この絵の天使にも、モデルがいます。
ですが、あまり似ませんでした。
本人はもっと分厚く、迫力があります。
この絵柄では、実像を伝えるのが難しいですね。どうしてもかわいらしくなってしまう。
でも面白いので、また誰かを描いてみたいと思います。
月の世の物語から借用しました。
菊の木などは存在しませんが、描いてみればとても美しい。
こういう絵を描くと、馬鹿はいやがりますよ。なぜというに、菊花の霊魂は、馬鹿にとても痛いことをするからです。
部屋に飾っておくと、魔除けになるかもしれません。
青城澄
原題「釈尊」
人間にはもう人間を再生する力がなくなった。
ゆえに神は人間世界に天使を遣わした。
それは無力な一人の女だった。
だがかのじょは、自分の美しさを信じ、ただまっすぐに自分を生きた。
ただそれだけだったが、その美しさに震撼した馬鹿どもは一斉に狂い、かのじょに総攻撃を加えた。
人間が作ったどんな虚偽の美も財も、あれの前には馬鹿にしか見えなかったからだ。
かのじょはどんな嵐にもびくともせず、最後まで自分の真をつらぬいて死んだ。そのかのじょ自身の姿が、まごうかたなき芸術となった。
かのじょはレオナルドのように高い技術を学ぶことはできなかった。だが、生き方そのもので、ひとつのすばらしい女性像を描いた。
それが、人類の救いだったのである。
ここから新たに、人間は自分を生き始めることができる。
あなたがたは、人間を、神がどんなに愛しているかということを、知らねばならない。
あなたがたの魂がどんなむごい暗闇に落ちようと、高いところから来る者はいる。
それが、あなたがたの未来を保証する、神の救いなのである。
ヴィンセント・デジデリオ
これはもうとんでもない馬鹿である。画家がこれを芸術だと偽り、それで大きな収入とステータスを得ているからだ。
画家自身は何もやってはいない。本霊は座っているだけで、バックにいる霊たちが集団でこの絵を描いているのだ。だから愛も思想も何もない。技術があるだけだ。だが実際のところ、地上の人間の表現では、ここまで写実的に描くことは不可能なのである。
恐ろしく非人間的な嗜好をそのまま、超絶的な技巧で描いている。人間を物体にして平気なのだ。性欲と動物的エゴがむき出しになっている。人間の心を感じないのは、これが集団霊の合作であり、本人の心は全く何もしていないからである。
これに比べればまだウォーホルはましだ。自分で作業をしているからである。
裸の霊魂に他人から盗んだ存在を着せ、自己活動をすべて他の霊がやり、すべてを嘘で作りあげたという、虚無よりも背徳的な存在が表現した世界がこれである。
昔から、霊的ずるで芸術家の顔をしてきた馬鹿はいたが、ここまでくるともう人間というよりも、ハイエナの所業だ。最も汚い馬鹿をやって、女神をさらおうとしているからである。
馬鹿はとうとう、芸術を豚にしたのだ。
アンディ・ウォーホル
原題「ヴィーナスの誕生」
人間は自己を失い、自己活動ができなくなり、芸術は模倣に堕した。
どんなに理論理屈を練ろうとも、これは立派な盗作である。
芸術家は自分の感性をほとんど使っていない。何も生み出していない。
これを芸術としなくてはならないほど、馬鹿はきついことになったのだ。
もう人間には人間を再生することができない。
人間はそこまで堕ちた。
そしてとうとう、神がやってくるのである。
グレゴリー・ギルスピー
原題不明
これは自己の崩壊状態の中をさまよう人間の姿である。
ないままの自分を抱え、呆然と生きねばならない人間の姿である。
このまま人間は消滅するのか。だが全く消えていこうとするとき、人間は自分の奥に、確かにそれに反論するものを感じるのだ。
それがいら立ちを産む。
再生の可能性が、そこからわずかにもたげてくる。
マーカス・ハーヴェイ
原題「犬」
これは自己存在を仮定された消滅状態に陥れ、馬鹿になった人間がやっていることである。
人間は超えてはならない虚無の壁を越え、無理矢理自分というものを消してしまった。ゆえに狂気に落ちて、好きなことをやるようになった。
自己存在の放棄よりも愚かなことである。
彼は自ら消えたものになり、自分が自分である責任を放棄し、自分が最も嫌がることを自分にやらせているのだ。
それを苦しいと思うことも、自分に許さない。
人間の魂は今、ほとんどこのような状態にいるのである。