世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

わたしは

2017-06-30 04:17:39 | 冬の日差し・夏の月


やあこれは勇猛ですね。わたしにしては珍しい絵を選んでみました。もちろん戦艦大和を描いた絵です。

わたしたちは常にいろんな絵を捜しています。アルヤは印象的な女性の絵を探していますし、ベネトナシュはおもしろい動物の絵を、彼は天使の絵を捜しています。その最中で、わたしが好きそうな絵を見つけたら、とっておいてくれと頼んであるのです。

わたしも毎回絵を掲げてエッセイを書いていますが、じつは多くは自分で絵を選んでいるのではありません。他の仲間がわたしの趣味を考えて、これはスピカが好きそうだととっておいてくれるのです。それでわたしは、その絵についてエッセイを書くわけですが。

なぜかその中にこんなのが入っていたわけです。なぜこんなのがあるのか。選んだ仲間に聞いてみたいところだが、当人が今ここにいないのでわかりません。

大和と聞くと、宇宙戦艦ヤマトを思い出しますね。あれは本当は、霊的世界からの盗作なのだが、作品自体のテーマはなかなかよいと思っています。滅びに瀕した地球を救いたいという、美しい女性の言葉を信じて、男たちが船を作って救いの方法をとりにゆく。実に美しい。

旅は苦しい戦いの連続だ。いつでも邪魔する馬鹿が真実の人間を苦しめる。どんな悲劇も矛盾も耐えていかねばならない。信じる心を貫いて、真実の愛を歌う永遠の女性の星を目指すのだ。

馬鹿なことだとは言ってはいけませんよ。本当に、女性というのは、男よりもずっと高い真実を知っているものなのです。どこに行けば、何をすれば、本当にいいことになるか、男よりも女性の方が、いいことを知っているのです。

そういう女性には、一番大事な時には、男は頭を下げねばならないのです。それができてこそ、男はまことに高いものになれる。いやだと思っていては永遠に美しい男には慣れません。

わたしは、イスカンダルのスターシァ。
ヤマトのみなさん、ようこそいらっしゃいました。

かのじょが昔、ミクシィでこの言葉を引用していましたね。あなたがたがかのじょの真実を信じて、頭を下げて教えを乞うことができるほど、成長していれば、あんなことにはならなかったのです。

わたしは、愛の真実に根をはり、まっすぐに神の天にのびる樹木だ。
曲がることができない。

かわいいでしょう。愛おしいでしょう。今になればわかる。どれだけ愛していたかが。

あれほど何度も、人類を救いたいのだと言っていたのに、誰も信じなかったから、こうなった。

本当の世界では、ヤマトはスターシァの言葉など信じず、最後まで何もしなかったのです。





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女性的美

2017-06-29 04:18:35 | 冬の日差し・夏の月


これは以前、ツイッターで使用された絵ですね。タンツィオ・ダ・ヴァラッロというバロックの画家が描いたダヴィデです。画家が知りたいという人がいたので、一応書いてみました。

なかなかに美しい少年ですね。まだ10代でしょう。10代のころには、こういう、女性も負けそうなくらいの美しい少年が、時々いますよ。今どきはたいていが偽物ですが、本物もまれにいます。なぜこうなるかというと、女性のような修行をした魂だからです。

男のように勇猛なことではあるが、女性のように、すべていらないといって神にささげると、こんな風になってくるのです。人に下になり、我慢することもいとわなかった。きれいなことをした。馬鹿にされても耐えた。男の人でも、そういう女性的な修行を重ねると、こんな風に女性的に美しくなってくるのです。

しかしこんな風になってしまうと、いろんな人に目をつけられてしまうものですから、本人はつらい。ですからたいていの少年は、男になろうとかなり痛いことをします。そして自分を男っぽくしてしまうのです。

こんな風に、女性的であることは、男にはけっこうきついものなのですよ。男性の中には、結構女性的に美しくなりたいという願望を持っている人がいるものなのだが、盗みではなく、本当に修行をしてそうなろうとすると、大変な試練が待っているのです。美しすぎる男というものが好きな馬鹿が、いやなことをしようとして狙ってくるからです。がんばって男らしいことをしようとしても、あらゆる妨害をされます。それはもう、いい女をだましていいことをしたいと考えるような馬鹿が、いろんな邪魔をするのです。

大変でしょう。天使であれば、ど根性で行けば何とかなるかもしれないが、性別のある人類ではとても難しいと思いますよ。女性的な美しさは女性にまかせ、男性は本来の男性的な美しさを追い求めるほうがいいというのが、わたしの意見です。

まあ、彼は、やりたいものはやっても別にとめないと言いますがね、わたしはあなたがたのために、止めるほうに回りましょう。やらないほうがいい。それはとても苦しい道ですから。

かのじょは、あれでいて、きんきんに硬い男なのですよ。まじめ一筋、曲がったことなど、事実上一度もない。そんな人だからこそ、ああなってしまったのです。

真似してみてもいいですが、これはきついと思ったらすぐにやめなさい。やめてもだれも責めませんよ。本当の自分は違うのだと思った方が、正しいのです。





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星の金貨

2017-06-28 04:17:10 | 冬の日差し・夏の月


本館でアルヤが星の金貨をとりあげていたので、わたしも別の絵をあげてみました。自分の持っているものをすべて人にあげてしまった女の子。裸で寒そうにしていたら、空から星が金貨になって落ちてきたのです。

本館の「幻の少女たち」もおもしろくなってきたでしょう。彼はそういう感じの人です。地味にこつこつとまじめにやっているうちに、いつの間にかそれが当然になってきて、もう別れられなくなってくるという人なのです。いいことをなんでもやってくれる。さりげなく気の利いたことを言ってくれる。とても助かっているのだが、あまりに地味なので、普段はよくわからない。アルヤはそういう人なのです。

かのじょとは全然違うでしょう。地味なことではかのじょも共通しているのだが、ひどいのは、かのじょはそれでかえって際立って目立ってしまうところです。普通にまじめに、わき役的に生きているのに、なぜかいつの間にかど真ん中に座らされているんですよ。あの人にはそんな人生が多いのです。

まじめに地道にやっているだけなのに、なぜか周りが異常に騒いでしまう。それでとんでもなく派手な人生になるということが多いのです。なぜか。それはわかっているでしょう。人間が、あの人を好きだからです。

あなたがたはあの、ほとんど女性なのに男性だという天使が、一番好きなのです。

好きならばそれなりのことをすればいいものを、馬鹿にするばかりだから、つらいことになる。痛いほど勉強をしてこなかった男は、好きな女性にアピールできるほどのものもない。だから集団になって影からいじめるなんてことをしてしまったのだが、ちょっとひどすぎましたね。

かのじょはあなたがたのために、すべてを与えてしまった。自分のものは何もなくなるほど、与えてしまった。それなのにあなたがたはいまだに、かのじょのために何もしようとしないのだ。だから、空から星が降ってきたのです。

もう我慢がならないと、神が降りてきたのです。





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神の愛

2017-06-27 04:17:36 | 冬の日差し・夏の月


今日はかのじょの誕生日です。1962年の今日、かのじょはこの世界に産まれてきました。今は2017年ですから、この存在はもう55歳になりますね。ですがかのじょは事実上、2013年の誕生日に死んでいます。あの日以来、この存在はもうあの人ではないのです。

もうわかっているでしょうが、時が立ってくるにつれ、つらくなってくるでしょう。馬鹿なことをしたことがわかってくるにつれ、冷たい風が吹いて来るでしょう。身にも心にも。だが耐えていかねばならない。やってしまったことはもう取り戻せないのです。

表題の絵は、トケイソウです。裏庭でベネトナシュがやってくれていますが、誕生花というものがありますね。どこが決めたのだかは知らないのだが、一年365日それぞれに、花があてがわれているのです。その季節に咲く花を、その日その日に誕生花として設定している。つまりは、今日の誕生花が、トケイソウというわけです。花言葉は神の愛。

どうもこの花の形が、キリストの十字架と、頭光を思わせるかららしい。確かにおもしろい花です。英語ではパッション・フラワーという。パッションはキリストの受難という意味ですね。

あの人が生まれた日にこんな花があてがわれているのは、偶然ではないような気がしています。結局はあの人も、イエスのように、人々に馬鹿にされて死んでいったからです。最後まで愛をつらぬきながら、決して理解してもらえなかった。

人間は、2000年経っても、まだ変わることができなかったのだ。自分よりいいと感じて嫉妬して殺してしまうという、野獣じみた心を脱ぐことができなかったのだ。

イエスはまだ帰ってきてくれる可能性がある。だがあの人だけは、どんなにがんばっても無理なのです。法則的に、痛いものが崩壊してしまったからです。「痛いもの」というのは、この世界ではそんな感じにしか言えないものです。大事にしなければならないのに、みんなが馬鹿にするもののことだ。

だが、一つの時代が終わっても時は止まってはくれない。いつでも明日は開けてくる。パッション・フラワーの和名がトケイソウであるのにも、不思議な意味を読み取れそうだ。

この不思議な花が終われば、美しい実がなるそうです。食べればおいしいらしい。しかしその味はどんなものだろう。キリストの血がこごった味だと思えば、食べるのが恐ろしいような気もする。

だが、人間はいつか必ず、その実を食べねばならないのです。





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ひなげし

2017-06-26 04:17:10 | 冬の日差し・夏の月


きれいなひなげしの野ですね。やはりかのじょという人を表すには、ひなげしがいい。かわいらしくてはかなげだ。梅のように誇り高くはない。ばらのような棘もない。いつもはかなく散っていき、いつの間にか溶けるようにいなくなっている。

目立たないようでいて、華やかな色もしている。きつい香はない。風に揺れ、いつも天を仰いでいる。そんな感じの人だったでしょう。

男の人だというのに、まるで幼女のようにかわいらしいのだ。そんなになるまで、あの美しさを貫いてしまった男性は、今のところ、あの人だけです。あんなふうに美しくなりたい男性はいるでしょうが、わたしもあまりお勧めはしません。ほんとうに、厳しい道だからです。

百合が書いてくれた「お釈迦様」は、そんなかのじょの作風に倣ってはいますが、決定的に違うところがあります。お釈迦様が、最後まで髪を切らなかった娘を、ハリネズミに変えてしまうところです。こういうことは、かのじょには書けません。ご都合主義的だが、もしかのじょが書けば、最後はみんなが自分から切ってしまったという結末にするでしょう。そこがあの人の甘いところなのです。

みんなが、本当に美しいこと、正しいことを理解してくれる。あの人はそんな甘い夢を見ているようなところがある。だが、現実とはそんな甘いものではありません。どんなに言い聞かせても、間違った方向に行ってしまう者はいるのです。そういうものには、厳しいこともせねばならないというのが、本当です。

お釈迦様も実に暖かいお優しい方だが、かのじょとは違う。ここまで言ってもわからないのか、というところがくれば、きつい鉄槌を下すこともある。それがお釈迦様なのです。イエスより厳しい。

イエスでもそれなりの罰はやるでしょうが、ハリネズミに変えるまでのことはしないでしょうね。そこらへんが個性というものです。

だが、その甘さというのが実に、かのじょのいいところでもあるのです。なぜなら、甘い考えで、人類を信じ切っているかのじょだからこそ、最後まで生き抜くことができたからです。馬鹿になってでも、自分をきつく折ってでも生き抜いてくれたのは、あの甘い考えで、人類を信じていたからです。最後は絶対にわかってくれると。

あの人が、何も知らないうちに何もかもを忘れてしまったのは、神の恵みです。実に。

これからの人間の運命は、あの時のあの人が知りもしなかった道に開けていくのです。





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ぬばたま猫

2017-06-25 04:16:51 | 冬の日差し・夏の月


犬を歌うには、枕詞が有用だが、猫はそうでもない気がしますね。それだけ美しいものをまとっているからでしょう。

ツイッターでよく詠われていた、「ぬばたまの猫」というのは、かのじょが昔考えていた童話のアイデアから発しています。

盲人の、見えない闇の世界に忍び込むことができる、不思議な黒猫のことです。目の見えない人は何も見えないが、その黒猫がその闇に忍び込むと、その不思議な黒猫の二つの金色の目だけは見ることができると言うのです。

おもしろいアイデアでしょう。かのじょがこれを考えていたのは、たしかまだ独身の頃でした。もう学校は卒業していて、実家で黒い猫を飼っていたのです。つややかな毛をしたかわいらしい猫でしたね。雄猫だったためか、すぐにいなくなってしまいましたが。あの頃はかのじょにとって一番どん底の時期でした。思い出したくないような出来事がたくさんあった。確かに、盲人が見る闇の中のようなところを生きていた。

迷いの風はいつも吹いていた。このまま自分をあきらめて落ちていけ、というささやきも聞こえた。だがかのじょは落ちなかった。自分をあきらめることなどできるはずがない。たとえどんなに苦しくとも、自分をきつく折らなければならないとしても、この本当の自分を立てていこう。

そんなことを考えるまでのまだ不確かな薄闇の心の中で、かのじょはこの「ぬばたま猫」を考えていたのです。

まったく、何もわからない暗闇の中に、忍び込んでくれる不思議な目のことを。いつでもおまえを見ていると、言ってくれているような、星のような目のことを。

何も見えない闇を見ているわたしを、誰かが見ている。その目に恥ずかしいことをするのは、つらい。

だからかのじょは立ち直ったのです。小さな猫の目ですら、人を立ち直らせることができる。あの美しい目の中には、確かにわたしを見ているものがいる。

それだけで人間は、助かることがある。





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にきしねの

2017-06-24 04:18:14 | 冬の日差し・夏の月


今年に入ってから、ムジカがツイッターでおもしろい活動を始めてくれました。彼は短歌を使って、この国に一つの芸術運動を起こしたいそうです。

上弦派芸術運動と名付けていますが、要するにそれは身を半分欠くほど不完全な自分の真実を受け入れて、本当の自分を表現していくという活動です。

わたしも賛同して参加しました。いろいろとわたしらしい歌を詠いましたね。見てくださったと思います。ほかの仲間には、あまり独自な個性を見せないようにしていたものもいますが、わたしはかなり自分を出しました。

個性を出さないようにしているのは、読む人の混乱をできるだけ小さくするためです。事実上、この媒体を利用している霊魂が、ちょっとたくさんいすぎるのです。みんなが個性を出しては、ちょっと痛い。ですから、自分を強く出すのを控えている人もいるのですよ。

その中で、自分の個性を出しているのは、かなり重要な責務を負っている人だと言えますね。大火の個性はすばらしいでしょう。押しつけがましいと思えるほど自分を出してくるのに、心地いい。馬鹿にされたり愚弄されたりするときもあるのに、もっと聞きたくなる。あれがあの人の個性なのです。

今の、自分というものにすっかり自信をなくしているあなたがたには、彼の個性は心地よいでしょう。熱いものがよみがえってきそうだ。もっと明るく自分を信じていいと思えてきそうだ。

そんな風に、わたしも自分らしい個性をちょっと出しています。今のあなたがたは、あのような感じの、ちょっとおさなっぽい表現が好きだと思うからです。なんとなく安心するし、深い美しい意味も込めることができる。

ぴょんぴょんうさぎの歌などは、かなりの反響がありました。

ところでムジカは、ツイッターの活動の中で、新しい枕詞を設定してしまいました。表題の「にきしねの」は、「ゑのこ」とか「ゑぬ」にかかります。小犬とか犬でもいい。わんこでもかまわない。おもしろいですね。

「にきしね」というのは、「和稲」で、もみをとった米のことです。まあ、やわらかな藁と思えばよい。確かに、かのじょの飼っていた犬は、藁のような色をしていて、とても柔らかかった。抱くと、藁のようなにおいがしていました。なつかしい感じがします。

稲というのはまた、すべてを人間に与えてしまう植物だ。そこにも深い意味がとれそうだ。

にきしねのゑのこ、と言えば、にきしねのように柔らかな毛並みをした、すべてをささげてくれるかわいい小犬よ、という意味になるのです。

いいですね。よろしければ皆で使ってください。

これからも、この芸術運動の中で、いくらでも新しいものを産んでいきましょう。





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アシメク

2017-06-23 04:17:39 | 冬の日差し・夏の月


お久しぶりです。スピカです。今回はなかなか出て来れませんでした。百合が童話を書いてくれたりしていたのですが、純粋にかのじょのアイデアに頼らずに童話を創作したのは、事実上彼の「お釈迦様」が最初です。「シリク」もありますが、あれも実は大事なところをかのじょに頼っているのです。

百合というのは、瑠璃の籠にも出てきてくれている人ですよ。百合という名前からは全然想像できない立派な人です。ツイッターで活動を始める時は、ほとんど何も考えずに名前を付けたそうです。瑠璃の籠での名前の方が、彼に合っていますね。女性的だが実に厳しいところもありそうだという名前です。誰かは言わないでくれということなので、言いません。

表題の「アシメク」というのは、スピカの別名です。「武器を持たないもの」という意味らしい。星の名前というのにもいろいろあるもので、一つの星に一つの名前とは限らない。ゲンマはアルフェッカの別名ですし、コル・スコルピイはアンタレスの別名です。ツィーにはナヴィという別名もあるらしい。おもしろいですね。

スピカという名前は非常にかわいらしくて女性的だが、わたしは気に入っています。この名前だと、かのじょに似たとてもかわいらしいことができる。実像のわたしは、彼が探してくれた天使の絵をもう少し男っぽくしたような姿をしています。女性的だが、男にしか見えません。声も若々しい男の声です。かのじょよりはずっと大人っぽく見えますよ。

ですがこういうわたしには、かのじょのようなかわいらしいことをしたいという欲求もあるのです。男というものにも、かなりかわいいものが好きな者がいるのですよ。知っていると思いますが。かわいらしいものというのはとても魅力的だ。

男らしいことを書こうと思えばいつでも書くことができる。こういうわたしに今できることは、かのじょのような表現に飢えている人のために、かのじょに似た世界を紡ぎ出して見せることです。

甘い幸せの世界を。

寒い冬には暖かな日差しを。熱い夏には涼し気な月の光を。

そういうやさしさを、これからまたしばらくの間、やってみましょうか。






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喪失

2017-06-22 04:17:55 | 黄昏美術館


アクセリ・ガッレン・カッレラ


フィンランドの画家らしい。痛いことになった女性の顔がよく描けている。

恐らく男で失敗したのだろう。よくあることだ。まだ若い女は、男に痛いことをしようとして、苦いことになることが多い。

男というものはたいてい女に溺れるものと思い込んでいたら、そうはいくかという反動が返ってきたのだろう。

確かに馬鹿な男はかわいい美人に弱い。美人の心を得ようとして、めったにないようないいこともしてくれるものなのだが、痛い女が欲しいのは、たいていそういう男ではない。きつい感じでも、どこかいいものを感じる、本当の男がいいのだ。

そういう男は、いいことがわからない馬鹿な女には、困るという態度で答えるものなのだ。

きつい女は、人から美貌を盗んでかわいい女になり、それでいい男を得ようとするものなのだが、それでよく馬鹿なことになるのだ。偽物の美人というものは、多かれ少なかれ、こういうことになる。見栄えで何とか男をしとめても、正体がばれてしまうと、男にはなれていかれるのだ。

そして深い闇に引き込まれていくのである。






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反存在

2017-06-21 04:18:58 | 黄昏美術館


ポール・エムズリー

原題「キャサリン・ケンブリッジ公爵夫人」


これは、もはや存在しないはずの人間である。

肉体も人生も他人から盗んでいるが、それだけではない。人種どころか種の限界も越えているのである。

人間存在をこの世界に作る、基礎の基礎から徹底的に盗みで作り上げた、あり得ないはずの人間なのだ。

馬鹿はこういう人間を作り、それに恐ろしいほど高いステータスを与えているのである。

この人生をやっていた本霊はもうとっくに撤退している。こんな人生についていけるはずがないからだ。この存在は今、複数の霊で運営している傀儡になり果てている。それを国をあげてほめそやしているのが、今の人間の現実なのだ。

こういう人間は今珍しくはない。ほとんど、人間が勝手に作り上げた架空の存在なのである。神はほとんど何も関与していないのだ。

こんな存在を生きていても、何もならない。何をしても何にもない。努力すればするほど、膨大な馬鹿ができる。嫌なことばかりになる。なぜならこれは、存在し続けることによって、神と絶縁していることになるからだ。

あほう、というものが極限を越えると、こうなるのである。

バービー人形のようだ。むやみに人工的に美しい。愛などどこにもない形とは、こういうものなのである。






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