世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

小さな小さな神さま・12

2017-05-31 04:17:17 | 月夜の考古学・第3館


 小さな神さまがしばし口ごもっておられますと、女神はそっと両のたなごころをあわせて、優美な椀をこしらえ、傍らの湖にそれを浸しました。見るとその椀の中には、赤や青や黄や、中には灰色や黒のものまで、色とりどりの核が盛られてありました。女神がお手を小さく揺すられますと、その中の核も、しゃらしゃらと心地よい音をたてて揺れました。
 やがて核は、湖の水に洗われて、まるで燃え始めた石炭の粒のように、それぞれに内部から光り始めました。女神の手から、虹が小さな魚のように次々とあふれ出ました。女神はその様子を笑顔でごらんになると、傍らの手箱の中に、その核をさらさらと注がれました。よく見るとそれは手箱ではなく、小さな朱塗りの社でありましたが。
「あなたのつかさどっておられる谷は、どんなところでございましょう」
 女神はもう一度手で椀をこしらえながら、おっしゃいました。すると小さな神さまは、思い出したかのように、懐から小さな巻物を取り出されました。
「ここに地図を持ってまいりました」
 小さな神さまはおっしゃると、その巻物をぱらりと広げられました。すると巻物の中から、突然青々とした山が高く盛り上がりました。そして見る間にせせらぎがきらきらと光りだし、愛らしい野花が緑の中に点々と灯りだし、あちこちで若鹿がひょいと顔を出し、鳥がぴりぴりとさえずりだしました。季節の色は次々と変わり、そのたびに森は、薄紅の花がほわほわとふくらんだり、緑が光るように深みを増したり、紅葉が梢を赤らめたり、寒さに細る枝に白い雪を載せたりしました。奥に目をやれば、もちろんのこと、澄んだ空気を閉じ込めた珠玉のように、白い滝がひっそりと歌っている姿が見えました。
 女神はその様子をしばしごらんになった後、にっこりとほほ笑みながら、おっしゃいました。
「丹精しておられますね。これならば、十分ににんげんを育てられましょう」
 しかし小さな神さまは、恥じ入るように、あわてて地図を巻き戻しました。
「どうされましたか」
 にんかなの女神が尋ねられても、小さな神さまはしばし答えることができませんでした。沈黙が痛く胸にこすりつけられました。やがて小さな神さまは、声をしぼり出すようにおっしゃいました。
「この身が、恥ずかしいのです。わたしは、確かに、この谷を愛し、慈しんできた。しかし、あのように、……我が身を割り砕くまでに、何かを愛したことは、一度もなかったのです」
 にんかなの女神は、澄んだ深い湖のような瞳を、遠い地平を見はるかすように細められて、小さな神さまを見つめられました。そしてほほ笑まれ、静かなお声でおっしゃいました。
「愛は時に、愉悦とはよほど離れた苦をもたらすものです」
「はい。この身に染み入ってございます」
「では、もうにんげんをお育てにはならないのですね」
 小さな神さまは、再び沈黙されました。胸の珠の中で、美羽嵐志彦が息をひそめて聞いている気配が、重く感じられました。
 今、小さな神さまのお胸の辺りでは、ある一つの言葉が、月満ちて今しも生まれようと、もがいていました。小さな神さまは、その言葉を生もうか、どうしようかと、悩んでおられました。生まずに、飲みこみ、混沌へと投げこむこともできました。
 小さな神さまは、ご自分の中へ問いを発しました。どうすればいいかと。しかし、答えはありませんでした。元より、小さな神さまにはもう分かっていました。言葉は生んでみなければ分からぬことを。そしてもはや、後もどりはできぬことも。
 小さな神さまは、お口を開きました。待っていたかのように、言葉は生まれました。小さな神さまは、こうおっしゃいました。
「……そだてて、みたい……」
 小さな神さまは、不意に脱力感に襲われました。今し方生まれた言葉が、嬰児のように泣きながら小さな神さまのお胸に宿りました。切ない潮の高まりが、いずことも知れぬ奥底からいっぺんにわきあがり、小さな神さまのお心を、しばし船のようにもてあそびました。小さな神さまはお顔をおおいました。嗚咽が生まれました。
 にんかなの女神はかぎりなくやさしく笑いました。そして、おっしゃいました。
「よろしい。少しの間、お待ちください」
 女神は、再び椀をこしらえ、その中の核を湖の水でゆすぎました。虹が魚のように躍り出ました。女神は、その核を、手箱に流しこむ前に、そっと小さな神さまの前に差し出され、おっしゃいました。
「この中からお選びになるとよいでしょう」
 小さな神さまがのぞきこんでみますと、中の核たちは、ちらちらと光りながら、何やらもぞもぞ動いたり、こここそとささやきあったりしています。おやおや、中にはキノコのように伸び上がるものや、くるくるとせわしなさそうに走るものもいます。鈴のようにきれいな声で歌おうと、懸命に声をはりあげていたりするものもいます。ふと見ると、チコネによく似た薄金色の核が、隅に静かにたたずんで、もの問いたげに小さな神さまを見上げていたりもしています。
 小さな神さまは、静かにそれらをごらんになっていました。小さな神さまのお心は、次第に、湖のように平らかになってゆきました。小さな神さまは、そっと、おっしゃいました。
「この中に、わたしの許に来たいものは、いるか?」
 すると、核たちは、ぱっと明るく輝きました。小さな神さまはほほ笑まれました。再び、情愛がふくふくと生まれてきました。涙があふれ、それらは星のように輝いて、ぽたぽたと女神のたなごころに落ちました。
「そうか。ではおいで。わたしは、おまえたちのために、できることなら、なんでもしてやろう」
 小さな神さまは静かにおっしゃいました。するといくつかの核が、狂喜したようにぱちぱちと暴れまわりました。やがて核たちは、淡い虹色の光を、ふかふかと放ち始めたかと思うと、小さな声を合わせて歌い始めました。小さな神さまはその歌を受け取り、ゆっくりとうなずかれました。
 女神は、ふうふうと、なだめるように核たちに息をふきかけました。すると核たちは、眠りこむように、静かにたなごころの底に沈みました。そして女神は、核たちをかたわらの社の中へと、さらさらと流しこみました。
「これで準備は終わりました」
 女神はおっしゃいました。小さな神さまは、深々とお辞儀をなされ、女神に感謝の心を捧げられました。
「にんげんは、いつ、わたしの谷へやってくるでしょう?」
「二百年ほど、かかりましょう」
「二百年ですか」
 いつしか、小さな神さまのお手の中には、二百年の時間が、美しい銀砂の山となって、盛られていました。

  (つづく)






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小さな小さな神さま・11

2017-05-30 04:18:37 | 月夜の考古学・第3館


  7

 やがて前方に、再び青々とした陸が現れました。
 小さな神さまたちは、無言で陸の迎えを受け入れました。海が陸に接する境界では、白砂が弓なりの陸の縁を美しく彩り漁をするにんげんたちのきまじめな営みがそここに見えました。しかし小さな神さまは、そんなにんげんたちをもう見ようとはなさいませんでした。お目はただ前方のみを見つめ、お口元は固く閉じられているだけでした。
 やがて、なだらかな山並みをいくつか越えると、向こうからおふた方の神が、こちらにおいでになるのが見えました。小さな神さまはふと竜をとめ、その神さまたちが来られるのを待ちました。
「大遅此芽稚彦の神でいらっしゃいますか」
 おふた方の神は、小さな神さまのお前に立たれますと、ていねいにお辞儀をなされ、声をそろえておっしゃいました。小さな神さまも額を下げられ、ごあいさつをなさいました。
「にんかなの神でいらっしゃいますか」
「いいえ、わたくしどもは単なる遣いのもの。あなたがたがいらっしゃるのが分かりましたので、にんかなの神がお迎えにいってこいと仰せになったのです」
 おふた方の神は、どちらも白と金の美しいお衣装をまとっておられ、お首元には青やら朱やらの美しい瓔珞を回されておりました。細やかな輪郭をすがすがしい光が囲み、何やらそばにいるだけで、マによって沈みがちであった小さな神さまのお心が、癒されていくようでありました。
 やがて、おひと方の神が、そっと手を出されておっしゃいました。
「そのお手の上のものは、どうぞこちらに」
 見ると、小さな神さまのお指の上で、チコネはすやすやと眠っておりました。
「これは、久香遅の神より託された大事な核です。久香遅の神は……」
 小さな神さまがおっしゃるのをさえぎるように、もうおひと方の神が笑顔でおっしゃいました。
「すべては分かっております。ご安心なさいますように。大事にお預かりいたします」
 それでも、しばらくの間、名残を惜しむかのように、小さな神さまはお指のチコネをなでておられました。
「永遠の別れはないものでございます」
 おひと方の迎えの神がおっしゃいました。小さな神さまは一息つかれますと、お指からチコネを解き放ちました。チコネは、ふらふらと蛍が飛ぶように、お遣いの神の手元に吸い寄せられました。
「では、どうぞこちらへ」
 おふた方の神は小さな神さまの両脇に並ばれますと、にこやかにほほ笑まれて、小さな神さまをいざないました。小さな神さまは、無言で、従いました。
 そこから、連山の帳を二つほど越えると、不意に、空の下に広がる巨大な山容が、眼前を領しました。小さな神さまは、その大きさとみごとな形に、声にならぬ声を、あげました。
 大羽嵐志彦の神の、おっしゃった通りでした。にんかなは、小さな神さまがこれまで見たどのような山とも違う、またとないほど美しい峰でした。
 それは、未だ見も知らぬ貴いお心の、天よりもたらされた吐息の静かな広がりのように、大地に向かって広々と、涼やかに、垂らされておりました。天に向かう大地の勇猛な野心は微塵も感じられず、まるでひとひらの風に描かれた巨大な絵のように、軽々と眼前に座し、それでいてその膨大な山量からくる威容には、神をも人をも、涙をもってひれふさせるに十分な力がありました。小さな神さまは圧倒され、お目に涙を灯されました。
 お遣いの神が峰の向こうに消えた後、小さな神さまは山のふもとの鏡のような湖のほとりに、ふんわりと降りられて、さえざえと澄み渡る感動に導かれるまま、声高らかにおっしゃいました。
「にんかなの神はいらっしゃいますか」
「どなたでございましょうか」
 まるで、鈴を風の中に千も転がしたような、澄んだ美しい声が、天空に染み通りました。小さな神さまは、ひざを折り頭を垂れられて、改めてていねいに名乗られ、ごあいさつをなさいました。すると、ふと空気が揺らいで、それまで美しい山であったものが、それは大きなお美しい女神の姿に変わりました。
 女神は青い色をした、みごとなお衣装を着ておられ、その裳裾はゆったりと大きく広がりながら、豊かなひだをそこここの谷や湖畔や川べりに、すべりこませておりました。そのお顔は峰の雪のように白く、たそがれ時の雲のばら色が、ほおの辺りを鮮やかに染めていました。そのほほ笑みは限りなく優しく、なつかしく暖かい光が、お顔の周りにまぶしく満ちていました。
 小さな神さまが、ぼんやりと見ほれておりますと、にんかなの女神はにこやかにおっしゃいました。
「にんげんをご所望でございますか」
 小さな神さまは、ふと我にもどりました。実のところ、どうすればいいか、決めかねておられたのです。

  (つづく)





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小さな小さな神さま・10

2017-05-29 04:17:51 | 月夜の考古学・第3館


 とたん、マは瞬時のうちに姿を変え、空が裂けてこぼれでた闇のように真に暗くなりました。小さな神さまとお三方の神は、剣を振り上げながら立ち向かわれました。暗闇は弾けるように無数に広がり、それはいくつもの頭をもつ不気味な黒竜となって、襲いかかりました。
 一つの頭が、小さな神さまを食おうと、赤い口をぱんと割って落ちてきました。小さな神さまは巧みに避けて横に回りました。その拍子に剣で黒竜の首の一部を傷つけましたが、その傷はぱくりと開くやいなや、ひげの生えるように無数の小さな首を吐き出して、言いようのない不快な臭いをまき散らしました。
 悲鳴が響きました。小さな神さまはあっと声をあげられました。青い珠なる早羽嵐志彦が、黒竜に腹を砕かれ、海に落ちていく様が見えました。
「早羽嵐志彦!」
 叫んだのは於羽嵐志彦でした。美羽嵐志彦が懸命に黒竜の牙を避けながら、必死に叫ぶのが、次に聞こえました。
「於羽嵐志彦! ゆくな! 我を失うな!」
 しかしその声は於羽嵐志彦の耳には届きませんでした。於羽嵐志彦は兄弟を失った悲しみと怒りのままに、剣を振り上げ、のどの裂けるような声をあげながら、黒竜の一際大きな首に向かってゆきました。
 小さな神さまは、海に落ちる寸前で、青い珠を拾いあげました。珠の痛々しく欠けているのをごらんになったとたん、今度は朱い珠なる於羽嵐志彦が落ちてきて、小さな神さまはあわててそちらに走りました。二つの珠は小さな神さまのお胸にかえりましたが、しかしもう元の姿にもどることはできませんでした。
 黒竜は血から衰える様も見せず、小さな神さまたちを飲みこもうと襲ってきました。美羽嵐志彦にはもうその鞭のゆな無数の首を避けるのが精一杯でした。小さな神さまにも、もはやほどこす手を思いつくことができませんでした。首は、剣で傷つければ傷つけるほど、次から次へと増えるほです。
(どうすればいい、どうすれば……)
 小さな神さまは必死に考えました。しかし小さな神さまは未だ、戦うことが非常に不得手なのでした。元より憎悪の塊であり、相手を滅しようとする怨念の化身であるものに、力でもって勝てる方法を、小さな神さまは未だしっかりと得てはいませんでした。これはもはやだめかもしれぬと、小さな神さまは思われました。しかし、その小さな神さまのお手の上で、チコネが震えながら何度も叫んでいました。
「おとうさん、おとうさん! 助けてください!」
 そうだ。久香遅の神に、チコネをにんかなに連れていくと約束したのだ。ここでへこたれるわけにはいかぬ。小さな神さまが、そう思った、その時でした。
 海が、突然、山のように盛り上がりました。何千もの手で太鼓を打つような音が辺りに響き渡ったかと思うと、暗雲にひびが入り、昼の神のお手が一筋、海に射しこみました。
「吾子よ!」
 太く雄々しい声が響きました。何千もの手を持った巨大な男神さまが、海中から現れて、飛び込むようにマにおおいかぶさりました。マは恐ろしい声をあげて、首という首でその男神さまに咬みつきまいた。めりめりと、お体の裂ける音が響きました。
 その最中にも、見る見るうちに暗雲は払われ、やがて澄んだ蒼天がからりと現れました。昼の神の下に現れたそのお姿を見て、小さな神さまは声を飲まれました。
 無数の首がもつれあい、もはや醜悪な肉塊としか見えぬマにおおいかぶさった方は、久香遅の神でした。久香遅の神は力という力をふりしぼり、手という手を使ってマを抑えつけていました。お口は一際大きなマの首を深く咬み、ぎらぎらとしたお目は小さな神さまに向かって無言のうちに叫んでおりました。
(さあいけ! わたしにはこやつを抑えておくっことしかできぬ!)
 しかし小さな神さまは眼前の光景をにわかに信じることができず、ただ茫然と立っておられました。そのお手の上で、チコネが気も狂わんばかりに叫んでいました。
「おとうさん! おとうさん! おとうさん!」
(はやく! そいつを眠らせろ! そのままでは割れてしまう!)
 我にかえった美羽嵐志彦が、急いでチコネを口にふくみました。そうすれば核はすぐに眠るのでした。
 その様子を見た久香遅の神は、安心なすったように、ゆらりとお顔を歪ませました。笑っているのか泣いているのか、判断しかねるお顔でした。久香遅の神は、暴れるマを最後の力をふりしぼって締めつけました。そして、一瞬、口を開き、身を割らんばかりのお声で叫びました。
「おおいなる深淵の神よ!!」
 すると。
 水底から、音とも言えぬ音、声とも言えぬ声が、聞こえました。
 膨大な海の水が、瞬間、真に透明なまま凍りついてしまったかのように、巨大な沈黙が深淵から発して、天を貫きました。小さな神さまが下をごらんになると、いつしか深淵の女神のお目が見開かれ、海上の小さな神さまたちを正視していました。小さな神さまは、天地ががくがくと揺れるほどの恐ろしさを、全身に浴びるほど感じておられました。そして凍りついたまま動けぬ小さな神さまの目の前で、女神の石のようなお口元が、ゆっくりと開きはじめました。
 なんと、大きな、お口なのでしょうか。ひとひらの珊瑚のようでさえあった、小さなくちびるは、見る間に亀裂を深めてゆき、まるで水底すべてをおおわんとするほど、大きく大きく、広がりました。そしてそのお口の中には、いずことも知れぬ闇が、満々と湛えられていました。
 闇に染まった黒い海面は、かすかに盛り上がりました。それは果てしない海底から、黒い大きな陸の塊がもぎとられて、音もなくゆっくりとせり上がってくるようにも、思えました。小さな神さまのほおを、理由もわからぬままに、涙が一筋、流れました。
 それは、一頭の巨大なくじらが、にしんの群れを一飲みにする光景にも、似ていたでしょうか。津波のように巨大な女神の口に、マとともに飲みこまれんとする時、久香遅の神は刹那、うっすらとほほ笑まれました。その声にならぬ声が、呆然とその様子をごらんになっていた小さな神さまのお胸に、響きました。
(……最初から、こうしてやればよかったのかもしれぬ。そうすれば、おまえたちを死なせることもなかったろう……)
 やがて、岩のぶつかるような音がして、女神のお口が、がしんと閉じました。女神は何もおっしゃらぬまま、再び深淵に沈まれ、ゆっくりと身を横たえられました。
 昼の神が、ほこらしく中天に輝きました。海面は凪ぎ、板のように照り映えました。
 まるで、何事もなかったかのような静けさの中で、小さな神さまは、がくりとひざを折られました。重い額が、手の中に落ちました。

  (つづく)





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小さな小さな神さま・9

2017-05-28 04:17:20 | 月夜の考古学・第3館


  6

 再び、いくつかの山々を越えてゆくと、突然緑の陸がとだえ、広々とした有無が現れました。小さな神さまは、海原の上を走りながら、美羽嵐志彦におっしゃいました。
「にんかなは、この海のむこうにあるのか?」
「そうです。この海を越えれば、もはやすぐそこでございます」
 無尽蔵の巨大な海は、子を産んだ女の乳房のように、豊かにたぽたぽと揺れていました。深緑の水はどのような思案もゆき届かぬほど広く深く謎に満ちていて、生き生きとした瞳を持ちながら石のような舌を持つ大いなる女神が、沈黙しながら広々としたお腰を水底の深淵に横たえていました。小さな神さまたちは、その女神の鏡のような青眼の上を、かしこまりながら通り過ぎました。深淵の女神は、もの言いたげに微かにほほ笑まれましたが、それは海綿の揺らぎのせいとも思え、はっきりとは分かりませんでした。やがて女神はゆっくりと瞳を閉じられました。
 周囲は島影ひとつなく、ただ渺々とした海と蒼天だけが広がりました。天には昼の神が孤高の輝きを放ち、黙々と飛ぶ小さな神さまたちをじっとごらんになっていました。
 小さな神さまは、不安が再び、小さな羽虫のようにお胸の中でうごめくのを感じられました。背後の気配は、もはや身を隠すところもないので、竜の尾を咬むほどの近くに身をすり寄せながら、じっと小さな神さまたちの気配をうかがっていました。
 珠の中で、お三方の神が、ぎりりと緊張していました。チコネも気配を察して、縮こまっていました。小さな神さまも、もはや無視できなくなり、とうとう声に出しておっしゃいました。
「だれだ。分かっているぞ」
 答えはありませんでした。しかし気配は消えるどころか一層大きく感じられました。小さな神さまは、さっと身を翻して振り向かれました。しかし、そこにはだれもいませんでした。
「何者だ。答えよ」
 小さな神さまのお声が、周囲の海面を打ちました。すると背後で、何やらざわざわと音がしました。小さな神さまがもう一度振り向かれますと、何とそこには、今まで見たこともないような、美しくさえざえと高い山が、海上に忽然と現れておりました。
「これは……、にんかな?」
 小さな神さまは眼前に幻のようにそびえ立つ峰をごらんになって、思わずつぶやかれました。しかし美羽嵐志彦が厳然と言い放ちました。
「ちがいます。これはにんかなではありません」
 三つの珠が次々に弾け、お三方の神が、小さな神さまの周囲を固めるように現れました。小さな神さまは峰の正体を見きわめんと目に力をこめました。するとどこからか、空を割るような高笑いが聞こえました。雷雨が落ちたように、周囲の海面が泡立ちました。竜が脅えて、凍えるように縮こまりました。
 いつしか黒雲が空を覆い、昼の神のお姿が消えていました。青かった峰は怪しく次々と色を変え、ざわざわと虫の這うような音が聞こえました。やがて、めりめりと峰の中央が割れて山肌がめくれ上がり、仲から巨大な一つの眼球が現れました。
 峰の中ほどに現れた眼球は、ぐるぐると周囲を見回したかと思うと、不意に正眼をきめました。これが正体かと小さな神さまが身構えられますと、眼球はぐらぐらと揺れ出し、それを縁取るまつげがざわざわと伸び出し、毛皮のように峰全体をおおいました。眼球は再びつぼんで見えなくなり、代わりに伸びたまつげが中央で分かれて、その間からこの上なく美しい女神のお姿が現れました。小さな神さまがあっけにとられてごらんになっておりますと、女神は次第に年老いて醜い老婆となり、やがて干からびたされこうべになり、がらがらと朽ち果てました。かと思うと、しかばねの上からみるみるうちに大木が生え、それには二目と見られぬ醜い男の顔が、木の実のように無数に生りました。
 小さな神さまは、呆然となさいました。目の前のものは、次々と様子を変えて、一時も同じ姿をしてはいませんでした。花のように美しい乙女になったと思えば次の瞬間にはおどろおどろし蛟になりました。眼涼しい王子に見えたと思えばすぐに醜怪な守銭奴になりました。小さな神さまは恐怖さえ覚えました。お三方の分け身の神はすでに剣を抜いていました。
「何者だ」
 小さな神さまは声高らかに再びおっしゃいました。すると今度は、ろん、と、奇怪な音が周囲を囲みました。そのものは、耳をねじあげるような不快な声で、言いました。
「われは、マだ」
「マ?」
「マ、真、魔、ま……はははは……」
 声は小さな神さまの頭を割ろうとでもするように、圧倒的な力をもってたたき伏せようとしてきました。小さな神さまは内心、これはあぶないと、感じられました。美羽嵐志彦が、叫ぶような声をあげました。
「わが神よ! これこそ、神とにんげんを引き裂くもの! にんげんに慢心を吹きこみ、疑いを植えつけ、命の核を食い物にする魔物です!」
 暗雲がたちこめました。不気味な風が海面をなであげ、波は黒い大きな舌となって小さな神さまたちを何度も飲みこもうとしました。マは変化をやめ黒々とした影になり、再び天頂に眼球を灯しました。眼球は歪み、にたりと笑いました。小さな神さまは、お体の芯に棒が刺さるような驚きを感じられました。
「これか。こやつが、あれらのことの、全ての原因か」
 小さな神さまは今までにごらんになった悲劇の全てを思い起こされました。過ちに陥り、神を見捨てたあげく孤独の果てに魂を飲みこまれていくにんげんたち。見捨てられ打ち捨てられながら、ただただにんげんたちのためにお心を砕かれる神。
「なぜだ! なぜおまえはそんなことをする!」
 小さな神さまは叫ばれました。風がどんどんと響き、マは醜い亀裂のような口を開きました。白い牙が数珠のようにならび、赤黒い口腔を縁取っていました。マはどろどろとした声で言いました。
「なぜ? なぜそう尋ねる? わたしは何もせぬ、何をしたこともない」
「何もせぬと?」
 小さな神さまが繰り返されますと、マは再びにたりと笑いました。そして背筋の寒くなるようなあざけり笑いを、ながながとひきずりました。
「にんげんを買いたいなら、そうするがよい。神とはそうしたもの。かわいがりたがるもの。だがこれだけは教えておいてやろう。にんげんは、神よりも、マの方が好きなのだ」
「なんと……」
「にんげんは神より生まれた。ゆえに神のくさりを断ち切ろうと常に試みる。自由になりたいと欲するものの願いをかなえて、何が悪い。すべてはにんげんが望んだことなのだ」
 小さな神さまのうちに、憎悪が起こりました。いや果たして、神が何かを憎悪するということが、あり得るものでしょうか。神は愛するものであり、他にできることはないものです。しかし今、小さな神さまのお胸に燃えたものは、憎悪としか言いようのないものでした。悲しみは波のようにうねり、言葉は生まれる前に砕かれて防ぎようのない激情のほとばしりになりました。小さな神さまはそのほとばしりを吐き出しました。それは氷のような、炎のような、鋭い剣となり、小さな神さまはそれをお手にとられました。

  (つづく)






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小さな小さな神さま・8

2017-05-27 04:16:53 | 月夜の考古学・第3館


  5

 久香遅の神の町は、そこからまた山を一つ越えたところに、ありました。いや、それはもはや町ではありませんでした。緑はえぐられ、家々は焼かれ、黒々とした大地の傷痕が、無残にむき出されていました。生きているにんげんは、もはやだれもいないようでした。焼かれたにんげんの痕跡が、そこここに見え、割れた核の破片はもはや悲しむことも思案することもならず、光を失って地に散らばっていました。ただ断末魔の恨みの声を乗せた風だけが、よろよろと焦土を這っていました。
 小さな神さまは峰に立ち、その様子をしばし無言でごらんになっていました。言葉は何も生まれませんでした。思いすらも描かれることを忘れられるくらいでした。悲しみは、微かな吐息となって、小さな神さまのお口元を濡らし、冷たい霜を作りました。
「久香遅の神を探しましょう」
 美羽嵐志彦が言いました。小さな神さまは、黙ってうなずかれました。
「久香遅の神さま、どこにおられますか?」
 小さな神さまは峰を降りて、焦土の上を旋回して飛びながら、久香遅の神を探されました。しかし、応える声はありませんでした。
「どこかにいってしまわれたのだろうか?」
「そうかもしれません。この有り様では、去っていきたくなる気持ちも分かるというもの」
 美羽嵐志彦が怒りの混じった声で言いました。小さな神さまは、町の真ん中の、焼け残った石の塔の上に、降り立ちました。すると恨みをはらしてくれという、にんげんの悲しげな声が、小さな神さまの足元をそっと触れました。小さな神さまは、思わず、その声に激しくお答えになりました。
「何を言う。神の声を聞かなかったのはおまえたちではないか。何もかも、おまえたちがしたことの結果ではないか。今さら、何を神に求めるのだ」
 瞬間、沈黙が走りました。小蟹の群れがわらわらと逃げるように、気配が隅の方へと縮こまりました。小さな神さまのお胸に、水のように重たく、悲しみがふさがりました。とうとう、涙があふれ出ました。
「何ということだ……何ということだ……」
 すると、背後から、音のような、わんと響くものがありました。小さな神さまが振り向かれますと、そこには、おひと方の年老いた神が、哀れなほどに消沈されたご様子で、立っておられました。
「悲しまんでくだされ、この子らのために」
 その神さまは、衣の裾も破れ、お髪も乱れ、ずいぶんとうらぶれたご様子をなさっておいででした。お目の中には悲しみと絶望が青く沈み、お口元は冷たい霜で凍っておりました。すりきれた腰帯には小さな袋がぶら下げてあり、神様がよろよろとお腰を揺らすたびに、その中からしゃりしゃりという音が聞こえてきました。それは砕けたにんげんの核の音だと、小さな神さまには分かりました。
「久香遅の神でいらっしゃいますか?」
 その神さまは黙ってうなずかれました。小さな神さまは、どうにもお悔やみの言葉が見つからず、しばし申しわけないかのように頭を垂れられて、ようやく、おっしゃいました。
「稲佐の神から、ことづかってまいりました……」
 そして、お指にとめられた核を、久香遅の神に差し出されました。とたん、核から、ひらめくような光が走り、それと同時に久香遅の神のお顔も稲妻のように光りました。
「おお、チコネよ! 我が子よ……」
 核は、のみのように弾けて、まるで赤子が母の胸に吸い付くように、久香遅の神の胸元へと飛び込みました。
「おとうさん! おとうさん……」
 堰を切ったような子供の泣き声が聞こえたかと思うと、核は久香遅の神の手の中で、何度も大きくなったり小さくなったり、ぐるぐるまわったりしていました。何をどのようにしたらいいのか、まるで分らないといった様子でした。久香遅の神は、愛しくてならぬというようにそれにほおずりをし、涙で潤しました。
「ああ、よい。ただ一人でも、わたしの許にもどって来てくれた。おおチコネ、辛かったか、苦しかったか……」
「寂しゅうございました。寂しゅうございました」
「そうか、そうか……。だがようがんばった。ようがんばって、帰ってきた……」
 久香遅の神は、チコネの核をたなごころに抱きながら、よろよろとひざを折られました。そうして、ひとしきり、神とこのむせび泣きが、続きました。
 やがて、十分にほおを潤されたのか、久香遅の神は、顔をあげられました。そしてゆっくりと立ち上がり、小さな神さまに向かって、改めて頭を深く垂れられ、おっしゃいました。
「ありがとうございました。また、お見苦しいところをお見せしてしまいました」
「ああ、いや……」
 小さな神さまはかぶりを振られました。久香遅の神は、いくぶんお元気を取りもどされたようで、ほおの辺りに微かに紅がさしていました。小さな神さまは、照れ隠しのように、おっしゃいました。
「そのにんげんの名は、チコネというのですね」
「はい。良い子でした。互いに思いが届かず、不和の時期もありましたが、最後には戦をとめるため、命をかけて働いてくれました。……しかし、あまりにも若すぎ、そして遅すぎました」
 久香遅の神は、焼けただれた町を見回しながら、おっしゃいました。
「これらのことは、何もかも、わたしの荷です。わたしがいけなかった。この子らを愛するあまり、厳しくしつけることを忘れていた。気がついた時は、もう手がつけられないほど、うぬぼれておりました。未だ赤子に毛が生えたような知恵しかもたぬに、自分たちの力だけで勝てると信じていた。まるで自分たちが選ばれた世界の王だとでも言わんばかりに……」
 久香遅の神は、深いため息をつかれました。すると手の中で、チコネが消え入りそうなほどに、きりきりと縮まりました。小さな神さまは、お目を深く伏せられながら、おっしゃいました。
「おいたみ申し上げます。……これから、どうなさるのですか?」
 すると久香遅の神は、まるでたそがれの光のように、お口元にほんのりとほほ笑みを浮かべ、答えられました。
「真を申し上げれば、どうすればいいか、途方にくれておりました。しかし、この子が帰って来てくれたので、ようやく踏ん切りもつきました。まずは、この子らの核のかけらを、全て拾い集めてやりましょう。我がままな子らでしたが、放っておくことはできません。それが終わったら、傷ついた地霊を慰め、癒してやりましょう」
「それから?」
「さあ、まだ分かりませぬ」
 久香遅の神は、青ざめたお顔に、精一杯の希望をたたえられて、ほほ笑まれました。まだまだ力弱い希望ではありましたが、出会ったときと比べると、各段に明るいお表情と申し上げられましょう。小さな神さまは、ほんの少し、安どの気持ちを抱かれました。
「あなたは、にんかなの峰にゆかれるのですね」
 突然、久香遅の神がおっしゃるので、小さな神さまは驚き、思わずうなずいてしまわれました。
「ならば、頼みがあるのです。どうかこの子を、にんかなの峰へ連れていってはくださらぬか」
 久香遅の神は、たなごころのチコネの核を差し出しながら、おっしゃいました。チコネが驚いて、ぴょんぴょんと跳ねて抗議しました。
「わたしは、このたびのことで、様々な力を使い果たし、今やこのような有り様となってしまいました。またこれからしばらくは後片付けに忙しく、この子のためにしてやれることは、少ない。ならばにんかなの峰へとゆき、新しい命を授かり、新しい神の許で生を営んでゆく方が、この子の幸せと申せましょう。お願いいたします」
 久香遅の神は深々と頭を垂れられました。小さな神さまは、しばし、久香遅の神と、チコネの核とを見比べて、思案なさっておりました。チコネは久香遅の神と離れるのを悲しんで、さめざめと泣いておりました。しかし久香遅の神は、ほほ笑んで、何度も何度も言い聞かせました。チコネはしゅんとしましたが、ようやく納得して、うなずきました。小さな神さまはおっしゃいました。
「分かりました。それならば、ともに連れてゆきましょう」
「おお、ありがとう。さあ、チコネ」
 久香遅の神は、そっとたなごころを差し出しました。チコネは元気なく、そのたなごころを飛んで、再び小さな神さまのお指に帰って来ました。
「では、お気をつけて……」
 久香遅の神がおっしゃるので、小さな神さまは、額を下げられました。しかしこのままここを去ってゆくことが、ひどく辛いことのように思え、小さな神さまはしばし動くことができませんでした。すると久香遅の神がまたほほ笑んで、おっしゃいました。
「そんなお顔をなさらんでください。いつかまた会えましょう。この世に永遠の別れはありませぬ」
「確かに」
 小さな神さまは受け取られ、そしてほほ笑みをお返しになりました。
 久香遅の神は、峰に立たれ、小さな神さまたちをお見送りになりました。小さな神さまの指の上で、チコネが種火のようにじんじんと熱くなり、震えていました。小さなにんげんの核が、懸命に悲しみに耐えようとしているのが、小さな神さまのお心に、痛くしみました。そして久香遅の神は、小さな神さまたちのお姿が見えなくなるまで、じっと峰に立っておられました。

  (つづく)






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小さな小さな神さま・7

2017-05-26 04:17:50 | 月夜の考古学・第3館


「いや、いる。わたしはここにいる」
 すると、不意に、眼前の町が、ぐらりと揺れました。円に近い形をした待ちそのものが、風を受けた水面のようにすよいで、大きなおひと方の怒れる神のお顔になりました。
 小さな神さまが、ごあいさつをなされようとする前に、その大きなお顔の神は、涙をしぼられて、おっしゃいました。涙は町を流れる川に落ちて、川岸の道路を濡らしました。
「こんなはずではなかったのだ。こんなはずでは……」
「お悔やみ申し上げます」
 小さな神さまは、頭をたれて、おっしゃいました。しかし稲佐の神の涙が止まるはずもありませんでした。
「言ったのに、殺してはならんと。憎んではならんと……。だがだれもわたしの言うことを聞かなかった。だれもわたしを信じなかった……。そして今や、見るがいい、こやつらを。戦勝を喜び、つかの間の美酒を浴びて得意げに闊歩する者たちの、その足元を」
 稲佐の神は、強く言い放ちました。小さな神さまは、目を凝らして、にんげんたちの足元をごらんになりました。そこには、赤や、青や、薄紅や、灰色などの、かすかに光るかけらがたくさん見えました。小さな神さまは、深々とため息をおつきになりました。それは、にんげんたちの奥に光っていた、あの美しい核のかけらだったのです。
「あわれな子らよ。おまえたちは、何もわかってはいないのだ。おまえたちが殺したのは敵ではない。他人ではない。おまえたちは未だ目も開かぬ赤子のうちに、何も知らぬ心のままに、おまえたち自身の魂を、踏み砕いている……」
 稲佐の神の声は、もうそれ以上言葉にはならないようでした。ただ苦しい嗚咽だけが、
見えない蛇のように長く長く続きました。かすかに青みを帯びたその吐息が、幽霊のように辺りを漂い、それは勝利に狂喜する人々の仮面のような顔に、凄惨な色を添えました。小さな神さまは、その様を正視することができず、つい顔をそらし、目を閉じてしまいました。同時に、そんなご自分の行為に、身の縮まるような恥ずかしさを覚え、小さな神さまは、石のようにその場に立ち尽くすしかありませんでした。
 稲佐の神の嗚咽の声に耳を澄ましているうちに、小さな神さまは、もうにんげんを育てるのはやめようかと、お思いになりました。大羽嵐志彦の神のおっしゃったとおりでした。あまいにかわいいので、つい夢中になってしまったが、いずれこんな悲しい目にあわねばならぬのなら、にんげんなど育てないほうがいい。小さな神さまは、も自分の谷に帰ろうかとさえ、思われました。
 しかし、小さな神さまがそのご決意をなさる前に、稲佐の神がおっしゃいました。
「あなたがたに、頼みがある」
「……頼み、と?」
 小さな神さまがお顔をあげられると、稲佐の神は、口を開け、ふっと息をはいて、一つの核を吐き出しました。
「その人間の核を、久香遅の神のお許に届けて欲しいのだ」
「これは……?」
 小さな神さまが、その核を受け取られると、それは小さな神さまのお手の中で、薄金色にちかちかと光りました。それはみごとな核でした。小さな神さまも、また美羽嵐志彦たちも、このように大きく、ほぼ完全に円いにんげんの核を見るのは、初めてでありました。
「それは久香遅の神の、息子だ。一度は神の心に背き、戦に身を投じたが、やがて憎み殺しあうことの愚かさ、悲しさを知り、深く悔いた。そして何とか戦をとめようと働いたが時すでに遅く、やがて、神の許に帰りたいと願いながら死んだ。ゆえに今までわたしが預かり、密かに守って来たのだ……」
 小さな神さまは、その核にそっとお耳を寄せられました。核は小さく震えて、微かな声で、「おとうさん、おとうさん、どこですか?」と、繰り返していました。
「わたしは、久香遅の神にあわせる顔がない。どうか、あなたがた、その核を久香遅の神に届けてくれ、お願いだ」
「分かりました。届けましょう」
 小さな神さまはおっしゃると、一筋お髪をほどき、その核を通して、ご自分の指にとめられました。いくら大きな核とはいえ、小さな神さまの首や手首にまわすには、少々小さすぎたからでした。稲佐の神は、ご安心なさったように、一言「ありがとう」とおっしゃると、地中にふっと沈みこまれるように消えておしまいになりました。乾いてひび割れたような町が、再び眼下に現れました。先ほど聞いたピキピキという音は、魂が踏み砕かれる音だったのかと、小さな神さまは思われました。

  (つづく)






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小さな小さな神さま・6

2017-05-25 04:17:49 | 月夜の考古学・第3館


  4

 虫椎の神の森を去ると、小さな神さまたちはまた、東へ東へと飛んでゆきました。しかしはるかなにんかなの峰は、なかなか姿を現してはくれませんでした。
「にんかなの峰とは、どのような峰だろう」
 小さな神さまが尋ねられますと、白い珠の中の美羽嵐志彦が答えました。
「美しい峰だとしか言いようがありません。実際にごらんにならなければ、その美しさはお分かりにならないでしょう」
「ふむ。ではにんかなの峰に鎮まれるにんかなの神とは、どのような神であろう」
「お美しい神です。お会いになれば分かりましょう」
「ふむ」
 小さな神さまたちは、竜の背のように峰を連ねる長い連山に沿って、風のように飛んでおりました。眼下には時おり、肥やしをやりすぎた草の群落のように膨れた大きな町や、谷間の隅に掃き集められたような貧弱な町が、次々と過ぎてゆきました。小さな神さまは、にんげんを育てている神はたくさにるのだなあと、感心しながら通り過ぎてゆきました。
 川や谷や山をいくつか見、銀盤のような湖もいくつか見ました。世界はどこも緑で、それなりに美しく、すばらしく、恵みに満ちておりました。旅は楽しく、世界へのほめたたえの言葉は、小さな神さまの中からいくつも生まれました。ただ、少し気にかかることが、一つだけありました。
「美羽嵐志彦よ」
 小さな神さまは、白い珠の美羽嵐志彦に尋ねられました。
「なんでしょう」
「気が付いておるだろうか。先ほどから……」
「はい。しかし今は気になさらぬほうがよいでしょう」
「そうだろうか」
 小さな神さまは、一抹の不安を拭い去ることができませんでした。何と言うに、虫椎の神の森を去ってからというもの、何か、蟻のように小さく、しかしずばやい影のようなものが、自分たちの後からついて来るような気がしてならなかったからです。
 小さな神さまが、振り向かれれば、その気配はさっと、煙が空気に溶けるようになくなりました。しかし、小さな神さまが前を向けば、それは背後で再び、水気が凝結するように固まるのでした。小さな神さまは気味悪く感じられましたが、美羽嵐志彦の言うとおりに、気にしないようにと図りました。
 ふと、小さな神さまは、ゆく手の高い山の向こうから、今までに聞いたこともないような酷い叫びが聞こえて、天を突き刺すように太い柱が、黒々と大地に傾いて立っているところに、出くわしました。小さな神さまは、何だろうとお思いになり、少し近づいてみられました。
「おや、あれは、煙だ。火から出る煙だ。何と大きな煙なのだ。いったい何が燃えているのだろう」
 小さな神さまがおっしゃいますと、美羽嵐志彦がいくぶん悲しげに答えました。
「あれはたぶん、戦でしょう」
「戦?」
「稲佐の神の町と、久香遅の神の町が、争い、殺しあっているのでしょう。彼の真tのにんげんたちの反目のしようは、風聞には聞いてはおりましたが、もう戦になったのですね」
 それを聞いた小さな神さまは、印字られないというように目を見開きました。
「殺しあい? まさか、神がそんなことをにんげんにさせているのか?」
「神は戦など好みません。あれはにんげんがやりだしたのです」
「なんと……」
 小さな神さまは、竜に命じてしばし空中の一点にとどまらせました。小さな神さまは竜の背の上で背伸びをしながら、煙の根元から聞こえてくる声に耳をそばだてました。
(コ、ロ、シ、テ、ヤ、ル……)
(カエセ……ツマヲ、コヲ、カエセ……)
(ウランデヤル、タタッテヤル)
(コノシウチ、ワスレルモノカ)
(トキノカギリ、ノロッテヤル……)
 小さな神さまは、言葉を失われました。こんなにまで他者を呪い壊すほどのおそろしい言葉を、今までに聞いたことはなかったからです。胸が空洞のように冷たく痛み、言いようのない寂しさが、湿気のように小さな神さまのお体にはりつきました。美羽嵐志彦が、ぼそりと言いました。
「よくあることなのです。少々知恵が大きくなると、にんげんはすぐ得意になって、暴走してしまいがちなのです」
 その時、小さな神さまの脳裏に、昨夜の虫椎の神のお顔とお言葉が稲妻のようによみがえりました。
「しかし、なぜだ。神が厳しさをもって十分に言い聞かせてやれば、そんなことは避けられるのではないのか?」
「己が知恵に有頂天になっているものに、神が何を言ってもむだなのです。彼らは厳しさを憎悪と受け取り、愛をごますりと思うでしょう。自分以外の何者をも信ぜず、神の心から離れていく……。つらいことですが、にんげんを育てる神なら、一度は味わう悲しみと申せましょう」
 小さな神さまは、まだ信じられぬという風で、苦しげに眼前の風景を見つめておられました。煙はいくぶん薄くなり、先ほどの酷い声も、もうあまり聞こえませんでした。しかし小さな神さまの御身にはりついた悲しみだけは、重く残っておりました。
 小さな神さまは、やがて意を決されたようにおっしゃいました。
「いってみよう。そしてどんなことが起こったのか、見て来よう」
「はい」
 美羽嵐志彦が答えました。
 竜が一つ山を越えると、そこには山裾に石の板をしいたような、みょうに固く乾いた町がありました。にんげんはたくさん住んでいて、それなりに豊かな町らしく、みなふくふくと太っていて、笑っていました。何かが燃えたような跡はどこにもなく、ただ、あちこちで、ピキピキと何かがひび割れるような不快な音が、響いていました。
「ここは稲佐の神の町です。どうやらこちらの町が勝ったようですね」
「稲佐の神はどこにおられるのだろう? 気配が見えないが」
 眼下の町のどこを探しても、神の御座たる社は見当たらず、涼しい気をもつせせらぎや、森さえありませんでした。町は、石や、レンガや、むき出しの土ばかりで、ひどく乾いていて、ただ、町外れに染みのように残っている小さな竹藪ばかりが、苦しげな飢餓の叫びをあげていました。
「なんと、ずいぶんと荒れている。これではもはや、この町に神はいらっしゃらないのではないか?」
 小さな神さまがおっしゃいますと、どこからか、石を割るような声が聞こえてきました。

  (つづく)





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小さな小さな神さま・5

2017-05-24 04:17:35 | 月夜の考古学・第3館


「そんなものをもらって、どうする」
 やがて虫椎の神は、小さな神さまのお顔からさっと目をそらすと、傍らに唾を吐くように言い捨てました。
「どうせにんげんなど、すぐに神を裏切って、自分勝手に離れていくに決まっているのだ」
 小さな神さまは、少々むっとされて、おっしゃいました。
「あんたはにんげんを育てたことがおありなのですか?」
 しかし虫椎の神は、その問いには答えられませんでした。小さな神さまは、眉間を少し濁らせましたが、黙ってご自分の問いを取り下げられました。ふと見ると、虫椎の神のこめかみあたりでは、翡翠の翅をした螳螂が、月のかけらのような白い蛾を一匹、むしゃむしゃと食べています。小さな神さまはさりげなくお顔を月の方へと向けられて、お目を清められました。
 虫椎の神は、酒を一気に喉に流し込むと、おもむろに額から紅の兜虫をとり、それをゆらりと空にかざして、剣のように突き出た角の見事な形や、血の玉のような宝石様の輝きをひといき愛でられました。そして目前の客の気分などおかまいなく、ぶつぶつと独り言のようにおっしゃいました。
「……だが、虫はいい。虫は余計な知恵など持たぬ。それにその素直なことと言ったらどうだ。わしが青くなれと言えば青くなる。赤くなれと言えば赤くなる。……あんたも、にんげんなど育てるより、虫を育ててはどうかね。よければ行儀のよい奴を、少し分けてやってもよいぞ」
 虫椎の神は、お目を細めて、兜虫をさも愛しそうになでられました。しかし小さな神さまは、内心自分ならあんな品のない虫は作らないと思っておられましたので、やわらかく断られました。虫椎の神は少し鼻じろんだご様子で兜虫を額に戻されると、再びなみなみと杯を満たしつつ、今度は少しきつい調子で言われました。
「あんたは、知らんのだ。そりゃたしかに、にんげんは、よく芸をする。……ふん。小さいものが自分のまねをしだしたら、神にすればそりゃかわいくもなろう。楽しみにもなろうさ。……だが、かわいいのは、最初だけだ。そのうちにんげんは、勝手なことを始めるようになる。生半可な知恵を鼻にかけ、神を馬鹿にし、まるで言うことをきかなくなる。あれこれと世話を焼いてやった恩も忘れ、神など必要ない、何だって自分たちだけでできるのだなどと、ぬけぬけとぬかしてな。そして、やがては神を忘れ、去っていく。後に残るのは、しぼり尽くされた見る影もない森と、うらぶれたみすぼらしい神ばかり……」
 酔いも回ってきたのか、虫椎の神のお口は次第次第と滑りがよくなってくるようでした。
「だが、虫はいい。虫は裏切らぬ。それに細工に凝れば凝るほど、美しいものができあがる。たぶん、これほど美しい虫がこれほど膨大にいる森は、ここよりほかにないだろうよ」
 まったくその通りだと、小さな神さまは答えられました。いやみではなく、心よりそう申し上げたのですが、なぜか虫椎の神は喜ばれず、むっつりと口元を結んでおられました。
 虫椎の神が黙っておられるので、小さな神さまも何もおっしゃらず、静かにお酒を楽しまれました。甘く渋みのあるお酒ではありましたが、香りの中に何やら深く悲しげな言霊が秘められてあるのを、小さな神さまは感じられました。虫椎の神が、沈黙の中に殺してしまった言葉が、ひっそりと流れてきて、ここに隠れているのだろうか。小さな神さまは目を閉じられ、舌で酒の中の言葉を探ろうとされたのですが、刺すような渋みに、たちまちのうちに言葉は連れ去られてしまいました。
 やがて風がしばしの沈黙の幕をひらりと揺らしました。虫椎の神は最後の杯を干されますと、のそりと立ち上がり、一言のごあいさつもなしに、去っていこうとなされました。小さな神さまはあわてて、虫椎の神の後ろ姿に、御礼の言葉を投げられました。虫椎の神は答えず、ただその肩の辺りで、蛍をいっぱいにほお張った女郎蜘蛛が、丸々と太った腹をちかちかと光らせておるだけでした。
 虫椎の神のお姿が見えなくなると、小さな神さまは吐息を一つつきました。揺らいだ視線を何げなく美羽嵐志彦にやりますと、美羽嵐志彦は首をこくりと傾けて、ほほ笑みました。小さな神さまもほほ笑んで、傍らに寝そべる竜の頭をなでられました。こんな場合は、どんな言葉も出て来ぬものだと、おふた方ともちゃんと知っておいでなのでした。

  (つづく)






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小さな小さな神さま・4

2017-05-23 04:18:16 | 月夜の考古学・第3館


  3

 すだれのような青い山々の壁をいくつか越え、小さな神さまは、大きな川のほとりの、深い森へとやってきました。
 長々と飛び続けてくれた竜の疲れを、そろそろ癒してやろうかと思い、小さな神さまは眼下の森を見渡しました。すると、竜の好みそうなせせらぎが見えたので、小さな神さまは森を囲む小高い峰の一つに立たれました。竜を水気の玉にもどされながら、小さな神さまはその、まるで低地に黒々とわだかまる巨大な獣のような鬱蒼とした森を、ひとしきりながめられました。
「何やらみごとに濃い気を放つ森だが、ここの神はどこにいらっしゃるだろうか」
 小さな神さまがおっしゃいますと、白い珠の中から美羽嵐志彦が答えました。
「この森を統べる神は、虫椎の神とおっしゃいます。少々偏狭な方でいらっしゃいますが、礼を尽くしてお頼みすれば、竜を癒してくれましょう」
「偏狭とは?」
 小さな神さまが尋ねられますと、今度は早羽嵐志彦、於羽嵐志彦が次々と答えました。
「彼の神は、美しい虫を育てることに凝っておりまして」
「森の中には虫ばかりがうじゃうじゃといるのです」
「虫ならわたしの谷にもわんさといるが」
「ごらんになれば分かりましょうが、たぶん比ではありますまい。とにかく、虫椎の神にお会いした時は、まずその髪飾り、ひげ飾りを、言葉の限りにほめちぎらねばなりません」
 美羽嵐志彦が言いました。この分け身の神は、他のおふた方を率いる総領のような立場であるらしく、声の響きも一段と深く堂々としておりました。
 小さな神さまたちがひそひそと話しておられますと、突然眼下の森がざわざわと震え、どらのように響く太い声が聞こえてきました。
「どなたかは知らぬが、そこにいるのは分かっておるぞ」
「ああ、これは申しわけありません」
 小さな神さまは、あわてておっしゃいますと、ひょいと峰を蹴られました。森の一画に、角のように突き出た小さな岩壁があり、そこに何やら気配が揺れたので、小さな神さまはその崖に向かって静かに降りられました。すると、がざがざと周囲の木立が揺れ、まるで風景の一部がもぎとられるように、黒い影のような神が、のっそりと現れました。
 小さな神さまは、目の前の神のお姿をごらんになって、少しげんなりとなさいました。とてもお美しいとは言いかねるお姿であったからです。
 虫椎の神さまは、全身を熊のような縮れ毛でおおわれ、ぼうぼうの髪やひげには瑠璃や黄水晶や珊瑚の玉を、びっしりと重いほどぶら下げておりました。いやよく見れば、瑠璃と見えたものは小さな青い甲虫で、黄水晶と見えたのは小さな黄色のシジミ蝶、珊瑚の玉と見えたのは、赤々と膨れた胴をした、大きな大きな蜘蛛でした。
 小さな神さまは、お気持ちを抑えながら、ていねいに名乗られ、ごあいさつをなされました。もちろん、虫椎の神のお姿をほめたたえることも忘れませんでした。
「旅をしておるのですが、竜が疲れておりますので、そこのせせらぎで少し休ませて欲しいのです」
「旅をね。まあいいだろう。ただしあまり騒いで、わしの虫どもを驚かさんでくれよ」
「もちろん、おじゃまだてはしません」
 小さな神さまは、ほっとしておっしゃいました。すると虫椎の神さまは、虫をざわざわ従わせながら、くるりと背を向けて、いってしまわれました。その後ろ姿で、珊瑚の玉の蜘蛛が、瑠璃の甲虫をぼりぼりと食べているのをごらんになって、小さな神さまは、またげんなりと眉をひそめられました。
「世の中には変わったかみもいるものだ」
 その夜、せせらぎのほとりで、白い月神のお姿を見上げながら、小さな神さまはふと漏らされました。
「あれが今のあの方にとっての、一番のお幸せなのでしょう。少々偏ってはおりますが」
 他のふた方は珠の中で休んでおりましたが、美羽嵐志彦だけは元の姿にもどり、水気をたっぷりと吸って眠っている竜の傍らに、涼やかな笑顔で立っておりました。
「だれが偏っている」
 突然、背後から、ざわりと気配が起こりました。見張りのつもりで周囲に気を巡らしていた美羽嵐志彦は、ひどく驚きました。小さな神さまも、驚いて振り向かれました。
 虫椎の神さまは、昼間とはまたうってかわって、豪華な装いをなさっておりました。瑠璃や珊瑚はもちろんのこと、真珠やら碧玉やら柘榴石、金剛石までそろえて、ひげというひて、髪という髪に結びつけてありました。もちろんそれらの正体は、みな虫でありました。指には猫目石のような甲虫が並び、薄黒い衣の裾には、碧や茜や銀の眼をした蜻蛉が、縫いつけられたように並んでいました。そして額には、拳ほどもありそうな、大きな深紅の兜虫が、鎌のように角をそらして、とまっていました。時おり光りながら、ふらふらと頭の周りを飛ぶものは、蛍でしょうか。
 虫椎の神は、小さな神さまのそばにどんと座られますと、小さなヒョウタンと杯を無造作に差し出されました。ヒョウタンからは、イチイの実と濃い酒の匂いがつんと漂いました。あまりよい作法とは言えませんが、虫椎の神は神なりに、訪問者にもてなしをなさろうとされているらしく、小さな神さまはとまどいつつも、杯を受け取られました。
「旅をしているというが、どこにゆかれる?」
 虫椎の神さまは、酒をちびちび飲みながら、尋ねられました。小さな神さまは、にんかなの峰ににんげんをいただきにいくと、答えられました。すると虫椎の神は、蟻の黒群のような濃いお眉の間から、大きな白目をぎろりとむいて、小さな神さまをにらみました。一拍の沈黙が、和やかに始まろうとしていた宴の空気を、寸断してしまいました。

  (つづく)






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小さな小さな神さま・3

2017-05-22 04:19:06 | 月夜の考古学・第3館


「そこにおられるのはどなたですか」
 小さな神さまが驚いておりますと、盆地のちょうど真ん中辺りから、大きな石のようなものがズンと伸び出してきて、それがぱんと弾けました。するといつの間にか、大きなお美しい青年の神が、小さな神さまの目の前に立っておられました。
「これは失礼をしました。あなたがこの盆地の神でいらっしゃいますか?」
 小さな神さまは、突然の訪問の非礼をわびるとともに、ご自身のお名前とご身分を名乗られ、簡略に要件を述べられました。盆地の神は、小さな神さまに、ていねいにお辞儀をされてから、自分の名は大羽嵐志彦の神であるとおっしゃいました。
 大羽嵐志彦の神は、青年のたくましいお姿に似合わぬ、乙女のように清楚なお顔立ちを、そよがせるようにほほ笑まれ、おっしゃいました。
「にんげんを育てられるのですか?」
「はい、ここでこうして拝見して、ぜひに欲しいと思いました」
 小さな神さまは、力強くおっしゃいました。大羽嵐志彦の神は、ほほ笑んだまま、少し困ったように眉を寄せられました。
「しかし、難しいものですよ。最初のうちはかわいいのですが、そのうちいろいろと小理屈を言うようになります。神のことなどおかまいなく、勝手なことをやり始めたり、あれこれと我がままばかり申したり……。近ごろでは、よほど無茶な悪戯もするもので、やれやれ、ほとほと困り果てておりますよ」
「そうはおっしゃいますが、どうしても育ててみたいのです」
「最初はみな、そうおっしゃるのです。あまりにかわいいのでね。しかしそのうち、かわいいだけではすまなくなるのですよ。生半可ににんげんを育てようなどとは、お思いにならない方がよろしい。一度ご自分の土地にお帰りになって、よくよく考え直した方がよろしいかと」
 大羽嵐志彦の神はおっしゃいましたが、小さな神さまのご決心を変えることはできませんでした。
「いや、にんげんがわたしの谷に来てくれるのなら、どんな苦労もいといません。どうか、少し分けてはくださいませんか」
「ああ、それは、いけません」
 大羽嵐志彦の神が、にべもなくおっさるので、小さな神さまは驚かれました。
「なぜ? わたしは御礼に差し上げられるものを、何も持っていないわけではないのですよ?」
 すると大羽嵐志彦の神は、ますます困った顔をなされました。
「いや、違うのです。これには……」
 と、その時でした。下の盆地の方から、何やらちんちんと、かわいらしい音が響いてきました。
 小さな神さまが下をごらんになると、ちょうど盆地の真ん中の、木々に囲まれた広場のようなところで、にんげんたちが集まって、にぎにぎしく騒いでおりました。
「おや、あれは何でしょう?」
「ああ、あれは祭の練習をしておるのですよ」
「まつり?」
「年に二度、春と秋、わたしの社ににんげんどもが集まって、舞い歌いながら神と遊ぶのです」
「ほう……」
 小さな神さまは、感心なされて、祭の様子をしげしげとごらんになりました。社の前庭には、白い石を一面に敷きつめてあり、その中で、愛らしく着飾った稚児や乙女や若者たちが、歌ったり、鈴を振ったり、笛を吹いたりなどして、楽しげに笑っておりました。
 それを見ているうちに、小さな神さまは、なぜ盆地の神がいけないとおっしゃったのか、ようやく分かりました。
 にんげんたちが、歌い踊るたびに、その小さな体の奥が、ちらり、ちらりと、炎がひらめくように震えて光るのが見えるのです。よく目をこらしてごらんになると、それらはみな、小さい小さい光の核でした。
 核は、貝の中に秘められたくず真珠のように、それぞれにみな微妙に違う形や色をして、にんげんたちの小さな命の社の奥に、大切に守られていました。そしてそれらの核の前には、全て、蜜のようにとろりと金に光る、美しい滋養の滴が、一つ一つ餅を供えるように、配られていました。
 にんげんたちが歌い踊ると、核の中に金の餅が転がり込んで、それは鈴のように快い音をたてるのです。
(ああ、なんという音だろう……)
 小さな神さまは、お身の上を洞の冷風に拭われるような、驚きを感じられました。なぜならそれは、小さな神さまには、それまでに聞いたこともないような、何とも不思議な音だったのです。
「……やあ、皆で歌っている。輪を囲んで踊っている……。なかなかに良い技ではないか。あれはあなたが教えたのですか?」
「種は植えてはやりましたが、後のことは少しずつ、あれらが工夫して考えました」
 大羽嵐志彦の神は、目を細めておっしゃいました。小さな神さまは驚きながらも、目を吸い込まれるように、再び祭の様子にお顔を向けました。
「おや、ひとり稚児が転んだ。おお、痛い痛い……泣いているぞ。おやおや、若者が抱き上げた……皆が集まってきた。おお稚児が笑った、笑った……なんと皆、仲の良いことだ……」
 小さな神さまは、はっとされました。そしてしばし、呆然と、言葉を失われました。
「にんげんとは、こころまでも、神のまねをするのか……」
 小さな神さまはお顔をあげて、大羽嵐志彦の神を見つめられました。大羽嵐志彦の神は、りんとしたお眉に、深い慈愛をたたえられながら、下界のにんげんたちの様子を、優しく、厳しく、ごらんになっていました。小さな神さまは、大羽嵐志彦の神が、いかにこれらのものを愛しておられるかを、理解されました。小さな神さまは深く恥じ入られ、大羽嵐志彦の神に許しを請われました。大羽嵐志彦の神は、笑ってかぶりを振られました。
「ああ、それにしても、かわいいものだ……。どうすれば、にんげんをわたしの谷へ呼ぶことができるでしょうか」
 小さな神さまがおっしゃいますと、大羽嵐志彦の神は、お眉の辺りに少々思案を乗せられながら、再びやわらかくほほ笑まれました。そして、東に遠くかすむ、青い山影を指さしました。
「あの山の彼方に、にんかなという四方を湖に囲まれた秀麗なる青峰があり、そこにおわせられるにんかなの神に、お頼みになるとよいでしょう」
「ありがとう。では早速訪ねてまいりましょう」
 小さな神さまは、再び深々と頭を下げられますと、懐から竜を呼び、それに乗って飛びたとうとされました。しかし、いざゆかんとする前に、大羽嵐志彦の神が呼び止められました。
「いや、待ちなされ。にんかなは遠く、途中にはいくつかの試練もございます。その水の竜だけがお供では、少々心もとない」
 言うが早いか、大羽嵐志彦の神は、口からプップッと小さな白、青、朱、三色の珠を吐き出されました。三つの珠はくるくると回りながら卵が弾けるように次々と姿を変え、いつしか目の前には大羽嵐志彦の神にそっくりで衣の色ばかりが違うお三方の神が立っておられました。
「我が分け身なる神、美羽嵐志彦、早羽嵐志彦、於羽嵐志彦。道案内にもなりましょうから、お連れになるとよいでしょう」
 大羽嵐志彦の神は、おっしゃいながら、くるくると手を回されました。するとお三方の分け身の神は、あっという間に元の珠にもどりました。
「いや、そこまでしていただいては……」
 小さな神さまは固辞しようとなさいましたが、大羽嵐志彦の神はうなずかれませんでした。
「あなたはご存じないが、きっとこれらの力が入り用になる時がまいります。どうぞお連れになってください」
 大羽嵐志彦の神は、お髪を一筋ほどいてしなやかな緒をこしらえられますと、三色の珠をその緒に連ね、小さな神さまのお首にかけられました。そこまでされると、もうお断りするわけにもゆかず、小さな神さまは、ありがたくその珠をいただきました。三つの珠は、小さな神さまの白い衣の胸に落ち着くと、ころころと涼しい音をたてました。
「ありがとう。ではいってまいります」
 小さな神さまは、一礼をなされると、青い竜に乗って、再び飛びたたれました。空は、あっという間に、希望を胸に灯した小さな神さまのお姿を、吸い込んでしまいました。大羽嵐志彦の神は、遠く空の向こうにお目を飛ばされながら、小さな神さまのために、ゆっくりと頭を垂れられました。

  (つづく)





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