下谷摩利支天はビルの上に鎮座
下谷摩利支天 徳大寺、同寺のH.Pによれば、
JR山手線、御徒町駅~上野駅間の車窓からよく見える朱塗りのお堂、それが摩利支天徳大寺、通称 下谷摩利支天(シタヤマリシテン)です。賑やかな商店街の中にたたずむこの徳大寺の歴史は、いまから約600年前の昔にさかのぼります。
もともとの徳大寺の前身は、現在の上野公園の中に室町時代初めの応永年間、慈光院日遣上人によって建立された、小さなお堂であるとされています。その当時、上野公園はまだ木々の鬱蒼とした山であり、その山中に上野村という名の小さな集落がありました。その上野村こそが、現在の上野の街の始まりなのです。
時が流れ江戸時代、徳川家康の江戸入府とともに上野村にも変化が起こりました。上野の山に寛永寺が建立されることとなり、上野村は代地をあてがわれ、現在の上野広小路周辺へ移転、下谷上野町となったのです。その幕命には当然徳大寺の移転も含まれ、現在の上野広小路付近に建立されたのが寛永年間の頃と伝えられています。
その歴史の途中、開運勝利の御守護神 摩利支天(マリシテン)様が、寺門の守護として安置されました。聖徳太子の御作と伝わる御尊像に開運吉祥の御利益を授かろうと、多くの江戸の人々が参詣に訪れ、いつしか大寺の門前通りは下谷の摩利支天横丁と呼ばれるようになりました。池波正太郎の『鬼平犯科帳』、平岩弓枝の『御宿かわせみ』などの作品に、当時の様相が描かれています。
その後、幾度と江戸の大火の類焼に遭いながらも、摩利支天様のご加護のもと、その度に本堂の復興を果たして来ました。 と、記されています。
本堂 威光殿の額は吉田 茂元首相の書による
阿吽の狛犬 中央の案内をクリックすると拡大します
境内もビルの上(日蓮聖人立像 七面さま 妻恋地蔵)
下谷摩利支天はアメ横(御徒町駅側)から2~3分
下谷摩利支天 徳大寺 地図
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