
1階展示室 彩の国の文学作品等がビデオで見る事が出来る

 
地下1階展示室
左は永井荷風のコレクションを初めとした埼玉ゆかりの文学者の作品等が展示されている
右は企画展の田山花袋の「田舎教師」についての展示コーナー


さいたま文学館 地図(「地図」もしくは「ユーザ地図」をクリックすると大きい地図にジャンプします)

郷学「二賢堂」があった氷川鍬神社(埼玉・上尾市)

2009年10月18日 | Weblog
氷川鍬神社 拝殿

 高崎線「上尾駅」東口を出ると右手にM百貨店が見える、この「氷川鍬神社」はこのM百貨店に隣接して隠れるように?鎮座されている。
 歴史や江戸期の教育に詳しいS女史からお聞きした、上尾市のH.P「上尾の寺社」によれば、氷川鍬神社は、明治末期の神社の合祀(ごうし)以後の社名であり、古くは御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた。一般には「お鍬さま」と呼ばれ親しまれているが、江戸初期の万治のころ(1658~61年)創建されたともいわれる。伝承によると、3人の童子が鍬2挺と稲束を持ち、白幣(はくへい)をかざし踊り歩いて上尾宿に来て、童子たちはいずこにか消え失せたが、残された鍬を本陣の林宮内(くない)が祭ったという。まことに楽しい心温まる話であるが、宮内は幕末の人で、本陣の当主は林八郎右衛門であろう。童子の残した白幣を神幣(みてぐら)として納め、「群参(ぐんさん)日を追っておびただし」と伝承は伝えている(『新編武蔵風土記稿』、『御鍬太神宮略由来』より)。
 この氷川鍬神社は、上尾宿の鎮守でもあるが、境内には天満宮も祭られている。鳥居をくぐって参拝すると、右手に市指定文化財の「上尾郷二賢堂(にけんどう)碑記」と「雲室上人生祠碑頌(うんしつしょうにんせいしひしょう)」が建立されているのが目に付く。これが、江戸時代の小さな宿場町にしては極めてハイレベルな学びの場を提供した、かつての郷学の跡地であったことを証している(『上尾の指定文化財』)。
 この地に創設された「聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)」は、天明8(1788)年に江戸で名の知られた学僧雲室上人を招いて開かれている。聚正義塾の堂舎は、宿内や近村の人々が資材を持ち寄り、労力を提供して建てられ、朱文公(しゅぶんこう=朱子)と菅公(かんこう=菅原道真)を祭ったところから「二賢堂(にけんどう)」と称されている(地元では「じけんどう」とも言う)。当時江戸の昌平黌(しょうへこう)の主宰者である林大学頭信敬(はやしだいがくのかみのぶたか)が、「二賢堂」という扁額(へんがく)を記しているが、開講日には、昌平黌の都講(とこう 塾頭)で文人として高名な市河寛斎(いちかわかんさい)も招かれている。寛斎は門人の小島梅外(こじまばいがい)を連れて上尾に向かうが、このとき「雨夜上尾道中(あめのよのあげおどうちゅう)」という漢詩を記している。詩には「蕎花爛漫野田秋(きょうからんまんたりやでんのあき)」と、美しい道中の風景を詠んでいる(『上尾市史』第3巻収録の『雲室随筆』、『江戸詩人選集』第5巻より)。
 多くの著名な知識人の援助のあった聚正義塾であるが、雲室は3年ほどで江戸に去り、後は地元の文人でもあった山崎碩茂(せきも)が引き継ぐことになる。 と、記載されている。
 それにしても、郷学ともいえる公立的な学校が運営されたことは、地元の人々が教育熱心であったからであろう。 と、S女史は話されていた。
 

 氷川鍬神社 案内(画像をクリックしますと拡大します)  駐車場:無

 
旧中山道に面した境内から参拝  境内右手にある聖徳太子像(クリックすると拡大します)

 
上尾郷二賢堂碑記(クリックしますと説明文があります) 碑文(クリックしますと拡大します)

 
境内にある浅間大神       雲室上人生祠碑頌

氷川鍬神社 地図(「地図」もしくは「ユーザ地図」をクリックすると大きい地図にジャンプします)

赤山城址(赤山陣屋跡 埼玉・川口市)

2009年10月11日 | Weblog
赤山城址(赤山陣屋跡)碑

 赤山城址(赤山陣屋跡)は、江戸幕府の関東群代として新田開発・治水事業に貢献した伊奈氏の陣屋跡で川口・安行の丘陵地の東京外郭環状自動車道路脇にある。
 赤山城址の案内板等によれば、
 伊奈氏は、家康関東入国と共に鴻巣・小室領1万石を給され、三代忠次以後12代にわたって関東郡代職にあり、関八州の幕領を管轄し、貢税、水利、新田開発等にあたった。三代忠治の時に、赤山領として幕府から7千石を賜り、寛永6年(1629)に小室(現北足立郡伊奈町)から赤山の地に陣屋を移したとされる。
 陣屋と言っても総面積は77万平米もあり、正に赤山城と言っても過言ではない。
 赤山陣屋の堀は、周囲の自然の低地を外堀に利用(この自然低地は総延長約3km深さ10mの湿地帯であったため、足場が悪く、堀の機能を充分備えていたと言われている。)し、内側に人口の内堀を巡らせていた。
 以来、10代163年間、伊奈氏が居城したものであるが、寛政四年(1792)12代忠尊の時、幕府政治の変化と家中の騒動がもとで改易され、赤山陣屋も廃止された。このため陣屋の建物や家臣団屋敷は取り壊されて畑地となり、今は空堀や土塁そして社寺を残すのみとなり、「強者どもの夢の跡」となってしまっている。
 なお、社寺には、山王神社(学問の神様である天神社、武家の守護神である八幡社、そして徳川に縁の深い山王社によって構成、明治になり合祀、赤山村の村社として祀り現在に至る)と、伊奈家の菩提寺である源長寺がある。
  赤山城絵図(出典 「余湖くんのホームページ」より、画像をクリックしますと拡大します)
  赤山城址(赤山陣屋跡) H.P   駐車スペース:有

 
赤山城址(赤山陣屋跡)碑にある案内板(両画像ともクリックすると案内板が見えます)
 
東堀(赤山城絵図のD位置)        南堀(赤山城絵図のA位置)
 
西堀(赤山城絵図のC位置)   山王神社(日枝神社)拝殿、本殿は一段と高い位置に鎮座する

赤山城址(赤山陣屋跡) 地図(「地図」もしくは「ユーザ地図」をクリックすると大きい地図にジャンプします)

お灸の寺“金剛寺”(埼玉・川口市)

2009年10月04日 | Weblog
金剛寺茅葺き山門


 この金剛寺も安行八景の一つに数えられている曹洞宗の寺院。かっては僧侶修行道場の格式を持ち、江戸時代には大いに栄えたと言われている。
 現在では「お灸の寺」として広く知られている。 茅葺き屋根の山門は約400年前に構築された桃山様式を取り入れた四足門で、川口市内最古の棟門で、川口市の指定文化財となっている。
  由緒ある扁額(画像をクリックしますと拡大します)
  駐車場:有(無料)
  金剛寺 H.P


 
長い参道の突き当たりに山門、その奥に本堂がある(両画像ともクリックすると案内板が見えます)
 
グリーン芝生の境内に映える、本堂と鐘楼

金剛寺 地図(「地図」もしくは「ユーザ地図」をクリックすると大きい地図にジャンプします)