キマグレ競馬・備忘録

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教養について考える

2021年12月01日 | Book
先日、教養というタイトルがついた本を読んだので、少し考えてみました。
今までこの手の教養本はいろいろ読んでみたけれど、読めば読むほど判らなくなった。
読書が習慣となり始めた頃(30年前)は、哲学や思想、道徳やその周辺知識の習得を説いた本が多く、有名な知識人の考え方を知っているということが重要だったように思う。 どんな相手とも議論できる背景知識を習得した人が教養のある人と言われていた。
90年代バブルの頃には、芸術、音楽、美術の聴き方や見方、読んだ本の数や 聴いたCD の数 、本やCD を何枚持っているかなどを教養という本もあった。 どちらかと言えば、底の浅いモノ自慢。(今もこの手の本は多い) 海外との交流が活発になると、外国語の習得、海外でのマナーや実体験も重要視され、何カ国行ったとか、何ヶ国語喋れるとか、更にはパソコンが使えるということを教養という本もあった。 情報に簡単にアクセスできる現代では、ただ知ってるだけでは教養にならない。最近の本では、ネットで検索する力も教養の一部という本もあるし、教養と称して雑学的な蘊蓄を披露する本もある。現代の教養とは何か、知ろうとすればするほどわからなくなる。著者によって定義が違うからだ。(そういう著者は教養人のつもりだが)
自分自身は、教養とは人と上手くやっていくために身につけるべき流儀であると思う。それは知識、経験、態度などを含めた総合的なものであり、習得するには大変時間がかかるものだ。また教養は他人に自慢することではない。教養本でよくある教養自慢は、教養がない人がやることではないかと思う。
因みに自分も、若い頃は教養のある人間になりたいと思い、教養本に従って知識習得に励んだ時期があった。会社の後輩との会話の中で、勉強した知識や蘊蓄を披露したら「雑学王ですね」と言われてショックだった。教養と雑学は紙一重。中途半端に蘊蓄を語る自分を、教養ではなくただの雑学と受け取った後輩の意見が正しいかもと思って恥しくなった。

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