そぞろ歩き 2

彩の国を中心に、身近な自然や歴史あるいは文化的スポットを訪ね、その魅力を写真等でご案内。

郷学「二賢堂」があった氷川鍬神社(埼玉・上尾市)

2009年10月18日 | Weblog
氷川鍬神社 拝殿

 高崎線「上尾駅」東口を出ると右手にM百貨店が見える、この「氷川鍬神社」はこのM百貨店に隣接して隠れるように?鎮座されている。
 歴史や江戸期の教育に詳しいS女史からお聞きした、上尾市のH.P「上尾の寺社」によれば、氷川鍬神社は、明治末期の神社の合祀(ごうし)以後の社名であり、古くは御鍬太神宮(おくわだいじんぐう)と称されていた。一般には「お鍬さま」と呼ばれ親しまれているが、江戸初期の万治のころ(1658~61年)創建されたともいわれる。伝承によると、3人の童子が鍬2挺と稲束を持ち、白幣(はくへい)をかざし踊り歩いて上尾宿に来て、童子たちはいずこにか消え失せたが、残された鍬を本陣の林宮内(くない)が祭ったという。まことに楽しい心温まる話であるが、宮内は幕末の人で、本陣の当主は林八郎右衛門であろう。童子の残した白幣を神幣(みてぐら)として納め、「群参(ぐんさん)日を追っておびただし」と伝承は伝えている(『新編武蔵風土記稿』、『御鍬太神宮略由来』より)。
 この氷川鍬神社は、上尾宿の鎮守でもあるが、境内には天満宮も祭られている。鳥居をくぐって参拝すると、右手に市指定文化財の「上尾郷二賢堂(にけんどう)碑記」と「雲室上人生祠碑頌(うんしつしょうにんせいしひしょう)」が建立されているのが目に付く。これが、江戸時代の小さな宿場町にしては極めてハイレベルな学びの場を提供した、かつての郷学の跡地であったことを証している(『上尾の指定文化財』)。
 この地に創設された「聚正義塾(しゅうせいぎじゅく)」は、天明8(1788)年に江戸で名の知られた学僧雲室上人を招いて開かれている。聚正義塾の堂舎は、宿内や近村の人々が資材を持ち寄り、労力を提供して建てられ、朱文公(しゅぶんこう=朱子)と菅公(かんこう=菅原道真)を祭ったところから「二賢堂(にけんどう)」と称されている(地元では「じけんどう」とも言う)。当時江戸の昌平黌(しょうへこう)の主宰者である林大学頭信敬(はやしだいがくのかみのぶたか)が、「二賢堂」という扁額(へんがく)を記しているが、開講日には、昌平黌の都講(とこう 塾頭)で文人として高名な市河寛斎(いちかわかんさい)も招かれている。寛斎は門人の小島梅外(こじまばいがい)を連れて上尾に向かうが、このとき「雨夜上尾道中(あめのよのあげおどうちゅう)」という漢詩を記している。詩には「蕎花爛漫野田秋(きょうからんまんたりやでんのあき)」と、美しい道中の風景を詠んでいる(『上尾市史』第3巻収録の『雲室随筆』、『江戸詩人選集』第5巻より)。
 多くの著名な知識人の援助のあった聚正義塾であるが、雲室は3年ほどで江戸に去り、後は地元の文人でもあった山崎碩茂(せきも)が引き継ぐことになる。 と、記載されている。
 それにしても、郷学ともいえる公立的な学校が運営されたことは、地元の人々が教育熱心であったからであろう。 と、S女史は話されていた。
 

 氷川鍬神社 案内(画像をクリックしますと拡大します)  駐車場:無

 
旧中山道に面した境内から参拝  境内右手にある聖徳太子像(クリックすると拡大します)

 
上尾郷二賢堂碑記(クリックしますと説明文があります) 碑文(クリックしますと拡大します)

 
境内にある浅間大神       雲室上人生祠碑頌

氷川鍬神社 地図(「地図」もしくは「ユーザ地図」をクリックすると大きい地図にジャンプします)