イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

殴り殴られ

2008年04月19日 23時06分27秒 | ちょっとシリアス
だいぶ前の話だけど、新宿西口の駅前で詩を売っている人がいる、ということをちらっと書いた。その数日後、また彼女がいた。「この前はじめて見かけて、買おうと思ったんだけど、急いでたからそのまま通り過ぎちゃって。そしたら今日、またあなたがいたので」と僕は言った。彼女は少しだけ驚いた様子で言った「ほぼ毎日立ってます」。そうだったのか。詩集を買った。三百円。僕は勝手に、若い文学的表現欲に溢れた女性が、勇気を出して「恋の歌」を路上販売している、と思っていたのだが、家に帰って調べてみると、あの女性、ああやって新宿駅の前で二十年以上も詩を売り続けている、とても有名なお方だった。正確には、詩集ではなく「志集」という。手書きの詩をガリ版で印刷して、それをホッチキスでとめただけの薄い冊子。PCラックの前に置いて、気が向いたときに、パラパラと眺めている。もの悲しくて、そしてその名の通り、「こころざし」を感じる詩集だ。

それにしても、二十年以上もずっと街頭に立って詩集を売り続けるなんて、なんて重たく、切なく、悲しく、――誤解を恐れずに言えば――、暴力的なことなんだろう。彼女は、甘栗を売っているのではない、クレープを売っているのではない、シシカバブーを売っているでもない。彼女が売っているのは、「詩」なのだ。

僕は彼女の詩を買ったのではない。買わされたのだ。駅前の喧騒なかに佇む彼女を見た瞬間に、心がズキズキし、ざわめいた。そして、詩集を買った。買った後、気づいた。詩を買ったからって、おなかが膨れるわけじゃない。すがすがしい気持ちにもならない。僕は、いいことをしたわけでもない。彼女がただそこにいるだけで、彼女はそこからはみ出していた。そこに「在りすぎて」いた。そういった生々しさに、僕はあっけなくやられてしまった。引き渡したのは三百円にすぎないのだし、心を奪われた時間も、ほんのわずかのことなのだけど。

僕には、彼女のやっていることの意味を、定義することはできない。色々なことを思うけど、それに対して「こうだ」、と言い切ることはできない。彼女は僕の中に飛び込み、僕はわずかの間、やられた。まるで肉食動物に捕獲された小動物みたいに。彼女には勇気がある。とてつもない勇気が。鉄のような強さを感じるけど、おそらくその類の強さは僕にはないし、僕はそれを求めてもいない。

ともかく、一撃を、瞬時の衝撃を、食らった。そしてそれはいまだに僕の心にひっかかっている。僕にはその一発を食らうだけの「隙」があった。でもそんな隙がなければ、見えるべきものも見えなくなってしまう。ガードを下げて、打ち合いをすべきときだってある。殴り、殴られる、その気力と体力は僕にはまだある。そう思っているし、それに殴られることって、結構気持ちよかったりするものなのだ。

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